⑥
……インターフォンの音が、熱で重い頭にゆっくり染み込んだ。
まぶたが重くて、身体も思うように動かない。
それでもなんとか起き上がり、モニターを覗く。
そこには、心配そうに眉を寄せた芹沢さんが立っていた。
シュンとしたワンコくん……。
その表情に、少しだけ気持ちが和らぐ。
「はぁ~い……」
通話ボタンを押すと、すぐに慌てた声が返ってきた。
『大丈夫ですかっ!? あっ、芹沢です!』
ダルそうな声に驚いたのだろう。
モニター越しに見る限り、彼の怪我はもう大丈夫そうで、それだけで少し安心した。
「風邪をひいてしまって……熱があるので、寝てました」
『あぁ! 起こしてしまい、すみません! あの……お見舞いに色々持ってきたので、ドアノブに掛けておきますね! 後で回収してください!』
「……待ってください。 直接、受け取ります」
少し考えてからそう伝え、カーディガンを羽織って玄関へ向かった。
ドアを開けると、重そうなレジ袋を提げた芹沢さんが立っていた。
直接受け取って正解だった。あれをドアノブに掛けられたら壊れていたかもしれない。
「突然すみません! 『ロワール』へ行ったら、佐伯さんが体調不良で休んでるって聞いて……。 大丈夫なんですか?って聞いたら、オーナーに“代わりに様子を見に行ってくれ”って頼まれて……来てしまいました」
心配そうに顔色を窺いながら、早口で説明してくる。
「……オーナーが押し付けたみたいで、こちらこそすみません」
「いやっ、違います! 俺が……心配で、会いたかったんです!」
勢いよく詰め寄られ、香澄は驚いて後ずさる。
熱のせいで脚に力が入らず、よろけた瞬間──
芹沢さんが腕を掴んで引き寄せ、そのまま抱きとめてくれた。
「……?」「……っ!?」
驚いたように目が合う。
熱で潤んだ視界が揺れて、距離感が曖昧になる。
息が止まったような静けさの中で、互いに固まり、しばらく見つめ合ってしまった…。
***
「本当に、失礼しました!」
ベッドの横で、芹沢さんが深々と頭を下げる。
「大丈夫です。 気にしないでください」
香澄は熱で赤くなった顔のまま、弱々しく微笑んだ。
玄関で抱きとめた時、彼女の体温が驚くほど熱くて──
翔は胸がぎゅっと締めつけられた。
「あっ、熱い……! とにかく横になってください!」
慌てて手を引き、ベッドへ誘導した。
熱はまだ高い。
ツラいだろうな……。
翔はレジ袋から、飲料や冷却ジェルシート、レトルトのお粥などを取り出し、机に並べた。
「よかったら使ってください。 食欲ないかもしれませんが……お粥もありますから」
すると香澄は、吊り目をふにゃりと下げて笑った。
「……こんなに、たくさん。 ありがとうございます……」
熱のせいで潤んだ目、赤い頬。
無防備な笑顔が可愛くて、翔はしばらく見惚れてしまった。
──あぁ、俺……佐伯さんのこと、本当に好きなんだ。
風邪で休みだと聞いて、心配でたまらなかった。
顔を見るまで安心できなかった。
毎日でも『ロワール』へ行くつもりだった。
……重い?
いや、でも本当にそう思ったんだ。
自分の気持ちに呆然としていると──
「あの……風邪がうつったらいけないので、そろそろ……」
香澄が起き上がろうとした瞬間、翔は咄嗟に肩へ手を伸ばし、そっと押しとどめてしまった。
驚いたように目が合う。
熱で潤んだ瞳が揺れていて、吸い込まれそうだった。
その距離の近さに、胸の奥がふっと熱くなる。
息が近い。
鼓動がうるさい。
距離が、もう戻れないところまで近づいていた。
気付いた時には──
唇が触れていた。
熱のせいか、触れた瞬間に体温が伝わってくる。
柔らかくて、息が近くて、胸の奥が一気に熱くなる。
角度を変えて重ねると、香澄が小さく息を漏らした。
その反応が愛しくて、翔はそっと抱きしめる。
「うわ……可愛い……」
思わず口に出てしまい、香澄はさらに真っ赤になる。
(……猫耳つけたら、もっと可愛いんだろうな)
心の中だけのつもりだったその言葉が、声になって漏れていたことに、翔は気付いていなかった。
「……え? ね、猫耳……?」
香澄がぽつりと呟いた瞬間、翔は「しまった」という顔で固まった。
「い、いやっ! 違っ……違うんです! その……いや、違わないんですけど……!」
慌てふためく翔を前に、香澄は熱で赤い頬のまま、さらに真っ赤になって俯いた。
追い込まれた猫みたいに固まった香澄を見て、翔の胸はまたぎゅっと締めつけられた。
耳元に唇を寄せ、震える声で告げる。
「……佐伯さんが、好きです」
くすぐったいのか、香澄はふるっと震え、涙目で顔を肩に埋めた。
「……弱ってるときに言うのは、ズルいよ……」
その言葉が可愛くて、胸が締めつけられる。
「……もう少し、キスしていいですか?」
小さく頷くのを確認して、そっと唇を重ねる。
深くはしない。
ただ触れるだけの、優しいキスを何度も。
香澄の息が熱くて、触れた指先にまで伝わってくる。
額に触れると、彼女は「ん……」と小さく息を漏らした。
その反応が愛しくて、もっと触れたくなる。
けれど──
「……っあ、ダメ……!」
涙声で止められ、翔はハッと我に返った。
目を潤ませ、息を荒げた香澄が、苦しそうに首を振っている。
「……ごめんなさい! 佐伯さんが可愛すぎて……やりすぎました!」
翔は必死に謝った。
体調が悪いのに、気持ちが暴走してしまった。
熱が上がったように見える。
本当に申し訳ない。
「……お大事にしてください!」
これ以上一緒にいたら、理性が持たない。
翔は断腸の思いで部屋を後にした。
……やってしまった。
体調が悪いのに、弱っているのに、あんなふうに触れてしまった。
『……っあ、ダメ……!』
涙声で止められた時、翔は一気に現実へ引き戻された。
必死に謝りながらも、胸の奥では別の感情が暴れていた。
触れた唇の柔らかさ。
熱で潤んだ瞳。
肩に触れたときの震え。
全部が、頭から離れない。
理性は“最低だ”と責めてくるのに、心臓はまだドクドクとうるさく鳴っている。
部屋を出て、冷たい夜風に当たった瞬間──
胸の奥の熱が、さらに強くなった。
「……香澄さんのことが、好きだ」
口に出した途端、自分の鼓動が跳ねた。
後悔もある。
情けなさもある。
でも、それ以上に──
香澄さんのことを想う気持ちが、どうしようもなく溢れてくる。
帰り道、足取りは落ち着かないまま、ずっと胸の奥がざわざわしていた。




