③
佐伯 香澄──通称“佐伯ちゃん”は、今日も事務所のモニターを眺めながら、サイドの髪を耳に掛けて天ぷら蕎麦をすすっていた。
髪が邪魔なのは毎度のことだが、麺類は手っ取り早くて好きだ。
そして今日は、冷蔵庫に美味しそうなスイーツが入っている。
思い出しただけで、口元がゆるんでしまう。
今週に入ってから、『ロワール』のエントランスにはハロウィン期間限定のポップアップストアが出ている。
サーカス風の小さなテントがひとつ。
その中に立っているのは──
ジャック・オー・ランタンの被り物をした、あの芹沢さん。
ワンコみたいな彼がカボチャ頭。
どうしても、そのギャップに笑ってしまう。
自社のコスプレ衣装や下着を、利用者に勧めているらしい。
最初に聞いたときは(本当にやるの?)と思ったが、
芹沢さんの事情を知ったオーナーが提案したと聞いて、妙に納得した。
あの人、頼まれたら断れないタイプだと思う。
「何か懸念事項とかある?」
「いえ、こちら側に問題が無いなら大丈夫です」
働くって、色々ある。
それは香澄もよく知っている。
冷蔵庫のスイーツ──《二色のスイートポテトのモンブラン》は、芹沢さんが「お世話になりますので!」と差し入れてくれたものだ。
律儀なワンコくんである。
テント営業が始まってみると、最初は驚いていた利用者も、カボチャ頭の芹沢さんの“特訓した話術”とハロウィンの雰囲気に飲まれるのか、売れ行きは好調らしい。
オーナーの紹介で、他のラブホでも夜な夜な営業しているという。
昼は会社、夜はラブホ。
働きすぎでは……と思うが、余計なお世話だろう。
モニターで確認できる限りでは、今夜は店舗も忙しそうだった。
週末で回転率が高いから、当然か。
そのままモニターを眺めていると、ふとエントランスの映像に違和感を覚えた。
さっきまで商品を見ていたカップルの動きが、どこかおかしい。
次の瞬間──
怯えたように女性がカボチャ頭へすがりついた。
当然、男性の怒りの矛先はそちらへ向かう。
芹沢さんは宥めようとしているが、女性が離れないせいで状況は悪化する一方だった。
そして、揉み合いになり──
カボチャ頭が一方的に殴られ、床に倒れ込んだ。
女性と男性が走り去ったのを確認してから、
香澄は他のモニターを素早くチェックした。
問題が無いことを確かめると、椅子を蹴るように立ち上がる。
「うわぁ、マジか……!」
倒れたまま動かないカボチャ頭が、画面の端に映っている。
胸の奥がざわつく…。
香澄は事務所を飛び出し、エントランスへ駆けつけた。
「クソッ……いてぇ……」
カボチャ頭がゆっくり起き上がるのを見て、
思わず胸を撫で下ろす。
とにかく、傷の確認が先だ。
「芹沢さん、こっち来てください。店舗は一旦閉めましょう」
香澄はカボチャ頭を事務所へ連れて戻り、モニターを確認しながら被り物を外してもらった。
キャラメル色のふわっとした髪が、ぺしゃりと潰れている。
……ムムッ、少し残念だ。
幸い、カボチャの被り物がクッションになったのか、
口の端が切れている程度で済んでいた。
他は軽い打撲だけらしい。
香澄は救急箱を開け、手早く薬を塗っていく。
芹沢さんは痛みに顔をしかめながらも、大人しく座っていた。
「しみますよ」
「うっ……だ、大丈夫ですっ」
声は強がっているのに、
肩がぴくっと跳ねるのが可愛い。
絆創膏を貼り、腕にはシップを貼る。
手を離した瞬間、ふっと事務所の空気が落ち着いた。
「……で、何があったんですか?」
促すと、芹沢さんはぽつぽつと経緯を話し始めた。
最初は楽しそうだったカップル。
男性が何かを耳打ちした途端、女性の表情が曇り──
怯えた彼女が芹沢さんにすがりついたことで、
怒りの矛先が一気に向いたらしい。
「この後、店舗どうします?」
「もちろん、まだ続けます!」
根性あるなぁ……と感心しつつ、
すぐ戻すのは心配で。
「狭いですが、ここで少し休憩していきませんか?」
「良いんですかっ?」
初対面の時と同じ、クシャっとした笑顔。
尾っぽが見えないのに、揺れてる気がする。
「コーヒー淹れますね。一緒にどうですか?」
「いただきます!ありがとうございますっ!」
香澄は差し入れのスイーツをコーヒーと一緒に出した。
もちろん、自分も誘惑に勝てずにスプーンを手に取る。
紫と黄色のスイートポテトをすくい、口に運ぶ。
滑らかな甘さが広がって、思わず息がゆるんだ。
「うん、美味しい~!」
芹沢さんも、傷口を避けながら嬉しそうに食べている。
その表情が、なんだか子どもみたいで可愛い。
……尾っぽ、揺れてない?
