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洗面所の鏡の前で、キャラメル色の癖毛を手ぐしで整える。

よく「染めてるの?」と聞かれるが、これでも地毛だ。

髪を直した瞬間、口元の絆創膏が視界に入り、翔は「うっ……」と呻きながらペリッと剥がした。


怪我なんて、学生時代にサッカーの授業で転んで以来かもしれない。

歯磨きの時に少し沁みるが、もうだいぶ良くなってきた。

あの時すぐに手当てしてもらえたのは、本当に助かった。


──佐伯さんに、お礼しないとな。


そう思うと、自然と気分が浮き立つ。

甘いものが好きらしい。

先日差し入れたどら焼きも「佐伯ちゃん気に入ってたよ」とオーナーが教えてくれた。


やっぱりスイーツかな……。


モンブランを嬉しそうに食べていた香澄さんの姿が、ふっと浮かぶ。

あの時の笑顔、反則みたいに可愛かった。


思い出しただけで、胸がうるさくなる。

なんでだろう……ただ思い出しただけなのに。


落ち着けって言い聞かせても、鼓動が勝手に走り出す。

こんなの、初めてだ。


そんなことを考えながら、翔は出勤の準備を進めた。


今日は10月31日、ハロウィン本番だ。


あれから色々あったが、奇跡的にノルマも達成しつつある。

本当に『ロワール』の嶋田オーナーには感謝しかない。


他のラブホを回ってわかったことも多い。

部屋数の多いホテルは、ハロウィン仕様の飾り付けで【女子会プラン】を用意していたり、レンタル衣装はあっても種類が少ないため、販売は歓迎されたり。


下着は基本買取りなので、普段置いていないタイプがあると物珍しさで売れる。

ホテル側の反応も良く、新しい販路の手応えも感じていた。


テント営業の申請を上司に相談したところ──

「芹沢だけに夜の営業はさせられない!」と部署全体が動き、オーナー紹介以外のラブホでも持ち回りでテント営業をすることになった。


その結果、過剰在庫は順調に捌けている。


「部署にとっても良い経験になったかもしれん!」


MTで上司が得意げに言っていたが、(いや、そもそも発注ミスを確認しろよ……)と言いたいのを飲み込んだ。


今夜は『ロワール』で最後のテント営業。

絶対にノルマを達成してやる──

翔はそう決意して出勤した。




──ハロウィン本番の夜。

モニターを見ながら、香澄はいつものように髪を耳に掛け、キツネうどんをすすっていた。


「今夜が本番だし、最後だもんね……」


モニター越しに、香澄はカボチャ頭の芹沢さんを見つめていた。


エントランスは賑やかで、芹沢さんも張り切っている。

ただ、どこか落ち着かない。

人の流れがいつもより荒い気がした。


(ワンコくん、頑張れ!)

心の中で思わず応援してしまう。


「先日のお礼です!助かりました!」


営業前、芹沢さんが《期間限定!カボチャのプリン》を渡しに来てくれた。

律儀なワンコくんである。


受け取る時に思わず頭を撫でたくなったが、寸前で手を止めた。

後でゆっくり食べようと、今から楽しみにしている。


突然に、電子音が事務所内に響く…。

珍しく内線が鳴った。

胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。

二階の部屋番号からだ。


「はい、受付です」


出ると、同じ階の部屋の前で言い争いが聞こえてうるさい、とクレームだった。


「かしこまりました。すぐ確認します」


また修羅場か……。

慣れたようで、慣れない。


「どうするかな……警察案件か?」


ぶつぶつ言いながら、まずはオーナーへ連絡する。

ここは従業員を大切にするホテルで、オーナーはいつも「一人で抱えずにすぐ報せて」と言ってくれる。


状況を伝えると、オーナーは即答した。


「警察へ通報して! それと、今日のテント営業は芹沢くんだよね? 女性が心配だし、協力してもらって避難させて! 僕からも連絡しておくから!」


(えぇ~!? 巻き込んで大丈夫なの!?)


内心叫びつつ、警察へ通報する。


モニターの中で、空気が急にざわついた。

女性が身を縮め、男性の影が覆いかぶさるのを見た。

これは完全にアウトだ。


エントランスへ急ぐと、カボチャ頭を脱いだ芹沢さんが駆け寄ってきた。


「大丈夫ですか!?」


「巻き込んで申し訳ありません、助けてください!」


「もちろんです、任せてください!」


うん、なかなか凛々しいワンコくんだ。


二階へ向かうと、酒臭い空気の中で男女が揉めていた。

女性は拒み、男性は怒鳴り、髪を掴んで引きずろうとしている。


「止めてください!」

芹沢さんの声が、思った以上に強かった。


芹沢さんが声を張ると、女性はホッとしたようにこちらを見る。

だが──


「余計なことすんなよ!」


男性が激昂し、芹沢さんへ殴りかかった。

次の瞬間、芹沢さんの身体がぐらりと揺れた。

(ワンコくん……噛み付いていいんだよ?

