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芹沢 翔(せりざわ かける)は、アパレル会社『ラフィーネ』に新卒で入社して三年が経つ。

先月、急な辞令で部署を異動してからというもの、慣れない環境に振り回され続けていた。


以前は、企業向けの制服や作業着を扱う、ごく一般的な営業部署にいた。

ところが突然「新しい部署で販路を開拓してほしい」と言われ、深く考えずに承諾した結果──

異動初日に案内された場所を見て、翔は足を止めた。


昼下がりの光に照らされた建物は、どう見てもラブホテルだった。


しかも引き継ぎ内容は“コスチューム部門”だ。

芸能関係の衣装かと思いきや、バニーガール、ナース風ミニワンピ、メイド服……さらには下着まで。


「……マジかよ」


小さく漏れた声は、誰にも届かない。

予備知識ゼロのまま引き継ぎはあっという間に終わり、気付けば翔は新しい担当として放り込まれていた。


引き継ぎをしてくれた先輩は既婚者で、長い妊活の末に奥さんが妊娠したらしい。

来月には出産予定で、育児休暇を一刻も早く取りたいと総務に掛け合っていたという。


──だから、こんな急な異動だったのか。


めでたい話ではある。

けれど後任としては、戸惑いの方が大きかった。


これまでコスプレ店員のいる店に行ったこともなければ、学園祭などで衣装を着た経験もない。

ましてや“ソレ系の下着”など、実物を見たことすらない。


免疫なんて、あるはずがない。

胸の奥で、静かにため息が落ちた。


しかも先輩は、引き継ぎの最後に軽い調子で言った。


「芹沢くん、この部署のこと知らなかったんだね? 最初は驚くけど、慣れたら楽しいよ! それに芹沢くんって、何となくワンコっぽい? 取引先で覚えてもらいやすいと思う!」


どうでもいい情報だけ残して去っていったが、事前説明が無かったのはどう考えても作為的だ。

……いや、妊活は大変だと聞くし、責める気にもなれない。


「俺も頑張るか」と気持ちを切り替えたのも束の間──

営業に出ると、説明が上滑りしているのが自分でもわかった。


自分が着たこともない衣装を説明するのは難しい。

かといってサイズ的に試着は無理だし、そもそも見たくもない。


頼れる相手もいない今は、仕方なく“男のエロ目線”で補填して説明してみるが、どうにも違う。

ずっと模索していた。


そんな中──

今日の失態を思い出して、翔はビールを一口飲んだところでそっと頭を抱えた。


『ロワール』の佐伯さん。

あの、少し困ったような表情が胸に残っている。


ドアを開けてくれたのは、小柄で吊り目の黒髪ボブの女性だった。

猫のような雰囲気で、翔のど真ん中のタイプだ。


外の陽射しが眩しかったのか、パチパチと瞬きをしていて──

その仕草が、妙に印象に残った。


丁寧に応対してくれたのも意外で、好感が湧いた。

ただ、青白い顔をしていたから、きっと疲れていたのだろう。

差し入れでも持ってくるべきだった、と気付いた時にはもう遅かった。


せめて次の訪問で何が喜ばれるか聞こうとしたのだが……

よりによって退勤のタイミングだった。

引き留めてしまったのは、完全に自分のミスだ。


ビールの泡が静かに弾ける音だけが、部屋に落ちる。


先輩の言葉がふと蘇る。


──ラブホによって出入口が違うから気を付けて。


焦って確認を怠った自分が悪い。


しかも翔には、異動して早々にノルマが課されていた。

ハロウィン用のコスプレ衣装と下着が、一桁間違えて発注されていたらしい。

問屋へのキャンセルも間に合わず、「なんとしても売り捌いてくれ」と上司からお願いされている。


ふざけんな。

発注したやつが責任取れよ──

そう思ったが、ノルマは全員に割り振られ、翔の分は少なめだった。

配慮されているのがわかるから、文句も言いづらい。


慣れない営業で成果が出ず、毎日歩き回って疲労困憊で…。

そんな時、まだ訪問していなかった部屋数の少ない『ロワール』を思い出した。


引き継ぎの時に挨拶した嶋田オーナーは、他のラブホのオーナーより温和で話しやすそうだった。


──思い立ったが吉日。


普段なら絶対にしない行動力を発揮してしまい、それが今日の失態に繋がった。


午後にオーナーへ連絡して訪問すると、開口一番こう言われた。


「佐伯ちゃん、疲れてたでしょ~? 退勤する人を引き留めちゃ駄目だよ! この業界は、特に長く勤めてくれる人は貴重なんだからさ!」


完全に自分が悪いので、差し入れの《栗どら焼き》を持参してひたすら謝罪した。

追い返されなかっただけ、まだ救いがあった。


しょんぼりしていると、どら焼きを味わっていたオーナーがふと口を開いた。


「まぁ若いんだし、これからだよ。 上手くいくかわかんないけど……その上でやってみる?」


その言葉は、思いがけず魅力的に感じた。

体力的にはキツいが、反応が良ければ販路も開拓できる。


胸の奥で、静かに何かが決まった気がした。


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