④
洗面所の鏡の前で、キャラメル色の癖毛を手ぐしで整える。
よく「染めてるの?」と聞かれるが、これでも地毛だ。
髪を直した瞬間、口元の絆創膏が視界に入り、翔は「うっ……」と呻きながらペリッと剥がした。
怪我なんて、学生時代にサッカーの授業で転んで以来かもしれない。
歯磨きの時に少し沁みるが、もうだいぶ良くなってきた。
あの時すぐに手当てしてもらえたのは、本当に助かった。
──佐伯さんに、お礼しないとな。
そう思うと、自然と気分が浮き立つ。
甘いものが好きらしい。
先日差し入れたどら焼きも「佐伯ちゃん気に入ってたよ」とオーナーが教えてくれた。
やっぱりスイーツかな……。
モンブランを嬉しそうに食べていた香澄さんの姿が、ふっと浮かぶ。
あの時の笑顔、反則みたいに可愛かった。
思い出しただけで、胸がうるさくなる。
なんでだろう……ただ思い出しただけなのに。
落ち着けって言い聞かせても、鼓動が勝手に走り出す。
こんなの、初めてだ。
そんなことを考えながら、翔は出勤の準備を進めた。
今日は10月31日、ハロウィン本番だ。
あれから色々あったが、奇跡的にノルマも達成しつつある。
本当に『ロワール』の嶋田オーナーには感謝しかない。
他のラブホを回ってわかったことも多い。
部屋数の多いホテルは、ハロウィン仕様の飾り付けで【女子会プラン】を用意していたり、レンタル衣装はあっても種類が少ないため、販売は歓迎されたり。
下着は基本買取りなので、普段置いていないタイプがあると物珍しさで売れる。
ホテル側の反応も良く、新しい販路の手応えも感じていた。
テント営業の申請を上司に相談したところ──
「芹沢だけに夜の営業はさせられない!」と部署全体が動き、オーナー紹介以外のラブホでも持ち回りでテント営業をすることになった。
その結果、過剰在庫は順調に捌けている。
「部署にとっても良い経験になったかもしれん!」
MTで上司が得意げに言っていたが、(いや、そもそも発注ミスを確認しろよ……)と言いたいのを飲み込んだ。
今夜は『ロワール』で最後のテント営業。
絶対にノルマを達成してやる──
翔はそう決意して出勤した。
──ハロウィン本番の夜。
モニターを見ながら、香澄はいつものように髪を耳に掛け、キツネうどんをすすっていた。
「今夜が本番だし、最後だもんね……」
モニター越しに、香澄はカボチャ頭の芹沢さんを見つめていた。
エントランスは賑やかで、芹沢さんも張り切っている。
ただ、どこか落ち着かない。
人の流れがいつもより荒い気がした。
(ワンコくん、頑張れ!)
心の中で思わず応援してしまう。
「先日のお礼です!助かりました!」
営業前、芹沢さんが《期間限定!カボチャのプリン》を渡しに来てくれた。
律儀なワンコくんである。
受け取る時に思わず頭を撫でたくなったが、寸前で手を止めた。
後でゆっくり食べようと、今から楽しみにしている。
突然に、電子音が事務所内に響く…。
珍しく内線が鳴った。
胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。
二階の部屋番号からだ。
「はい、受付です」
出ると、同じ階の部屋の前で言い争いが聞こえてうるさい、とクレームだった。
「かしこまりました。すぐ確認します」
また修羅場か……。
慣れたようで、慣れない。
「どうするかな……警察案件か?」
ぶつぶつ言いながら、まずはオーナーへ連絡する。
ここは従業員を大切にするホテルで、オーナーはいつも「一人で抱えずにすぐ報せて」と言ってくれる。
状況を伝えると、オーナーは即答した。
「警察へ通報して! それと、今日のテント営業は芹沢くんだよね? 女性が心配だし、協力してもらって避難させて! 僕からも連絡しておくから!」
(えぇ~!? 巻き込んで大丈夫なの!?)
内心叫びつつ、警察へ通報する。
モニターの中で、空気が急にざわついた。
女性が身を縮め、男性の影が覆いかぶさるのを見た。
これは完全にアウトだ。
エントランスへ急ぐと、カボチャ頭を脱いだ芹沢さんが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!?」
「巻き込んで申し訳ありません、助けてください!」
「もちろんです、任せてください!」
うん、なかなか凛々しいワンコくんだ。
二階へ向かうと、酒臭い空気の中で男女が揉めていた。
女性は拒み、男性は怒鳴り、髪を掴んで引きずろうとしている。
「止めてください!」
芹沢さんの声が、思った以上に強かった。
芹沢さんが声を張ると、女性はホッとしたようにこちらを見る。
だが──
「余計なことすんなよ!」
男性が激昂し、芹沢さんへ殴りかかった。
次の瞬間、芹沢さんの身体がぐらりと揺れた。
(ワンコくん……噛み付いていいんだよ?
