9 いつもの夜に
登剣礼まで、あと三日。
朝の訓練場は、どこか浮ついた空気があった。
団員たちの動きはいつも通りだったが、会話の端々に王都の話が混じっていた。
誰かが礼装の手入れをしていて、誰かが王都の飯屋の話をしていた。とても参考になった。ありがとう。
重さを忘れるわけじゃない。ただ、朝の光の中では少し遠くなる。
副団長の朝の訓練は相変わらず容赦がなかった。
訓練を始めた当初と比べると訓練内容も大きく変わった。
素振りを500回、走り込みを20周、筋力強化に目を慣らす訓練など剣だけの訓練ではなくなっていた。
終わる頃には全身が重かった。それでも以前と比べれば、まだ動ける。人間は慣れる生き物だと思う。
訓練が終わって甲冑の手入れをしていると、後ろから声がかかった。
「アーサー、昼飯は食ったか」
振り返るとルーカスさんが立っていた。
「これからです」
「じゃあ一緒に行こうか。今日の煮込みは美味しいらしいから」
「誰情報ですか」
「ドルフさん。あの人の食への嗅覚はすごいからね」
笑いながらルーカスさんが歩き出した。俺もその隣に並んだ。
思わずスキップしてしまいそうな身体を一生懸命に抑えた。
食堂は昼時で賑わっていた。
ルーカスさんは慣れた様子で人混みを抜けて席を取った。確かに今日の煮込みは濃くて、悪くなかった。ドルフさんの情報は正しかった。
「アーサーは王都に行ったことはある?」
ルーカスさんが不意に聞いた。
「ないです」
「そっか。王都はでかいよ。エルドラムの3倍はある。最初は道に迷う」
「ルーカスさんは何度も行ったんですか」
「3回だけね。団の用件。迷子になったのは最初の一回だけだけど」
「ルーカスさんでも迷子になるんですか!」
「なる。あそこは縦にも横にも広いからね。地図を持っていっても役に立たない。結局は足で覚えるしかない」
先輩はそう言って煮込みを一口食べた。
「アーサーが王都に行ったら、まず西の市場に行くといい。色々なものが売っている。珍しい武具も出回る。アーサーの戦い方に合いそうなものを探すのも悪くない」
「……登剣礼って買い物できる暇ってあるんですか?」
「……どうなんだろうね」
ルーカスさんの珍しい表情を見て俺は少し笑った。ルーカスさんも笑った。
こういう時間が、エルドラムには確かにあった。
副団長の修行は厳しく、南部の話は重い。
それでも食堂の煮込みは温かくて、隣で笑う人がいて、そういう時間が確かに今ある。
「ルーカスさんは……」
俺は言いかけて、止まった。
「ん?」
「……いえ、なんでもないです」
聞こうとしたことが何だったか、自分でもうまく言えなかった。
南部のことを聞きたかったのか。それとも別の何かを聞きたかったのか。
先輩は特に追及しなかった。煮込みの残りを食べて、水を一口飲んだ。
「アーサーは偉いね」
唐突に言った。
「え?」
「ああ。自分では気づいていないんだろうけど。色々なことを抱えて、それでも剣を振っている。俺はそういう人間が好きだ」
照れくさいような、くすぐったいような気持ちになった。
俺もルーカスさんに対して色々な褒め言葉を言いたいが、引かれたくないという気持ちが芽生えてしまう自分の性格が恨めしかった。
「ありがとうございます」
「副団長も同じことを思っているはずだ。あの人は言わないだけで」
「それは絶対にないと思いますが」
「どうだろうね」
先輩はそう言って立ち上がった。返すために食器を持っていきながら、何気なく振り返った。
「アーサー」
「はい」
「登剣礼、一緒に頑張ろうね」
それだけ言って、先輩は食堂を出ていった。
俺はしばらく、席に座ったままでいた。
何気ない言葉だった。去り際の、軽い一言だった。
当然、登剣礼の事は常に頭にあった。それでも何故かその一言が心に沈んでいく。
何故だろう、という疑問の答えを探したが見つからない。
見つからないものを探していても、無意味だ。
今はただ、ルーカスさんが「一緒」という言葉を俺に言ってくれた事実を噛み締め、この感情をパワーに変えよう。
そうと決まれば、訓練所に行って剣を振ろう。
足が軽やかに月明かりが照らす訓練所に運んでくれた。
剣を抜き、剣を振る。
松明が二本、夜風に揺れていた。
王都に行けばこの景色もしばらく見れなくなると考えると……悲しくはならないな。
素振りを繰り返す。頭が勝手に記憶を引っ張り出す。
南部の件……何が起きているのか、誰が何をしているのか、副団長が俺に話した意味は、ルーカスさんはどこまで関わっているのか。
引っ張り出された記憶から不安や疑問が連想された。
ルーカスさんは普段通りの、何気ない顔で。まるで何もないような顔でいる。
剣を振った。騎士の剣でも喧嘩剣法でもなく、ただ振った。
松明の影が石畳の上で揺れた。
穏やかな夜だった。
風が草を揺らして、秋を知らせる匂いが鼻を通る。
虫の声が耳に響く。
ふと空を見上げると星々が煌びやかに輝いている。
いつもの夜だった。
俺だけがただいつもの俺じゃないだけだ。




