第十一話
真っ直ぐに偽りなく見つめられ、目を逸らせない。
責めるわけでなく、問い詰めるわけでなく、ただ幼い子を諭すように告げられた言葉から逃れる術がない。
俺は観念して真実を告げる決意をした。
「……ああ、その先輩ってのを殺したのは俺たちだ」
きさらが息を呑んだ。
霞色の瞳が揺れる。
この少女を傷つけるつもりはないんだけどな。
「一度、俺たちが草庵を出てったことがあっただろう。その時、東山で三人の羅刹に襲われたんだ。烏組と共闘して二人倒した。一人だけ逃がしたから、おそらく賽ノ地を襲ったってのは、そいつだ。でこぱちの背を斬ったヤツだろう。確か名前は……」
その時、騒がしい足音と共に後ろから羅刹女がなだれ込んできた。
「なになに、弾次がとうとう暴れたの? アイツ、バカだからね~」
最悪だ。
何もこの瞬間に入って来なくてもいいだろう。
天音と鉢合わせたきさらはますますもって青ざめた。
「お、あんときの無族の子」
天音は、またも面白い玩具を見つけたと言わんばかりに破顔した。
きさらは一度羅刹族に襲われている。羅刹族は一度狙いをつけた獲物の元にまた現れる、などと言う通説を信じるわけではないが。
嫌な予感がしてきさらを背に庇った。
案の定、天音は予備動作なしで右手を振り下ろした。
明確にきさらを狙っている。
間一髪、腕の付け根を蹴り飛ばして軌道を逸らした。
「……っぶねえな」
吐き捨てるようにそう言うと、体勢を崩した天音がこちらを睨みつけた。
放たれた殺気を感じて、咄嗟にきさらを後ろに突き飛ばした。
俺自身は逆に、肥大した右腕の肘の辺りを抑えて天音の懐に飛び込む。
この大腕で手元の攻撃は無理だろ。
突っ込んだ勢いで頭突きをかます。
意外にも石頭でこちらの脳も揺れたが、逆手が動く前に、間髪入れず肩からつっこんで部屋の外まで吹っ飛ばした。
離れを仕切っていた襖が外れ、外にいた篝が驚いて身を退いた。
倒れ込んだ天音は頬をひきつらせながら立ちあがった。
「何しやがる、夜叉族のガキ」
不思議な事に、一時は絶対に勝てないと思っていた羅刹族を怒らせている事に全く恐怖を感じなかった。
「そっちこそ巫山戯んな。次、きさらに手ぇ出したら殺すぞ」
斃れた襖を踏み、天音に対して啖呵を切り、すぐに背を向けてきさらの元へ戻った。
きさらと玖音が驚きで呆然と手を取り合っていた。
「悪い、突き飛ばしたけど、怪我しなかったか?」
ぼぅっと見あげてきた霞色の瞳。心なしか頬も赤らんでいる気がする。
「……きさら?」
大丈夫か?
目の前で手をひらひらさせると、はっと気が付いたように慌てて何度も頷いた。
「あっ、うん、大丈夫! 平気!」
「そうか」
ぽん、と頭に手を置いた。
霞色の瞳はまだ見上げている。
そして、少し首を傾げてきさらはしみじみと呟いた。
「青ちゃん、なんだか強くなったね」
「そうか?」
首を傾げると、でこぱちがそこに割り込んできた。
「おれは? きさら、おれは?」
「うん。ハチも強くなったよ」
きさらに褒められ、嬉しそうに笑ったでこぱち。
その眼の中に、羅刹の色は混ざっていない。
きさらがいれば、でこぱちが羅刹側に傾くこともない。
安心した。
江戸へ来てからややこしい事件に巻き込まれてばかりで、自分で思う以上に気を張っていたようだ。ようやく肩の力を抜くことが出来た気がする。力を抜くと、全身が重くなり、脳が活動を止めるべく誘惑を囁いてきた。
駄目だ。
安心した所為で急激に眠気が襲ってきた。
「きさら」
「なあに、青ちゃん」
ふぅっと意識が飛びそうになる。
傾いだ体をきさらの腕が抱きとめた。
「悪い……眠い……」
そう言えば、江戸に来てからろくに昼寝もしてねえな……と思いながら意識が底の方へと堕ちて行った。
微睡む意識の中で子守唄を聴いた。
少女の音吐で流れるそれは、酷く懐かしく、同時に酷く哀愁を誘う。
