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番外編《茶色の苺と、春を待つ家族》



──妹の香澄(かすみ)が結婚した。


その知らせを聞いたとき、胸の奥で何かがふっと外れた。

驚きが先に立ったのは、あいつが家庭を持つ未来を、どこかで勝手に諦めていたからだ。


……もっとも、それは自分自身にも言えることだ。

桂良(かよ)と出会い、結婚し、娘の咲良(さくら)を授かるなんて──

人生のどこを探しても見当たらないはずの幸運だった。


あの夜のことは、今でも鮮明に覚えている。


施術の途中、桂良が「同僚を紹介したい」と言い出したとき、俺は情けなくも、反射的に突き放してしまった。


「……一応、俺でも女性と交際した経験ぐらいはあるから!」


「ち、違うの! 整体を受けたいって子がいただけなの!」


前回の施術で見せた不甲斐なさが、自尊心を尖らせていたのだ。

勘違いだと気づき、真っ赤になって取り乱す俺を見て、桂良の何かが弾けたようだった。


「健悟さん……可愛い。私もキスしたい」


触れた唇の熱と柔らかさ。

驚きと戸惑いの奥で、胸の奥に灯った熱。

気づけば、彼女は俺の世界の中心にいた。


俺の前に立ちはだかる、ちっぽけな自尊心や不安なんて壁を、桂良は軽々と越えて、迷いなく手を差し伸べてくれた。


そんな女性を、俺が逃すはずがない。

周囲の反対も覚悟の上で結婚し、娘を授かった。

香澄も結婚し、姪が生まれた。


物心ついた頃には諦めていた“人並みの幸せ”を、俺は確かに手に入れたのだ。


──その幸福の絶頂にいた俺たちに、冷たい雨のような報せが届いたのは、つい先日のことだった。


「……お義父さんから貰ったワイン、あったよな? 一人で飲みたいんだ」


白杖を這わせながら、ソファへと肩を落として向かう。

背後で桂良が何か言いかけて、飲み込む気配がした。

今の俺には、その優しさすら受け止める余裕がなかった。


昼間、香澄が姪の陽香(はるか)を連れて報告に来たのだ。


苺の絵を茶色で塗りつぶす陽香の姿を見かけたと桂良から聞いた途端、胸の奥がざわついた。

病院へ行くよう促した結果──色覚の異常の可能性が高いと診断された。


どうして、あんなに小さな、何の罪もないあの子が。


自分の不自由なら、折り合いのつけ方を覚えてきた。

だが、自分より大切な存在に降りかかる困難には、

俺はあまりにも無力だった。


夕飯も喉を通らず、ただ酔うことで現実から逃げたかった。

卓上のワインを、喉が焼けるほど流し込む。


「……ありがとう、桂良。夕飯も、ごめんな」


「ううん、大丈夫よ。飲み過ぎないでね」


罪悪感に苛まれながら、葡萄の液体に意識を沈めていった。


***


翌朝、割れるような頭痛とともに意識が浮上した。

昨夜の泥酔のツケだ。

情けなさが胸の奥でじわりと広がる。


何かを壊しそうで怖くて逃げた先で、結局は、自分の思考を壊そうとしていただけだった。


「ん……? なんだ、この匂い。草のような……妙に落ち着く香りがする」


「おや、お目覚めですか。さあ、このお茶を飲んでください」


涼やかな声が、部屋の空気を軽く揺らした。

……如月(きさらぎ)さんだ。


「ど、どうして……ここに……」


「いいから飲んで。お酒臭いですよ、健悟さん」


促されるまま口に含んだそれは、お世辞にも美味しいとは言えなかった。


「うぇ……! なんですかこれ、草の味しかしない!」


「僕が淹れた酔い醒ましのハーブティーです。叔父のお墨付きですよ」


「……確かに、一気に目が覚めた気がします」


「でしょう? お酒は楽しく飲むものです。昨夜のような飲み方は、あなたに似合わない」


如月さんは、すべてを分かってここに来てくれたのだ。

香澄たちのことも、俺の不甲斐なさも。


「陽香ちゃんのことを聞きました。僕も他人事ではありません。力になれることがあれば、遠慮なく頼ってください」


その言葉に、胸の奥に詰まっていた固いものが、すうっと溶けていくのを感じた。


如月さんや咲花(えみか)さん、そして桂良。

同じように悩み、向き合おうとする人たちが、この暗闇の中に灯火を置いてくれている。


「いつか……楽しいお酒を、お誘いしますよ」


「いいですね。女の子二人の節句は、きっと華やかで賑やかになりますよ」


「ええ……。見えない俺たちでも、あの子たちが笑っている気配がわかるだけで、十分に幸せですよね」


