27 隣で
明日、ザレルと当たる。
掲示板を見た瞬間、体が熱くなった。
怒りでも恐怖でもない。もっと奥の方から来る、名前のつかない感情だった。
宿に戻って、ベッドに座った。剣を手に取った。手入れをする気にはならなかった。ただ握っていた。
窓の外は暗かった。王都の夜の音が遠くで鳴っている。
ギャッドゥが部屋に入ってきた。何か食べ物を持っていた。
「買ってきた。食え」
パンと干し肉だった。受け取った。
「……ありがとう」
「食わないと明日動けないだろ」
それはそうだ。パンを齧った。味はよくわからなかったが、腹には入った。
ギャッドゥもベッドに腰を下ろして、干し肉を齧り始めた。
しばらく、二人とも黙って食べていた。
この部屋で過ごした夜も、もうだいぶになる。
最初の夜は「落ち着かない」と2回言って、ギャッドゥに「寝ろ」と言われた。
あの頃はまだ、こいつとまともに話もしていなかった。
今は黙っていても、居心地が悪くない。
「明日の試合のこと、聞いたか」
「ああ。ザレルだろ」
「知ってたのか」
「掲示板を見た。お前より先に」
「……召使いじゃないのに、わざわざ」
「殺すぞ」
少し笑った。ギャッドゥは笑わなかったが、怒ってもいなかった。
干し肉を食べ終えて、ギャッドゥが水を飲んだ。
「勝てるのか」
前にも同じことを聞かれた。レイン戦の前夜にも。
あの時は「わからない。けど、負ける気はない」と答えた。
「……わからない」
今日は正直に言った。
「あの時と違って、何が足りないかはわかってる。剣の統合も、少しは形になってきた。星脈も、一瞬だけなら触れられる。ミラさんを半歩下がらせた」
「……」
「でも、ザレルは別だ。あいつは全部が完成してる。俺はまだ途中だ」
ギャッドゥが何も言わなかった。しばらく黙っていた。
窓の外で、荷車が通る音がした。
「エルドラムにいた時のことを覚えてるか」
唐突だった。ギャッドゥの声が静かだった。
「覚えてるよ。毎日いじめられてた」
「そうじゃなくて……お前が毎朝、誰よりも早く訓練所に来てたこと」
「……ああ」
「魔法も使えない。外殻も張れない。周りの全員がお前を見下してた。俺も含めて」
否定しなかった。事実だ。
「それでもお前は来た。毎日来て、剣を振ってた。雨の日も、俺がいじめた次の日も」
「……他にやることがなかっただけだよ」
「嘘つけ」
ギャッドゥが俺を見た。真っ直ぐな目だった。
「あれが悔しかった。何も持ってない奴が、何も持ってないまま立ってることが。俺は魔法も剣もあるのに、お前の方がずっと立ってた」
「……買い被りすぎだ」
「買い被ってない。お前が何も持ってなかったのは本当だ。だが今は違う」
ギャッドゥが立ち上がった。窓の方に歩いて、外を見た。
「剣がある。仲間がいる。星脈もある。あの時の何も持ってないお前が、ここまで来た」
「……仲間?」
「ミラさんが修行つけてくれたり、ノアさんとリディアさんから色々教えてもらっただろ? あと……俺もそうだろ?」
最後に自分を入れた。照れくさそうに、窓の外を見たまま言った。
何か返そうとしたが、喉が詰まった。
泣きそうだった。泣かなかったが、危なかった。
「……お前、いつからそんなに喋るようになったんだ」
「うるさい」
ギャッドゥが振り返った。いつもの仏頂面に戻っていた。
「明日の試合、俺が言えることは一つだけだ」
「何だ」
「いじめた分の借りを返す機会を、お前が潰すな」
「……何だそれ」
「お前がザレルに負けたら、俺はいつ謝ればいいんだ。だから勝て。俺のけじめのために」
身勝手な理由だった。だが、ギャッドゥらしかった。
「……わかった」
「わかったじゃない。勝つって言え」
「……勝つ」
「声が小さい」
「勝つ」
「……まあ、それでいい」
ギャッドゥがベッドに戻った。横になって、天井を見た。
「寝るぞ。明日に備えろ」
「ああ」
俺もベッドに横になった。
天井を見上げた。
無駄に高い天井だった。
最初の夜に「落ち着かない」と思ったこの天井が、今はそうでもなかった。
隣のベッドからギャッドゥの寝息が聞こえ始めた。こいつはいつも寝るのが早い。
目を閉じた。
明日、ザレルと戦う。
勝てるかはわからない。
だが、一人じゃない。
エルドラムの訓練所で、毎朝一人で剣を振っていた頃とは違う。
副団長の訓練がある。ミラさんの指摘がある。ノアの言葉がある。リディアの情報がある。
そしてギャッドゥが、見届けてくれる。
ルーカスさん。
あなたが一緒にと言ってくれた王都に、俺は今います。
一緒には来られなかった。でも、一人でもない。
明日、剣を振ります。
あなたが好きだと言ってくれた、俺の剣を。
意識が沈んでいく。
王都の音が、遠くで鳴っていた。




