②
芹沢 翔は、アパレル会社『ラフィーネ』に新卒で入社して三年が経つ。
先月、急な辞令で部署を異動してからというもの、慣れない環境に振り回され続けていた。
以前は、企業向けの制服や作業着を扱う、ごく一般的な営業部署にいた。
ところが突然「新しい部署で販路を開拓してほしい」と言われ、深く考えずに承諾した結果──
異動初日に案内された場所を見て、翔は足を止めた。
昼下がりの光に照らされた建物は、どう見てもラブホテルだった。
しかも引き継ぎ内容は“コスチューム部門”だ。
芸能関係の衣装かと思いきや、バニーガール、ナース風ミニワンピ、メイド服……さらには下着まで。
「……マジかよ」
小さく漏れた声は、誰にも届かない。
予備知識ゼロのまま引き継ぎはあっという間に終わり、気付けば翔は新しい担当として放り込まれていた。
引き継ぎをしてくれた先輩は既婚者で、長い妊活の末に奥さんが妊娠したらしい。
来月には出産予定で、育児休暇を一刻も早く取りたいと総務に掛け合っていたという。
──だから、こんな急な異動だったのか。
めでたい話ではある。
けれど後任としては、戸惑いの方が大きかった。
これまでコスプレ店員のいる店に行ったこともなければ、学園祭などで衣装を着た経験もない。
ましてや“ソレ系の下着”など、実物を見たことすらない。
免疫なんて、あるはずがない。
胸の奥で、静かにため息が落ちた。
しかも先輩は、引き継ぎの最後に軽い調子で言った。
「芹沢くん、この部署のこと知らなかったんだね? 最初は驚くけど、慣れたら楽しいよ! それに芹沢くんって、何となくワンコっぽい? 取引先で覚えてもらいやすいと思う!」
どうでもいい情報だけ残して去っていったが、事前説明が無かったのはどう考えても作為的だ。
……いや、妊活は大変だと聞くし、責める気にもなれない。
「俺も頑張るか」と気持ちを切り替えたのも束の間──
営業に出ると、説明が上滑りしているのが自分でもわかった。
自分が着たこともない衣装を説明するのは難しい。
かといってサイズ的に試着は無理だし、そもそも見たくもない。
頼れる相手もいない今は、仕方なく“男のエロ目線”で補填して説明してみるが、どうにも違う。
ずっと模索していた。
そんな中──
今日の失態を思い出して、翔はビールを一口飲んだところでそっと頭を抱えた。
『ロワール』の佐伯さん。
あの、少し困ったような表情が胸に残っている。
ドアを開けてくれたのは、小柄で吊り目の黒髪ボブの女性だった。
猫のような雰囲気で、翔のど真ん中のタイプだ。
外の陽射しが眩しかったのか、パチパチと瞬きをしていて──
その仕草が、妙に印象に残った。
丁寧に応対してくれたのも意外で、好感が湧いた。
ただ、青白い顔をしていたから、きっと疲れていたのだろう。
差し入れでも持ってくるべきだった、と気付いた時にはもう遅かった。
せめて次の訪問で何が喜ばれるか聞こうとしたのだが……
よりによって退勤のタイミングだった。
引き留めてしまったのは、完全に自分のミスだ。
ビールの泡が静かに弾ける音だけが、部屋に落ちる。
先輩の言葉がふと蘇る。
──ラブホによって出入口が違うから気を付けて。
焦って確認を怠った自分が悪い。
しかも翔には、異動して早々にノルマが課されていた。
ハロウィン用のコスプレ衣装と下着が、一桁間違えて発注されていたらしい。
問屋へのキャンセルも間に合わず、「なんとしても売り捌いてくれ」と上司からお願いされている。
ふざけんな。
発注したやつが責任取れよ──
そう思ったが、ノルマは全員に割り振られ、翔の分は少なめだった。
配慮されているのがわかるから、文句も言いづらい。
慣れない営業で成果が出ず、毎日歩き回って疲労困憊で…。
そんな時、まだ訪問していなかった部屋数の少ない『ロワール』を思い出した。
引き継ぎの時に挨拶した嶋田オーナーは、他のラブホのオーナーより温和で話しやすそうだった。
──思い立ったが吉日。
普段なら絶対にしない行動力を発揮してしまい、それが今日の失態に繋がった。
午後にオーナーへ連絡して訪問すると、開口一番こう言われた。
「佐伯ちゃん、疲れてたでしょ~? 退勤する人を引き留めちゃ駄目だよ! この業界は、特に長く勤めてくれる人は貴重なんだからさ!」
完全に自分が悪いので、差し入れの《栗どら焼き》を持参してひたすら謝罪した。
追い返されなかっただけ、まだ救いがあった。
しょんぼりしていると、どら焼きを味わっていたオーナーがふと口を開いた。
「まぁ若いんだし、これからだよ。 上手くいくかわかんないけど……その上でやってみる?」
その言葉は、思いがけず魅力的に感じた。
体力的にはキツいが、反応が良ければ販路も開拓できる。
胸の奥で、静かに何かが決まった気がした。




