26 大きな半歩
闘技場の裏手。いつもの場所だった。
左腕はまだ完全じゃない。握れるし振れるが、強い力を入れると鈍い痛みが走る。
それでもミラさんとの朝の訓練は続けていた。
騎士の型の軸で、喧嘩剣法の角度を腰で作る。何百回と繰り返した動き。レイン戦で一瞬だけ繋がったあの感覚を、もう一度。
打ち込む。受けられる。指摘される。打ち込む。
いつもの繰り返しだった。
ミラさんが剣を収めた。俺も止まった。
「少し話がある」
ミラさんの声がいつもと違った。訓練の指摘とは別の温度だった。
「次の試合の相手、見た?」
「まだ見てないです」
「私よ」
止まった。
ミラさんの顔を見た。冷たい表情。いつも通り。だが目だけが、いつもと少し違っていた。
「……また、そういう組み合わせなんですね」
「登剣礼はそういう場所よ。今更驚くことじゃない。対戦表に名前が出た以上、私は全力でやる」
「……わかりました」
「今日の訓練はここまで。次に会うのは闘技場の上」
ミラさんが背を向けた。白い髪が揺れた。
いつもなら「明日も同じ場所で」と言う人が、今日はそれを言わなかった。
当然だ。明日は師匠じゃなくて、対戦相手なのだから。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
宿に戻ると、ギャッドゥが防具の手入れをしていた。
「次の相手、ミラさんだった」
ギャッドゥの手が止まった。
「……あの白い髪の?」
「ああ」
「星脈覚醒者で、登剣礼の上位候補。勝てるのか」
「勝てない。多分」
「じゃあ何をする」
「通用するかどうか、確かめる」
ギャッドゥは何も言わなかった。防具の手入れに戻った。
俺はベッドに座って剣を握った。
この数週間、ミラさんに打ち込み続けた。全部受けられた。一度も打ち返されなかった。
明日は打ち返してくる。全力で。
怖いか、と自分に聞いた。
怖くなかった。楽しみだった。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
闘技場の中央に立つ。兜を着装する。
対面にミラさんが立っていた。
白い長い髪。冷たい表情。整った顔立ち。初めて観客席から見た時と同じ人が、今は正面にいる。
剣を構えていた。訓練の時とは違う構え。重心がわずかに低い。本気の構えだった。
ノアが立会人の位置にいた。仕事の顔。だが俺には一瞬だけ目を向けた。
「武約戦を執り行います。争点は王都登剣礼における点数のみ、よろしいですか」
「ああ」
「はい」
「始め」
ミラさんが動いた。
速かった。訓練の時とは比べ物にならなかった。
訓練では全部受けていた。打ち返してこなかった。それは手加減だったのだと、この1合目で理解した。
剣が来た。受けた。腕が痺れた。レインより重い。だが重さの質が違う。力ではなく、正確さで重い。全ての力が一点に集中している。
2合目。横から来た。避けた。風が頬を掠めた。
3合目。上から。受けた瞬間、左腕に痛みが走った。堪えた。
速い。重い。正確。そして――無駄がない。
ミラさんの剣には、余分なものが一切なかった。レインの剣は「正しい騎士の完成形」だった。ミラさんの剣は、それすら超えている。正しさではなく、洗練だった。
俺は切り替えなかった。
最初から混ぜた。
騎士の型の軸で踏み込んで、腰を捻って喧嘩剣法の角度を乗せた。
ミラさんの剣に弾かれた。だが、弾かれ方がいつもと違った。
いつもの訓練なら、軽く受け流される。今回は、弾かなければならなかった。
つまり、通った。一瞬だけ、ミラさんの防御を揺らした。
「……今の、いいわね」
試合中にミラさんが喋った。初めてだった。
もう一度。同じ動きを。
騎士の型で入って、喧嘩剣法の角度で抜ける。
ミラさんが反応した。今度は弾かれなかった。受け止められた。だが、受け止めるために半歩下がった。
半歩。ミラさんが後退した。
嬉しかった。
その嬉しさで一瞬気が緩んだ。
次の瞬間、ミラさんの剣が加速した。
見えなかった。何が来たのかわからなかった。
気づいた時には、剣が飛んでいた。手首を打たれていた。ザレル戦と同じだ。
だが違ったのは、ミラさんの剣先が首ではなく、俺の胸元で止まっていたことだった。
静かに、触れるか触れないかの距離で。
「そこまで」
ノアの声が響いた。
観客席から拍手が起きた。大きかった。
「さすがミラ・ヴェストだな」
「負けたけど、いい試合だったな」
「あいつ、途中でミラを下がらせなかったか?」
ミラさんが剣を引いた。俺を見ていた。
冷たい目。だがその奥に、何かがあった。初めて会った時にはなかったもの。
「……成長した」
小さい声だった。俺にしか聞こえない声だった。
「ありがとうございました」
「お礼はいらないと言ったでしょう」
ミラさんが背を向けた。去り際に、振り返らずに言った。
「次は、もっと長く持ちなさい」
次。
つまり、まだ見てくれるということだ。
剣を拾い上げた。
負けた。また負けた。
だがあの時の……ザレルと戦った時とは全く違った。
あの時は何も届かなかった。今日は、一瞬だけ届いた。
ミラさんを半歩下がらせた。それだけが、今の俺の全てだった。
控え室に戻ると、ギャッドゥが待っていた。
「負けたな」
「ああ」
「でも悪い顔はしてない」
「……半歩だけ、下がらせた」
「それだけか」
「それだけだ」
ギャッドゥが少しだけ笑った。
「ザレルにも、半歩下がらせてやれ」
「半歩じゃ足りない。膝をつかせる」
「……言うようになったな」
俺も少し笑った。
左腕がまだ疼いていた。だが、握る力は強くなっている気がした。