リビングに、桂良と咲花さんが淹れてくれた緑茶の香りと、《うぐいす餅》の甘い匂いが広がる。


昨日までの絶望が嘘のように、温かな時間が流れていた。


「……一生、桂良には頭が上がらないな。俺、彼女が幸せなら、それで幸せなんです」


「うわぁ……朝からすごい惚気だ。咲花さん、もう帰ろうか。僕たちはお邪魔虫みたいだよ」


如月さんの茶化すような声に、桂良たちの笑い声が重なる。


この温かな輪の中に、香澄と翔くんも早く加わればいい。

俺たちは一人じゃない。

この縁の繋がりがある限り、陽香も、咲良も、きっと大丈夫だ。


込み上げる熱いものを誤魔化すように、俺はほどよく熱い緑茶を、ずずっと啜った。


***


リビングのチェストの上には、職人の手仕事が光る、趣のある雛人形が飾られている。


テーブルには、白い苺を贅沢にあしらった可愛いらしい《真白のひな祭りケーキ》。

桂良さんと咲花さんが腕を振るったご馳走と、祝福の泡を湛えたシャンパンが、春の訪れを告げていた。


「うわぁ! 咲良ちゃんと陽香ちゃん、お着物とっても似合ってる! 可愛い!」


咲花さんの弾んだ声とともに、シャッター音が重なる。

桂良さんと手を繋いだ咲良と、私が抱き上げる陽香。

二人の晴れ姿を、咲花さんは夢中で写真に収めてくれていた。


佐伯(さえき)家で、一緒に桃の節句を祝おう」


桂良さんの温かい誘いに、私と夫の(かける)くんは、心からの感謝とともに甘えさせてもらうことにした。


ふと視線を向けると、そこには驚くべき光景があった。


お酒に弱く、お祝いの席でしか杯を手にしないはずの兄さんが、如月さんや翔くんと楽しそうにグラスを傾けている。


「……兄さんが、家でお酒を飲んでるなんて珍しいね」


「これでも色々あるんだよ。……お前たちには、筒抜けらしいけどな」


少し照れくさそうに、けれど穏やかに笑う兄さん。

その横顔を見て、私は幼い頃の記憶を辿っていた。


ショートケーキに乗った、真っ赤な苺。

兄はいつも「俺は嫌いだから」と、自分の分まで私の皿に乗せてくれた。


大人になってから気づいた。

兄は苺が嫌いだったわけじゃない。

妹の私が、苺狩りではしゃぐほど苺が大好きだったから──黙って譲ってくれていたのだ。


不器用で、言葉は少ないけれど、兄の愛はいつもそんな風に「形」になって私の側にあった。


「兄さん、私ね。赤いツヤツヤの苺が、可愛くてずっと大好きだった」


「……ああ、知ってるよ。だからウェディングケーキも苺尽くしにしたんだろ?」


「うん。でもね、今は──茶色の苺も、大好きになったんだよ」


私の言葉に、兄の手が止まった。


陽香が苺の絵を茶色のクレヨンで塗った、あの日。


世界から色が抜け落ちたような絶望に襲われたけれど、今は違う。

陽香の目に映る世界が、たとえ他の誰とも違っていても、それはあの子だけの特別な景色なのだ。


「陽香には、これからたくさん『好きなもの』を増やしてあげたい。 私は、この子の母親だもん。……できるよね?」


「……香澄だけじゃない。ここにいる全員で、一緒に増やすんだ。な?」


兄の力強い言葉に、隣で如月さんが静かに頷く。

その瞬間、視界がじんわりと熱くなった。


「わぁ……それは最強だね。全然、心配いらないや」


「……大風呂敷にならないように、気をつけないとな」


どこまでも慎重で、けれど一度引き受けたら絶対に見放さない。

そんな兄らしい言葉に、私は堪えきれず笑い声を上げた。


ふと見ると、隣では夫の翔くんが、ボロボロと大粒の涙を流している。


「おかあしゃん……おとうしゃん、ないてる……」


「えっ!? 翔くん、どうしてあなたが泣いてるの!」


「ううっ……嬉しくて……っ! お義兄さん、一生ついていきます……っ!」


「……頼りにしてるんだから、しっかりしてくれよ!」


呆れ顔の兄と、泣き笑いの翔くん。

それを見て、陽香が「キャッキャ」と無邪気な声を上げて笑った。


私は、健悟兄さんの妹に生まれて幸せだ。

そして陽香が、私たちの元へ生まれてきてくれたこの巡り合わせに。


何のわだかまりもなく、ただ静かに「ありがとう」と、春の風に祈りたくなった。




※全て物語としてのフィクションです。

この番外編は遺伝などの可能性として書きました。

もし、ご不快に思われたなら申し訳ありません。


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