《決壊、そして……編》
「……皆して香澄の味方するんだよなぁ」
その声は、怒っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ──“置いていかれる人”の声だった。
兄さんの声が落ちてきた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
驚いて顔を上げると、廊下の薄暗がりに背を預けて立ち尽くす兄・健悟の姿があった。
その肩が微かに震えている。
……ずっと、聞いていたんだろうか。
私が「兄さんを迷子にさせた」と、今も自分を責め続けていることを。
「……兄さん」
私の小さな呟きが、静かなリビングに溶けて消える。
その沈黙を撫でるように、背後で建付けの悪い扉が微かに軋んだ。
如月さんがふっと、開いた扉の隙間へ視線を向ける。
「……如月さん。 あなたは、余計なことまで読みすぎだ」
低い、けれど聞き慣れた声。
「健悟さん、妹さんが困ってるよ。 いい加減、その手を離してあげたらどうですか?」
如月さんが、まるで見えているかのように正確に兄の方を向いて微笑む。
兄はふん、と鼻を鳴らし、杖を突きながらゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……仕事が立て込んでいたのは本当なんだ。 ネットの口コミが広まったらしくてね。香澄を避けていたわけじゃない」
……嘘だ。
兄は昔から、核心を突かれるとこうして仕事の話を盾にする。
膝の上で組んだ指先が、所在なげに動いていた。
「……健悟さん。 僕は、芹沢くんの味方だよ? 彼は信頼できる男だ」
如月さんの言葉に、兄は深く息を吐いた。
その溜息には、疲れだけじゃない、言葉にならない重さが混じっていた。
兄は何かを言いかけて、唇を閉じた。
膝の上で組んだ指先が、そっとほどけてはまた結ばれる。
言いたくない。
でも、言わなければいけない。
その葛藤が、兄の沈黙の中に静かに広がっていく。
やがて、覚悟を決めるように小さく息を吸うと──
兄は、まるでその言葉が刃物であるかのように慎重に口を開いた。
「……香澄。お前たちは、分かっているのか? 結婚して、いつか子供を授かったとき……俺のように、目が見えない子が産まれるかもしれないという可能性を」
リビングの空気が、ひやりと静まり返った。
兄の声は怒りでも拒絶でもなく、ただただ、妹の未来を案じる祈りのように震えていた。
私は迷わず兄の元へ歩み寄り、その手を握った。
「ありがとう。心配してくれて。 でも大丈夫だよ。翔くんとも何度も話し合ったの。 どんな子が産まれてきても、私たちはこの家で教わったみたいに、全力で愛して、全力で守る。……兄さんたちが、私をそうしてくれたみたいに」
兄はしばらく黙ったまま、私の手の温もりを確かめるように動かなかった。
やがて、憑き物が落ちたように柔らかく呟いた。
「……そうか。 お前がそこまで言うなら、もう俺が言えることは何もないな」
そして、照れくさそうに笑った。
「……負けましたよ、如月さん。 俺の妹は、ずいぶんと強くなったみたいだ」
その声は、冬の公園で抱いた子猫の体温みたいに、優しくて温かかった。
「兄さん……私ね。あの日のこと、ずっと心に残ってる。 兄さんを迷子にさせたこと……怖くて、申し訳なくて……だから、兄さんに祝福してほしかったの」
兄はゆっくりと首を振った。
「香澄。あの日のことを責めてるのは……お前自身だけだよ。もう、囚われなくていい」
涙がこぼれそうになる。
「……兄さん……」
「俺は、香澄が幸せならそれでいい。 ただ……手放すのに時間がかかっただけだ」
その言葉は、胸の奥に静かに染み込んでいった。
「……香澄。 結婚、おめでとう!」
張りつめていたものがふっとほどけて、胸の奥が温かく満たされていく。
「……ありがとう、兄さん」
涙が頬を伝うのを、もう止めようとは思わなかった。
***
帰り道で、如月夫妻と共に近所の公園へ立ち寄った。
冬の入り口の低い太陽が、長く伸びた影を地面に描いている。
「香澄さん、これを。……僕たちからの結婚祝いです」
手渡された小袋から現れたのは、息を呑むほど美しい香水瓶だった。
透き通った水色が、底に向かうほど深い青へ、そして夜の気配を孕んだ紫へと静かに溶けていく。
「……綺麗……」
思わずこぼれた私の声に、咲花さんが嬉しそうに微笑む。
「よかったら、今つけてみてください」
晃希さんの穏やかな声に促され、私は手首にそっとひと吹きした。
ふわり──
凛とした風のようなトップノート。
続いて、陽だまりのような柔らかい甘さが追いかけてくる。
その瞬間、胸の奥でふと懐かしい記憶が揺れた。
──誕生日の夜。
兄が不器用に差し出してくれた、小さな箱。
晃希さんが、兄の“感覚的すぎるイメージ”に少し戸惑いながらも、
丁寧に香りへと落とし込んでくれたあの時間。
あの香水は、確かに“あの頃の私”だった。
今、手首に纏ったこの香りは── “今の私”のために作られたものだ。
晃希さんが静かに言う。
「香りは時間とともに変わります。 強さが和らぎ、甘さが深まり、最後には静かな余韻だけが残る。 その移ろいは、あなたが歩いてきた道と、とてもよく似ている」
私は瓶を胸に抱き寄せた。
冬の冷たさが、なぜかとても心地よかった。
***
部屋に戻ると、翔くんが温かな夕食を用意して待っていてくれた。
食事を終え、リビングの明かりを落とすと、テーブルの上の香水瓶が月明かりを透かして静かに輝いている。
「……いい匂い。 如月さんにもらった香水、まだ残ってるんだね」
翔くんが私の手首をそっと引き寄せる。
「ねぇ、翔くん。 兄さんがね……遺伝のことをずっと心配してたの。 光の見えない子が産まれてくるかもしれないって……」
翔くんはすぐに答えず、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「……怖くないわけじゃないよ。 でも、どんな未来が来ても、僕が君の手を離さないことは変わらない。 光が見えなくても……心を温める術を、一緒に探していけばいい」
翔くんの体温が、言葉以上に深く私を癒していく。
手首に残るラストノートの甘さが、静かに、けれど確かに、私たちの未来を祝福してくれている気がした。
※物語の整合性を整えるため、少し修正を加えました。
香澄たちの物語を見守っていただけると嬉しいです。