そんな錯覚がして、香澄は小さく笑ってしまった。
「うん、美味しい~!」
芹沢さんが嬉しそうにスプーンを動かしている。
その表情につられて、香澄もつい口元がゆるんだ。
……と、次の瞬間。
「……あの、先日は本当にすみませんでした!」
突然の謝罪に、香澄は思わずスプーンを止めた。
「は?」
素っ頓狂な声が出てしまう。
芹沢さんは背筋を伸ばし、真剣そのものの顔でこちらを見ていた。
「初めて会った日に、退勤時に引き止めてしまって!……ずっと気になってて……本当に、すみませんでした!」
あぁ、あれか。
香澄は心の中でため息をつく。
「気にしてませんよ。というか、忘れてました~」
本当に、もう記憶の彼方だった。
「そ、そうですか……良かった……!」
胸を撫で下ろした芹沢さんが、ほっと息をついた。
その安堵の仕草に、香澄もつられて肩の力が抜ける。
スイーツの容器を片付けようとしたとき──
「ごちそうさまでした! あの……今夜のお礼は、また改めてさせてくださいっ!」
勢いよく頭を下げるものだから、キャラメル色の髪がふわっと揺れた。
「え、そんな……気にしなくていいですよ?」
「いえっ! 僕は、こういうのちゃんとしたいので!」
真っ直ぐな目。
その素直さに、香澄は思わず言葉を失った。
(……ほんと、律儀なワンコくんだ)
香澄がそう思っている間に、芹沢さんは空になったカップを丁寧に揃え、椅子から勢いよく立ち上がった。
「ごちそうさまでした! じゃあ僕、戻りますっ!」
その“戻りますっ!”の語尾が、やけに張り切っていて可愛い。
芹沢さんはカボチャ頭を手に取り、
一度深呼吸してから、すぽんと被った。
キャラメル色の髪が少しはみ出して、それを慌てて押し込む姿がまたワンコみたいだ。
「よしっ……行ってきます!」
鼻息がほんの少し荒い。
でも、その真っ直ぐさが妙に胸に残った。
芹沢さんは小さく会釈して、エントランスへ向かっていった。
芹沢さんがエントランスへ戻っていくのを見届けてから、香澄はふぅ、と小さく息を吐いた。
事務所に戻ると、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに静かだ。
椅子に腰を下ろすと、ようやく身体の力が抜けていく。
モニターには、いつもの夜の『ロワール』が映っている。
淡々とした光景なのに、さっきまでとはどこか違って見えた。
スイーツの甘さがまだ口の奥に残っている。
それが、ほんの少しだけ胸を温かくした。
(……あのワンコくん、本当に大丈夫かな)
そんな独り言が、思わず心の中に浮かんだ。
コーヒーを淹れ直してひと息つき、椅子に腰を下ろして日報を入力していると、事務所のドアが開いてオーナーがひょっこり顔を出した。
「お疲れ様~。何か連絡事項ある?」
「あ、ちょうど。さっき少しトラブルがあって……」
香澄が簡潔に状況を説明すると、オーナーは眉をひそめて腕を組んだ。
「ふ~ん……嫌な感じだね」
「何か、気になることが?」
「嫌なことって、続く時は続くからさ。 まぁ、何かあったら芹沢くんに頼りなよ。 あれでも男なんだから!」
昨夜、殴られてたけどな……
心の中でそう突っ込みつつ、
「は~い、わかりました」
とだけ返した。
オーナーが去ると、事務所にはまた静けさが落ちた。
その静けさが、さっきより少しだけ重く感じた。




