⑤
31日の夜。
最後のテント営業をしていた翔は、嶋田オーナーからの連絡を受けて胸がざわついた。
──佐伯さんを守らなきゃ。
警官が到着するまで、できるだけ穏便に場を抑えてほしいと言われた。
刺激しないように対応するつもりだったが、相手の男性はかなり酔っていて、“穏便に”なんて無理な話だった。
自分は強くないし、格好良く取り押さえるなんて到底できない。
それでも──
佐伯さんに何かあっては嫌だ。
その一心で修羅場へ駆けつけた。
結果的に、佐伯さんがひとりで対応せずに済んだのは本当に良かった。
しかし、翔は思う。
ラブホって、想像以上にトラブル多くないか?
オーナーから聞いていた以上に修羅場が多い。
佐伯さん、本当に大丈夫なんだろうか……。
「でも、わりと飄々としてるんだよな~」
猫っぽいからだろうか、と考えていると──
「俺のことか?」
隣を歩く上司に聞かれ、翔はビクッとした。
……口に出てた。
「……そうかもです!」
適当にごまかした。
今日は上司と一緒に、テント営業でお世話になったラブホへお礼回りをしていた。
色々あったが、ノルマは達成し、過剰在庫もほぼ捌けた。
上出来だ。
達成感からか、最後の夜の修羅場も意味があったように思えてくる。
治りかけの傷口をそっと触る。
もう痛みはほとんどない。
「……傷口、大丈夫か?」
上司が心配そうに覗き込む。
「すぐ手当てしてもらったんで、もう大丈夫です!」
笑って答えると、上司は安心したように頷いた。
「夜のラブホって、結構トラブルあるよな~」
持ち回りでテント営業した社員たちの共通認識だった。
「トラブルが起きても、大事にしないでほしい。それが営業を許可する条件だよ」
嶋田オーナーから提示された条件だ。
翔も他の社員も承諾し、なるべくトラブルを避け、取り合わないようにして営業した。
翔のように怪我をするのはイレギュラーで、ほとんどは無難にこなしていたらしい。
──俺は抜けてるところがあるしなぁ。
でも、佐伯さんに手当てしてもらえたのは……正直、役得だった。
頭を撫でられた時の、あのふわっとした気持ち。
落ち着かないのに、嫌じゃない。
むしろ、もっと撫でてもらえばよかったかもしれない。
……俺って、こんな甘えただったっけ?
自問しながらも、あれからずっと佐伯さんに会いたいと思っていた。
手当てのお礼という名目もあるし、翔は『ロワール』へ向かうことにした。
とっておきの差し入れを手に、事務所へ入ると──
オーナーがひょいと顔を上げた。
「佐伯ちゃん、風邪で休んでるよ」
「えっ……大丈夫なんですか!? 心配ですっ!」
思わず詰め寄ると、オーナーはニヤッと笑った。
「そんなに心配してくれるなら、忙しくて動けない僕の代わりに様子を見に行ってくれよ~!」
差し入れを返され、お願いされる形になった。
香澄のアパートは、あの夜に手当てしてもらった時に覚えている。
あの時、部屋に通されただけで緊張した。
優しく手当てしてくれた香澄さん。
頭を撫でられ、驚いて手を掴んでしまい、離せなかった。
顔が赤くなっていたのも、きっと気付かれていた。
それでも──
会いたい。
***
その夜──
静けさの中で、
香澄は風邪でダウンしていた。
あの日、ソファで寝落ちしたせいだろう。
風邪で仕事を休むなんて、いつ以来だろう。
ラブホの受付になってからは初めてかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に昔の痛みがふっと浮かんだ。
前職は保険の営業。
ノルマは厳しく、残業は当たり前──
休日出勤も当然。
成績が振るわないと代休なんて取れない。
香澄は、そこで壊れた。
心身の悲鳴を無視し続け、抑え込み、働き続けた結果──
じわじわと心が削られ、ある日突然、身体が動かなくなった。
仕事を辞め、思考が戻るまで一年かかった。
ゆっくり就活を始めた頃、嶋田オーナーと出会った。
面接で聞かれたのは、志望動機でも離職理由でもない。
「好きな食べ物は何?」
「犬と猫どっちが好き?」
「佐伯さん、猫っぽいよね!」
まるで、迷子の子供に訊ねるような質問ばかりだった。
「じゃあ、とりあえず来週からお試しでよろしくね~!」
気付けば採用されていた。
懐の深い人なのだと、後になってわかった。
そして香澄は、この仕事を存外に気に入っている。
***
翔はドラッグストアの袋を握りしめながら、香澄のアパートへ向かって歩いていた。
風邪に良さそうなものを色々買い込んでいる時、
つい猫グッズに目がいってしまったのは……
うん、気のせいだと思う。
それでも胸の奥が、少しだけそわそわしていた。
香澄のアパートに着く頃には、握りしめた袋の持ち手が、手汗で少し湿っていた。
階段を上がるたびに、胸の奥がぎゅっと縮む。
心配なのに、どこかで会えることを期待している自分がいた。
その矛盾が、足取りを重くしたり、早くしたりする。
部屋の前に立つと、
静かな廊下に自分の呼吸だけが響いた。
……大丈夫かな。
ちゃんと休めてると良いんだけど。
ノックしようと手を上げた瞬間、指先がぴたりと止まる。
もし迷惑だったら?
寝ていたら?
そもそも、俺なんかが来ていいのか?
そんな不安が喉の奥に引っかかった。
「……よし」
小さく呟いて、深呼吸をひとつ。
それから、インターフォンのボタンを押した。
ピンポーン、ピンポーン──
呼出音が静かな廊下に吸い込まれていく。
返事はない。
翔はその場に立ち尽くしたまま、手の中の袋をぎゅっと握りしめた。
……寝てるのかな。
それとも、気付いてないだけだろうか。
耳を澄ますと、
ドアの向こうから微かな気配がするような、しないような……
そんな曖昧な静けさが続いた。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
不安と期待が、同じ場所でせめぎ合っていた。
もう一度だけボタンを押そうかと迷ったその時──
『……はぁ~い』、と小さな声が聞こえた。
翔の呼吸が、ふっと止まった。




