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《手強い障壁編》


翔くんから贈られた結婚指輪を嵌めて出勤すると、嶋田オーナーが目ざとく気付いた。


「おぉ~!やっぱりねぇ!! 芹沢くん、頑張ったんだ!?」


「……何のことですか?」


「その指輪だよ! 芹沢くんからの贈り物でしょう?」


「……はい。そうですけど……“やっぱり”って?」


「いやぁ~、芹沢くんから“ジュエリーショップ紹介してください”って聞かれてさぁ。 絶対クリスマスにプロポーズする気だと思ったんだよね~!」


「…………どうも、ありがとうございます」


噂の出所は、やっぱりオーナーだった。


「佐伯さん、良かったねぇ!」


「ありがとうございます。……仕事は続けますよ?」


「もちろん!のんびり働いてくれればいいんだよ」


「はい。 いつもありがとうございます」


「うわぁ!? 佐伯ちゃんが殊勝なこと言ってるぅ~!」


せっかくの雰囲気が台無しだけど、オーナーが“相手に負担をかけないように”振る舞う人だと知っているから、その軽口も愛しく思えた。


「……結婚式、する予定なので。 ご招待、しますからね」


「それは楽しみだよ! 料理とか、ケーキとか……あとは佐伯ちゃんのドレス姿も“一応”ね?」


「一応って何ですか!? オーナーもちゃんとスーツで来てくださいね? 兄がうるさいですから!」


「佐伯兄さんは……確かに妹への愛が重いからね……!」


兄の話になると、私は少し遠い目になる。


──あの日、兄はわざわざラブホの事務所まで挨拶に来たのだ。


「これから香澄がお世話になるのに、挨拶くらいはしてもいいんじゃないか?」


「絶対、ラブホに興味あるだけだよね!?」


「バレたか!? まぁ、俺は見えんし事務所の中にしか入れんだろう?」


「当たり前だよ!!」


そしてオーナーに向かって

「俺の大事な妹なんです!!」と両手で握手して圧をかけていた。


「……その節は、ご迷惑をおかけして」


「まぁ、良い思い出だよ。……よく佐伯兄さんの許しが出たね?」


「…………これからです」


「えぇっ!?……芹沢くんの健闘を祈るよ!!」


オーナーの懸念は見事に的中し、結婚の報告に行った時、兄はしばらく面会拒否を続けたのだった。


***


「香澄さん……健悟さんは、どうだった?」


「……もう、兄さんの許可とかいらないと思う!」


実家から戻ってきた私は、玄関に入るなり愚痴をこぼしていた。

兄さんは今日も面会拒否。

仕事が立て込んでると桂良さんに伝言を頼んだらしいけど……絶対に嘘だ。


「香澄さん、俺はちゃんと健悟さんに認めてもらいたいよ?」


「……うん、わかってる。私だって、本当は祝福してほしいから」


そう言いながらも、胸の奥がじんわり痛む。

帰り際、桂良さんが申し訳なさそうに見送ってくれた顔が忘れられない。



『ごめんね? 香澄さん。 この件は私も口出しできないの……』


『桂良さん、謝らないで? 兄さんの頭が固すぎるんだから!』


『そういうことじゃなくてね……佐伯家って、愛情深い家庭だから』


『……閉鎖的って、言われたこともありますけど…』


誰のせいでもない。

目の見えない兄さんを守るために、家族全員が自然と“守る側”になっただけだ。


『単純にね、寂しいんじゃないかな?』


『え? 自分は結婚して子供もいるのに?』


『本当にねぇ。でも、兄妹って特別じゃない?』


『……そうなんですかね?』


『今度、私の友人の如月 咲花さんが来る予定なの。  よかったら香澄さんも会ってみない?』


『……何か、あるんですか?』


『多分、その時には健悟と会えると思うから!』


『えっ!? 行きます!絶対に行きます!!』


佳良さんがくれた“チャンス”だ。

無駄にするわけにはいかない。


兄さんには祝福してほしい。

安心してほしい。

両親も親族も、みんな祝福してくれたのに──

兄さんだけが、まだ頑なに心を閉ざしている。



「翔くん、今度兄さんに会った時、必ず納得してもらうから……安心して?」


「……うん。 やっぱり俺も一緒に行こうか?」


「ううん。もう何度も行ってくれたのに、会ってくれないんだから……これ以上、翔くんの時間を使わせたくないよ」


「俺は大丈夫だけどなぁ。  きっと健悟さんは、香澄さんを奪われるみたいで寂しいんだよ」


「……それ、佳良さんにも言われたけど……自分はどうなの?って思う!」


「うーん、兄妹は特別じゃない?」


またそれ!?