薄く目を開けると、月光が部屋の奥の丸窓の桟に腰かけた女性の影を映し出した。
緩く波打つ濡れ羽色の髪、蜂蜜色の肌。緋色の着物を着崩した女性は、小さな声で子守唄を歌っているようだ。正確な音、柔らかく耳に届く少女の声。
こちらの様子に気づいたのか、長い睫に縁どられ、伏した藤色の瞳が細められた。
「青」
少女の音吐で呼ばれた名に酷い不自然さを感じた。
――昔はもっと、別の名前で呼ばれていた気がする。
その名はいったい何だったろうか。
思い出す前に、もう一度、揺蕩う意識の底へと惹かれて行った。
次に目覚めた時には既に部屋の中が明るかった。
明るくなってみると、この部屋が思いのほか広々としているのが分かる。離れには二つか三つ、部屋があったのだろうが、仕切りを取り払ってあるようだ。畳敷きの部屋に調度品は少なく、部屋の隅に置かれた大きな鏡台だけが目立っていた。
自分自身は、見た事もないような柔らかい布団に包まれて眠っていた。あの人と同じ、甘い芥子の香りがする。
これはあの人のものなのだろうか。
そしてこの離れは、あの人の住処なのだろうか。
「おはよう、青ちゃん」
そっと襖が開いてきさらの声がした。
「急に倒れるからびっくりしちゃった。きっと疲れてたんだね」
明るく笑うきさら。
まるで賽ノ地に戻ってきたかのような錯覚を受けた。
が、ここは江戸だ。
「悪い、話の途中だったな」
「いいの。奏さんと天音さんからだいたい聞いたから」
奏さん。天音さん。
ついぞ殺されそうになっておきながら、次の日にはこれだ。相棒もそうなのだが、この少女の心の機微にも毎度、驚かされるばかり。
つい一時前、奏の中の羅刹族を目の当たりにして絶望したばかりだというのに、羅刹族との和平が無理難題ではないと信じ直してしまいそうになる。
「もう少し休む?」
「いや、いい。起きるよ」
既に空気が暑い。昼を回っているだろうか。緋色の上着を脱いで胸元をはたいた。
「でこぱちは?」
「玖音と一緒に出掛けたよ」
あいつ、自分が牢破りをしてきたこと、忘れてねえだろうな。
「羅刹は?」
「母屋の方に行ってる。青ちゃんのお母さんと一緒みたい。青ちゃんのお母さん、すごく美人だね。びっくりしちゃった」
お母さん、という言葉でどきりとした。
その単語で表すには、俺の中での整理がまだついていなかった。
「あの人の事、誰に聞いた?」
「あの人って、お母さんの事? 駄目だよ、あの人なんて言っちゃ」
布団を片付けながら、きさらはいつも通り、諭すように答えた。
「烏之介さまが教えてくれたの。此糸さんは青ちゃんのお母さんなんだって。だから、江戸城から逃げてきた青ちゃんたちをこの場所に匿ってくれてるんだって」
やっぱりあいつか。
ますます謎が深まる。
何故かは全く、一切分からないが、烏之介は俺の出生を知っていたらしい。偶々、賽ノ地にいた俺の事を知っているなど、全く胡散臭さに磨きがかかるだけ。
最も、聞いても言わないだろうし、知りたくもない。
ため息を一つ。
「……あの人、やっぱり俺の母親なんだな」
「どうしたの、青ちゃん?」
時に母より母親らしいきさらは、座り込んだ俺の隣に膝をついた。
相手がきさらなら、話せるかもしれない。この上手くまとまらない胸の内を吐き出してしまいたい。
「急に言われても、どうしたらいいのか分かんねえんだ」
俺もでこぱちも、きさらも。本当の両親を知らない。
俺とでこぱちは物心ついた頃には既に一人だったし、きさらはジジィと一緒に暮らしていた。竹千代にしても鬼の子として売りに出されていたし、誰一人、血のつながりのある家族を持っていなかった。
それが、突然目の前に母親が現れた。
自分とは無縁のものだと思っていた。
何より、猩々緋色の過去の中で、もうあの人はいないのだと何故か勝手に納得していた。刃を突き立てられたあの瞬間、あの人は共に死んだのだという妙な確信があった。