いや、人間だから無理か!)


「きゃあぁ!」


鈍い音が響き、女性が小さく悲鳴を上げた。

香澄は隙を見て男性に蹴りを入れようとした。

(…正当防衛だ、うん!)


そこへ警官とオーナーが駆けつけ、事態は収束した。

男性は連行され、女性は治療と事情聴取へ。

そして──

気付けば、香澄のアパートに芹沢さんがいた。


……この状況は何?


事情説明を終えた後、オーナーが

「疲れたでしょ?あとは引き継ぐから帰りなよ!」

と言ってくれた。


芹沢さんは「片付けがあるので!」と固辞したが、

「怪我してるし無理すんな!」と怒られていた。


「佐伯ちゃん!芹沢くんをよろしくね~!」


よろしくね~、じゃない。

でも怪我の手当ては必要だ。


ラブホから近いという理由で、香澄のアパートへ来てもらうことになった。


部屋に入ると、外のざわつきが嘘みたいに静かだ…。

どこに座ってもらうのが正解なのか、少し迷う。

とりあえず、怪我人に寛いで貰おうとして迷いながらも、座って下さいと案内できたのはソファーベッドだった。


芹沢さんは落ち着かない様子で、そっと視線を泳がせていた。

香澄は(掃除しておいて良かった……)と心底安堵した。


「あの、とりあえず手当てしますね」


「は、はいっ! お願いしますっ!」


まるで診察を嫌がるワンコのように、尾っぽがへにゃんとしている気がする。

もしかして、私に怯えてるとか……?


その考えが胸に引っかかって、香澄はそっと息をついた。

昔から吊り目のせいで強く見られがちで、こういう時にふと気になってしまう。


怯えさせたくなくて、前髪をそっと下ろしてから手当てを始めた。

酔っ払いに蹴りを入れようとしたことも思い出し、できるだけ優しくしようと意識する。


「大丈夫ですか? 切れてはないですが、鬱血してますね…」


「大丈夫です! 先日もすぐ手当てしてもらえて、早く治りましたし!」


その言い方があまりに嬉しそうで、胸がふっと温かくなる。

気づけば、香澄の手が自然と伸びていた。


思わず頭を撫でてしまった。


芹沢さんはポカンとして固まる。


あれ? 何してるんだ。

でも、ふわっとしたキャラメル頭が気持ちよくて、ついワシャワシャと撫で続けてしまう。


すると、そっと手を掴まれた。


「……ああいうことって、よくあるんですか?」


不安と戸惑いが混ざったような、複雑な表情。


「まぁ、場所が場所なので……警察沙汰もありますね」


撫でられるのが嫌だったのかも、と胸が少しざわつく。


「心配なので、気を付けてください」


その言葉があまりに真っ直ぐで、思わず息が止まる。


「ありがとうございます。気を付けますね」


手を抜こうとした瞬間、きゅっと掴まれた。


え……手当て途中なんだけど。


顔を見ると、耳まで真っ赤だ。

そして──

親指で手のひらをそっと撫でられた。


肩がビクッと震える。


手のひらから手首へ、ゆっくりと指が滑る。

ゾクッとした感覚に、思わず声が漏れた。


「んっ……」


その瞬間、芹沢さんがハッと息を呑んだように手を離した。


「す、すみません!!」


慌てた声が、逆に胸に響く。


「いえ、大丈夫です! 私も頭撫でてすみません!」


顔が熱い。

さっきまでの緊張とは違う、なんとも言えない空気が残ったまま、手当ては終わった。


「では、失礼しますっ! ありがとうございました!」


芹沢さんは真っ赤な顔のまま、逃げるように帰っていった。


「……疲れた〜」


ソファーベッドに倒れ込むと、体の力がふっと抜けていく。

その瞬間、かすかに香りが残っていることに気づいた。


シトラス系の香水。

芹沢さんの匂いだ。


いい匂い……。


残った香りが、胸の奥をそっと温めたまま──

香澄は静かに眠りへ落ちていった。



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