そんなに違うものなの?


私がしかめ面をすると、翔君が苦笑した。


「俺は男兄弟だからわからないけど……知り合いに聞くと、妹って“極端”らしいよ?」


「ふーん……全く関わらないか、べったりかってこと?」


「うん。 健悟さんにとって香澄さんは特別なんだよ」


「……なんだか、皆して兄さんの味方だね? 納得いかない!」


「まぁ、相手が健悟さんでも香澄さんは返さないけどね?」


そう言って、翔君が軽くキスをしてくる。

そのまま深くなっていくキスに、兄さんのことはどこかへ飛んでいった。


「……はぁ、んっ……翔くん……もっと……」


「ふふ……可愛い。 ベッド行く?」


頷くと、翔くんが軽々と抱き上げてくれる。

最近は避妊もしていない。

子供を授かる未来を、二人で願っていた。


何度も抱き合い、お互いの体温に溶けるように眠りについた。


***


実家の玄関の扉を開けた瞬間、いつもは静かな廊下に、弾むような笑い声と赤ん坊の泣き声が響いてきた。


「あら、香澄さん! お久しぶりです。ご結婚おめでとうございます!」


リビングから顔を出したのは、春の陽だまりに桜がほころんだような明るい笑顔の女性――如月(きさらぎ)咲花(えみか)さんだった。


その奥には、ぐずる赤ん坊をあやしている桂良さんの姿も見える。


「……ありがとうございますっ!? え、如月さん? もういらしてたんですか?」


驚きで声が裏返る私を見て、ソファに座っていた旦那さんの晃希(こうき)さんが、穏やかな笑みを浮かべて立ち上がった。


「咲花さん、いきなりお祝いを言われても、香澄さんは僕たちのこと、まだ上手く思い出せていないと思うよ?」


その落ち着いたトーンの声を聞いた瞬間、霧が晴れるように記憶が蘇った。


あの日――翔くんと同棲の挨拶に来たあの日、お隣に住んでいると聞いた……。


「翔くんのお祖母様、喜美子さんのお隣の……如月さん、ですよね!?」


「ええ。 今日は桂良さんに招かれて、お邪魔しているんです」


その時、奥の部屋からもう一人、子供の激しい泣き声が響いた。


「あらあら、二人とも泣き出しちゃったねぇ! 香澄さん、ごめんなさいね。ちょっと見てくるわ!」


咲花さんと桂良さんが慌てて子供部屋へと向かい、リビングには私と晃希さんだけが残された。


「あっ……あの時の調香師の方ですよね!? 兄が依頼した香水、本当に素敵でした!」


晃希さんは、少し照れたように微笑んだ。


「気に入っていただけて嬉しいです。 苦労して調香した甲斐がありました」


「兄が……無茶な依頼をしたんですか?」


「無茶というより……難易度が高かったですね」


静かになった空間で、晃希さんがふと、優しい声で言った。


「……佐伯家は、思いやりに溢れた温かい家族ですね」


如月晃希さんの穏やかな声が、私の記憶の扉を不意に叩いた。


「そう……ですかね。 閉鎖的って言われたこともありますけど……」


「閉鎖的、か。 香澄さんは、その言葉をどう受け取っているんです?」


如月晃希さんの穏やかな声が、私の記憶の扉を不意に叩いた。

胸の奥が、少しだけ痛んむ。


閉鎖的――かつて親戚に浴びせられたその言葉を思い出すとき、私の脳裏には決まって、あの冬の日の湿った空気の色が蘇る。


まだ私が小学生、兄が中学生になる前のこと。

両親が留守の間、私は公園に行こうと誘いに来た友人との遊びに夢中になり、ベンチで待っていてと頼んだ兄のことを、ほんの少しの間だけ忘れてしまったのだ。


『……お兄ちゃん?』


遊び終えて振り返ったとき、ベンチはもぬけの殻だった。

心臓が嫌な音を立てて跳ねる。

目が見えない兄が、一人でどこへ行けるというのか。


半泣きで名前を呼びながら探しまわり、ようやく見つけた兄は、植え込みの影に小さくなってうずくまっていた。

その足元には、誰かが中身ごと捨てたらしい、角の潰れた段ボール箱が転がっている。


『……お兄ちゃん、何してるの? びっくりさせないでよ!』


