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31日の夜。

最後のテント営業をしていた翔は、嶋田オーナーからの連絡を受けて胸がざわついた。


──佐伯さんを守らなきゃ。


警官が到着するまで、できるだけ穏便に場を抑えてほしいと言われた。

刺激しないように対応するつもりだったが、相手の男性はかなり酔っていて、“穏便に”なんて無理な話だった。


自分は強くないし、格好良く取り押さえるなんて到底できない。

それでも──

佐伯さんに何かあっては嫌だ。


その一心で修羅場へ駆けつけた。

結果的に、佐伯さんがひとりで対応せずに済んだのは本当に良かった。


しかし、翔は思う。


ラブホって、想像以上にトラブル多くないか?

オーナーから聞いていた以上に修羅場が多い。

佐伯さん、本当に大丈夫なんだろうか……。


「でも、わりと飄々としてるんだよな~」


猫っぽいからだろうか、と考えていると──


「俺のことか?」


隣を歩く上司に聞かれ、翔はビクッとした。

……口に出てた。


「……そうかもです!」


適当にごまかした。


今日は上司と一緒に、テント営業でお世話になったラブホへお礼回りをしていた。

色々あったが、ノルマは達成し、過剰在庫もほぼ捌けた。

上出来だ。


達成感からか、最後の夜の修羅場も意味があったように思えてくる。

治りかけの傷口をそっと触る。

もう痛みはほとんどない。


「……傷口、大丈夫か?」


上司が心配そうに覗き込む。


「すぐ手当てしてもらったんで、もう大丈夫です!」


笑って答えると、上司は安心したように頷いた。


「夜のラブホって、結構トラブルあるよな~」


持ち回りでテント営業した社員たちの共通認識だった。


「トラブルが起きても、大事にしないでほしい。それが営業を許可する条件だよ」


嶋田オーナーから提示された条件だ。


翔も他の社員も承諾し、なるべくトラブルを避け、取り合わないようにして営業した。

翔のように怪我をするのはイレギュラーで、ほとんどは無難にこなしていたらしい。


──俺は抜けてるところがあるしなぁ。


でも、佐伯さんに手当てしてもらえたのは……正直、役得だった。


頭を撫でられた時の、あのふわっとした気持ち。

落ち着かないのに、嫌じゃない。

むしろ、もっと撫でてもらえばよかったかもしれない。


……俺って、こんな甘えただったっけ?


自問しながらも、あれからずっと佐伯さんに会いたいと思っていた。

手当てのお礼という名目もあるし、翔は『ロワール』へ向かうことにした。


とっておきの差し入れを手に、事務所へ入ると──

オーナーがひょいと顔を上げた。


「佐伯ちゃん、風邪で休んでるよ」


「えっ……大丈夫なんですか!? 心配ですっ!」


思わず詰め寄ると、オーナーはニヤッと笑った。


「そんなに心配してくれるなら、忙しくて動けない僕の代わりに様子を見に行ってくれよ~!」


差し入れを返され、お願いされる形になった。


香澄のアパートは、あの夜に手当てしてもらった時に覚えている。


あの時、部屋に通されただけで緊張した。

優しく手当てしてくれた香澄さん。

頭を撫でられ、驚いて手を掴んでしまい、離せなかった。


顔が赤くなっていたのも、きっと気付かれていた。


それでも──

会いたい。


***


その夜──

静けさの中で、

香澄は風邪でダウンしていた。

あの日、ソファで寝落ちしたせいだろう。


風邪で仕事を休むなんて、いつ以来だろう。

ラブホの受付になってからは初めてかもしれない。

そう思った瞬間、胸の奥に昔の痛みがふっと浮かんだ。


前職は保険の営業。

ノルマは厳しく、残業は当たり前──

休日出勤も当然。

成績が振るわないと代休なんて取れない。


香澄は、そこで壊れた。


心身の悲鳴を無視し続け、抑え込み、働き続けた結果──

じわじわと心が削られ、ある日突然、身体が動かなくなった。


仕事を辞め、思考が戻るまで一年かかった。


ゆっくり就活を始めた頃、嶋田オーナーと出会った。


面接で聞かれたのは、志望動機でも離職理由でもない。


「好きな食べ物は何?」

「犬と猫どっちが好き?」

「佐伯さん、猫っぽいよね!」


まるで、迷子の子供に訊ねるような質問ばかりだった。


「じゃあ、とりあえず来週からお試しでよろしくね~!」


気付けば採用されていた。


懐の深い人なのだと、後になってわかった。


そして香澄は、この仕事を存外に気に入っている。


***


翔はドラッグストアの袋を握りしめながら、香澄のアパートへ向かって歩いていた。


風邪に良さそうなものを色々買い込んでいる時、

つい猫グッズに目がいってしまったのは……

うん、気のせいだと思う。


それでも胸の奥が、少しだけそわそわしていた。


香澄のアパートに着く頃には、握りしめた袋の持ち手が、手汗で少し湿っていた。


階段を上がるたびに、胸の奥がぎゅっと縮む。

心配なのに、どこかで会えることを期待している自分がいた。


その矛盾が、足取りを重くしたり、早くしたりする。


部屋の前に立つと、

静かな廊下に自分の呼吸だけが響いた。


……大丈夫かな。

ちゃんと休めてると良いんだけど。


ノックしようと手を上げた瞬間、指先がぴたりと止まる。


もし迷惑だったら?

寝ていたら?

そもそも、俺なんかが来ていいのか?


そんな不安が喉の奥に引っかかった。


「……よし」


小さく呟いて、深呼吸をひとつ。

それから、インターフォンのボタンを押した。


ピンポーン、ピンポーン──


呼出音が静かな廊下に吸い込まれていく。

返事はない。


翔はその場に立ち尽くしたまま、手の中の袋をぎゅっと握りしめた。


……寝てるのかな。

それとも、気付いてないだけだろうか。


耳を澄ますと、

ドアの向こうから微かな気配がするような、しないような……

そんな曖昧な静けさが続いた。


胸の奥が、じわりと熱くなる。

不安と期待が、同じ場所でせめぎ合っていた。


もう一度だけボタンを押そうかと迷ったその時──

『……はぁ~い』、と小さな声が聞こえた。


翔の呼吸が、ふっと止まった。



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