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番外編《喜美子さんの奇跡》



「陽香? そんなところに何があるの? あっ、薔薇が綺麗に咲いてるね」


「……お花、きれいねー! あのね、かけるしゃんに……こうきしゃん? よんできてー?」


昨日、祖母が亡くなった。

先月倒れてから一度も目を覚まさず、静かに息を引き取った。


葬儀を終えたばかりの俺たちは、胸の奥にぽっかりと空いた穴を抱えたまま、如月家に身を寄せていた。


大人たちは皆、言葉にならない喪失を抱えている。

時が癒すと言うけれど、微笑んで思い出せるようになるには、まだしばらく時間が必要だろう。


「死」という概念をまだ理解しきれない陽香は、ただ退屈そうにしていた。

俺は晃希さんに許可をもらい、彼女のお気に入りの庭へと連れ出した。


エントランスから続く小道を歩いていたとき、陽香が突然、俺の手を振りほどいて駆け出した。


慌てて追いかけると、陽香は見事な赤い薔薇の前で立ち止まり、まるで誰かと話すように頷いていた。


「……うん。……いろ? わかんない。わぁ! きれいねぇー!」


幼い子供は、大人には見えないものを見ることがある──知識としては知っていたが、目の前の光景に、背筋がひやりとした。


そして陽香は、誰もいない空間を見つめたまま振り返り、俺に向かって言った。


『かけるしゃんに、こうきしゃんを呼んできてって』


それは、陽香の言葉を借りた“誰か”からの伝言だった。


どうするべきか迷っていると、コツコツと白杖の音が近づいてきた。


「……陽香ちゃんと芹沢くんだろう? 随分と奥まで来てたんだね。咲花さんたちから、お茶の準備ができたって」


「すみません。陽香が、この薔薇を気に入ってしまって」


「ああ、確かにいい香りが風に乗ってくる。よく咲いてるね。陽香ちゃんは、綺麗なものを見つけるのが上手だね」


「ひぃおばあちゃんが、お花きれいだよって教えてくれたの!」


陽香の声が、静かな庭に弾んだ。


俺の目には、燃えるような赤と瑞々しい緑が鮮やかに映っている。

けれど陽香の世界は、もっと淡く、境界の曖昧な色でできている。


その「色のない寂しさ」を代わってやることはできない。

ただ見守るしかないもどかしさが、胸の奥に沈んでいた。


──そのときだった。


「ひぃおばあちゃんが、しわしわのお手てで目隠ししたら、赤いお花と、緑の葉っぱが見えたのー!」


「「……えっ?」」


俺と晃希さんの声が重なった。


陽香は「赤」という言葉を知っている。

だが、陽香の世界では、赤と緑は混ざり合い、境界を持たない。


目の前の薔薇の色と一致させることは、彼女の世界では起こり得ないはずだった。

だからこそ、彼女が“赤い薔薇”を言い当てたことは、

偶然では片づけられなかった。


「今は見えないよー? 目隠ししてくれた時だけなんだって!」


無邪気な笑顔に、胸が熱くなる。


──祖母が、陽香に“色”を見せてくれたのだ。


そう思った瞬間、視界が滲んだ。


祖母は気づいていたのだろう。

陽香の目のことも、俺たちの不安も。

余計な心配をかけまいと、黙っていただけで。


『この子は大丈夫だよ』

そう背中を押された気がした。


陽香の肩を抱き寄せると、

彼女は不思議そうに俺を見上げた。


そのとき──


「パパ〜! みつけた! ママが遅いって心配してるよ!」


晃汰くんが駆けてきた。


陽香はいたずらっぽく笑い、晃希さんの裾を引っ張った。


「こうきしゃん! 目隠ししたいから、しゃがんで?」


「えっ? 僕に……?」


「うん! ひぃおばあちゃんが、やってって!」


晃希さんの肩が震えた。

彼はゆっくりと屈み、白杖をそっと地面に置いた。


陽香が背伸びをして、小さな両手で晃希さんの目元をふわりと覆う。


その瞬間──


「……っ! あ……うわっ……!? 見えてる……! 久しぶりに、視界が……っ」


晃希さんの声が震えた。


陽香はそのまま、晃希さんの顔を晃汰くんの方へ向ける。


「そのままっ! こうたくん、みて?」


──静寂が庭を包む。


陽香の手の下で、晃希さんが小さく息を呑んだ。


「……あっ。こ、晃汰……!? 僕の幼い頃にそっくりだ。でも、笑った目元は……咲花さんに似てるんだな……!」


その声は、春の空気に溶けていった。


奇跡はほんの一瞬で幕を閉じた。

陽香が手を離すと、晃希さんの世界は再び暗闇に戻ったはずだ。


それでも彼は迷わず腕を伸ばし、息子を力強く抱きしめた。


「……パパ? だいじょうぶ? きっと、また喜美子おばあちゃんに会えるよ!」


「うん……っ。晃汰、お前……こんなに大きくなったんだな……」


陽香は俺の手をぎゅっと握り、誇らしげにその光景を見つめている。

陽香の手のひらには、さっきまでなかった温もりが残っていた。


──祖母は、陽香に“色”を。

そして晃希さんには、“姿”を。

ほんの一瞬だけ、二人に奇跡を分けてくれたのだろう。


やがて子どもたちは手を繋ぎ、エントランスへ続く小道へと駆けていく。


俺と晃希さんは、その後ろをゆっくりと歩いた。


白杖の音が、春の庭に優しく響く。

晃汰くんが何度も振り返り、父親の気配を確かめていた。


「……芹沢くんは、本当にキャラメル色の髪をしてるんですね」


「えっ! あの短い時間で、俺のことまで見えてたんですか!? もっと別のものを見えてたらよかったのに……例えば、咲花さんの顔とか!」


「ふふっ。そうですね。……でも、僕は咲花さんがどれだけ素敵な人か、もう充分すぎるくらい知ってますから」


「「おーい! おいてっちゃうよー!」」


子どもたちの重なる声に、俺は笑い、晃希さんもそちらへ顔を向けて、穏やかに微笑んだ。


かつて祖父から祖母へと贈られたというフレンチローズが、柔らかな春の風に揺れている。


色鮮やかな花びらと甘い香りが、二人の父親と子どもたちの背中を、そっと見送ってくれているようだった。




※翔くんの髪の毛は隔世遺伝の設定でした。

番外編は、これで終わりです。

読んでくださった方には、

本当にありがとうございます。

楽しんでいただけてたら嬉しいです!


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