『……香澄、これ。……泣いてたんだ』


腕の中には、震える小さな黒い塊。

みゃあ、と細い声で鳴く子猫を、兄は自分の体温で温めるように抱きしめていた。


冬の陽は短く、気づけば辺りは青い闇に包まれ始めていた。

家へ帰らなきゃと焦るほど、慣れ親しんだはずの景色は歪み、目印のポストさえ見つからない。


目が見えるはずの私の方がパニックで足がすくんでしまい、泣きじゃくる私の震える手を、兄は迷いのない力強さで握りしめた。

その手のひらだけが、暗闇の中で唯一、確かな熱を持っていた。


『大丈夫だ、香澄。 一緒に歩こう!』


本当は一番怖いはずの兄が、頼りない私の手を引き、一歩ずつ、迷いの中で私を支えてくれたあの温かい感触。


結局、父に見つけられるまで右往左往したあの出来事は、親戚から「無理に普通校に通わせるからだ」という批判の火種になった。


両親が周囲との距離を置き、家族だけで結束して兄を守ろうと決めたのは、あの日、自分たちが感じた恐怖と、それ以上に強い「守り抜く」という決意からだったのだと思う。


「……小さい頃、親戚の方に言われたんです。 兄さんのことで両親と祖父母が口論になって……“この家は閉鎖的だ”って。 “私が可哀想だ”って」


晃希さんは、すぐには返事をしなかった。

ただ、静かに耳を傾けてくれているのが分かった。


「でも……私は、佐伯家に生まれて良かったと思ってます。 両親も兄さんも、ずっと私を守ってくれたから」


言葉にした瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。


晃希さんは、ゆっくりとした口調で尋ねてきた。


「……香澄さんは、その時のことをずっと抱えてきたんですね」


「……はい。 だから、兄さんに祝福してほしいんです。 兄さんが安心してくれないと……私、前に進んじゃいけない気がして」


言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ溶けた気がした。


晃希さんは、優しく微笑んだ。


「香澄さん。 健悟さんは、あなたを責めてなんかいませんよ」


「……でも……」


「むしろ──あなたが自分を責め続けていることの方が、 健悟さんは辛いんじゃないでしょうか」


その言葉が、胸の奥に静かに落ちていく。


「……その時の子猫、兄さんはどうしても飼いたいって両親に縋り付いたんです。 結局、目の見えない兄さんにお世話は難しいからって、近所の老夫婦に引き取られたんですけど」


私の言葉に、如月さんが優しく微笑んだ。


「健悟さん、がっかりしてたでしょう? ……でもね、香澄さん。 彼はきっと、自分のためじゃなく、香澄さんのためにその子猫を連れて帰りたかったんだと思うよ」


「……え?」


「自分が盲学校へ入って寮生活になれば、香澄さんは一人になる。 自分の代わりに、その黒猫が君のそばにいてくれるようにと……彼はそう願ったんじゃないかな」


胸の奥に、じわりと熱いものが広がっていく。

あの日、兄が暗闇の中で私の手を離さなかった理由。

あの日、兄が頑なに子猫を離そうとしなかった理由。


そのすべてが、「不器用な愛」という一本の線で繋がった気がした。


その瞬間──背後で、扉が静かに開く音がした。


「……皆して、香澄の味方するんだよなぁ」


兄さんの声だった。


振り返ると、少し疲れた顔で…でも、どこか寂しそうに立っていた。


胸がぎゅっと締めつけられる。


「兄さん……」


「……香澄が困ってるって、分かってるよ。 でも……手放すのは、簡単じゃないんだ」


その声は、怒りでも拒絶でもなく──ただただ、寂しさに滲んでいた。


胸の奥が、じんわり温かくなる。




※物語の整合性を整えるため、少し修正を加えました。

香澄たちの物語を見守っていただけると嬉しいです。

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