心の何処かに優しい母親だったあの人の面影がしこりのように生きている。
一体、どんな顔をしてあの人に会ったらいいのかわからない。
だったら関わらなければいい、と理屈では分かっていても捨て置けなかった。こんな事は初めてだ。何もかもに興味を持たず、ただ淡々と生を貪ってきたというのに、あの人からだけは逃げられる気がしなかった。
「……あの人、どんな人だ?」
「もう、会ってきたらいいのに」
きさらはそう言ってくすくす笑った。
「口調は少し、怖いかな。でも、すごく面倒見のいい人だと思うよ。芸妓さんたちの先生もやってるんだって。あとね、きっと、青ちゃんの事が大好きだよ」
がんばって、ときさらに背を押され、離れを追い出された。
母屋からは三味線の音がした。きさらの言うように、芸妓が練習でもしているらしい。縁側からすぐの障子戸の向こうから何度も何度も、同じ旋律が響いていた。
三味線の合間に、朗らかな笑い声がする。
邪魔をするのもどうかとしばらくの間逡巡していると、やがて三味線の音が止んだ。
そして目の前の障子戸が開かれた。
立っていたのは、あの人。
「まあ」
驚いた顔をしたが、すぐに部屋の中から一人の少女を呼び寄せた。
呼ばれた少女は、胡桃色の髪を大きく結い上げていたが、まだ顔にあどけなさを残していた。重そうな濃い梅色の着物を着崩し、襟の奥から艶めかしい白い肩が覗いている。
少女は黒目がちな大きな紫黒の瞳で俺の顔をじっと見つめているようだ。どうせ、赤目が気になるのだろう。
母は少女を俺の眼の前に押し出し、ゆっくりとした言葉で紹介をした。
「繻子、これは息子の青。こちらは繻子蘭。挨拶なさい」
「繻子蘭と申します。よろしくお願いします、青様」
「ああ」
存在に返したが気にせず、あの人は繻子に別れを告げて障子戸を閉めた。
図らずも二人きりになってしまい、動揺する。
彼女は、表情を変えずに静かに言った。
「いらっしゃい、青。少しお話をしましょう」
昨日の晩、夢現に見た笑顔は気のせいだったのだろうか。あまり笑わない伏せられた藤色の瞳を見ているのが酷く気まずくなって目を逸らした。
喉が詰まってしまって声が出ない。何を言葉にしていいか分からない。
彼女は床に広がる緋色の着物を引きずり、離れへと戻るようだ。
離れの襖は、昨日暴れたせいかあちらこちらが解れている。引手も歪んでしまったようだ。
「物を壊しては駄目よ。後は、お友達と喧嘩をするのも駄目でしょう?」
ゆっくりと諭すように少女の声が告げる。
かたかたと鳴るようになってしまった襖をあけると、きさらが迎えてくれた。
「此糸さん、おかえりなさい」
正座して深々と頭を下げたきさらに軽く手を遣り、此糸と呼ばれた女性は緋色の着物の裾を広げて畳の上に直に座り込んだ。
「青、貴方もお掛けなさい。そして貴方のお話を聞かせて頂戴。きさらさんも、私の知らないこの子の事を話して下さる?」
表情はなく、さらには少々高圧的な物言いだったが、この女性が興奮しているのは伝わってきた。
俺と同じだ。
久しぶりに会う血の繋がった存在に、心落ち着きはしないのだろう。
諦めて腰を落とし、畳に胡坐をかいた。
すると、襖の隙間から金目と青目が覗いた。
「春童、秋童、貴方たちもいらっしゃい」
此糸が手招きをすると、襖の隙間からは菖蒲色の着物を着た禿が二人、するりと入り込んできた。
俺の隣を素早く通り抜けて、緋色の着物に寄り添う。
一人は左目が青、右目が金。もう一人は左目が金、右目が青。まるで鏡に映したかのような二人だ。警戒を顕わに俺ときさらを睨みつけている。
「久しぶりに会えたのですから、話す事は多いでしょう。さあ、お話を聞かせて頂戴」
此糸はそこでようやく、ほんの少しだけ唇の端をあげた。