いや、人間だから無理か!)
「きゃあぁ!」
鈍い音が響き、女性が小さく悲鳴を上げた。
香澄は隙を見て男性に蹴りを入れようとした。
(…正当防衛だ、うん!)
そこへ警官とオーナーが駆けつけ、事態は収束した。
男性は連行され、女性は治療と事情聴取へ。
そして──
気付けば、香澄のアパートに芹沢さんがいた。
……この状況は何?
事情説明を終えた後、オーナーが
「疲れたでしょ?あとは引き継ぐから帰りなよ!」
と言ってくれた。
芹沢さんは「片付けがあるので!」と固辞したが、
「怪我してるし無理すんな!」と怒られていた。
「佐伯ちゃん!芹沢くんをよろしくね~!」
よろしくね~、じゃない。
でも怪我の手当ては必要だ。
ラブホから近いという理由で、香澄のアパートへ来てもらうことになった。
部屋に入ると、外のざわつきが嘘みたいに静かだ…。
どこに座ってもらうのが正解なのか、少し迷う。
とりあえず、怪我人に寛いで貰おうとして迷いながらも、座って下さいと案内できたのはソファーベッドだった。
芹沢さんは落ち着かない様子で、そっと視線を泳がせていた。
香澄は(掃除しておいて良かった……)と心底安堵した。
「あの、とりあえず手当てしますね」
「は、はいっ! お願いしますっ!」
まるで診察を嫌がるワンコのように、尾っぽがへにゃんとしている気がする。
もしかして、私に怯えてるとか……?
その考えが胸に引っかかって、香澄はそっと息をついた。
昔から吊り目のせいで強く見られがちで、こういう時にふと気になってしまう。
怯えさせたくなくて、前髪をそっと下ろしてから手当てを始めた。
酔っ払いに蹴りを入れようとしたことも思い出し、できるだけ優しくしようと意識する。
「大丈夫ですか? 切れてはないですが、鬱血してますね…」
「大丈夫です! 先日もすぐ手当てしてもらえて、早く治りましたし!」
その言い方があまりに嬉しそうで、胸がふっと温かくなる。
気づけば、香澄の手が自然と伸びていた。
思わず頭を撫でてしまった。
芹沢さんはポカンとして固まる。
あれ? 何してるんだ。
でも、ふわっとしたキャラメル頭が気持ちよくて、ついワシャワシャと撫で続けてしまう。
すると、そっと手を掴まれた。
「……ああいうことって、よくあるんですか?」
不安と戸惑いが混ざったような、複雑な表情。
「まぁ、場所が場所なので……警察沙汰もありますね」
撫でられるのが嫌だったのかも、と胸が少しざわつく。
「心配なので、気を付けてください」
その言葉があまりに真っ直ぐで、思わず息が止まる。
「ありがとうございます。気を付けますね」
手を抜こうとした瞬間、きゅっと掴まれた。
え……手当て途中なんだけど。
顔を見ると、耳まで真っ赤だ。
そして──
親指で手のひらをそっと撫でられた。
肩がビクッと震える。
手のひらから手首へ、ゆっくりと指が滑る。
ゾクッとした感覚に、思わず声が漏れた。
「んっ……」
その瞬間、芹沢さんがハッと息を呑んだように手を離した。
「す、すみません!!」
慌てた声が、逆に胸に響く。
「いえ、大丈夫です! 私も頭撫でてすみません!」
顔が熱い。
さっきまでの緊張とは違う、なんとも言えない空気が残ったまま、手当ては終わった。
「では、失礼しますっ! ありがとうございました!」
芹沢さんは真っ赤な顔のまま、逃げるように帰っていった。
「……疲れた〜」
ソファーベッドに倒れ込むと、体の力がふっと抜けていく。
その瞬間、かすかに香りが残っていることに気づいた。
シトラス系の香水。
芹沢さんの匂いだ。
いい匂い……。
残った香りが、胸の奥をそっと温めたまま──
香澄は静かに眠りへ落ちていった。




