①
ここは、とある繁華街の奥にひっそりと建つラブホテル『ロワール』の事務所だ。
外観は異国の城を模したようにライトアップされ、夜の喧騒から切り離されたような、不思議な存在感を放っている。
その裏側にある事務所は、四畳半ほどの狭い空間だった。
壁一面には監視カメラのモニターが並び、まるで小さな管制室のようだ。
私はその前で、横顔にかかった髪を耳に掛けながら、ズルッとカップ麺をすすっていた。
「……やっぱり、別の味にしとけばよかったなぁ」
残り三分の一になったカップ麺を睨みつける。
新商品に惹かれて買ったけれど、期待外れだった。
それでも、残すと負けた気がするから完食する。これだけは譲れない。
ペットボトルのお茶を飲み干し、ふぅと息をついた。
夜勤明けの身体は重い。
ここ数日は人員不足で清掃の業務を手伝う事もあり、じんわりと疲れている気がする。
清掃は特に大変で、私も新人の時に研修として身を持って経験していた。
部屋内やバス・トイレ・ベッドメイキングはもちろんのこと、普通に暮らしていたら滅多に遭遇しないであろう量の汚物や血液などを、短時間で綺麗にして部屋を元通りにしなくてはならない。
さらに、繁忙期は回転率も特に重視される。
今月はクリスマスの時期ほどではないけどハロウィンのイベント的なノリで利用する客もわりといる。
普段はしないようなコスプレをして盛り上がるのだろう。
この先の繁忙期の事を考えると気が重くなるけど…仕事場がそういう場所なのは分かっていて勤めているのだから諦めも肝心だと思う。
何事も無ければ一人で仕事が完結出来るのは私にとって重要だ。
時刻を確認して、あと数時間で外に出られると思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
「あの限定スイーツ…絶対に食べよう!」
甘い物のことを考えるだけで、ちょっと幸せになれる。
帰りに買うと決めている《秋の新作スイーツ》を思い浮かべながら、パソコンに向かって日報を入力する。
10月1日(火)
担当:佐伯 香澄
休憩:20件
宿泊:10件
利用者:33名
連絡事項:特になし
ここ『ロワール』は24時間交代制の勤務だが、基本はモニター前で座っているだけだ。
“楽で高収入”なんて言われるけれど、実際はラブホによる。
今日は平和な方で、繁忙期ならこんな余裕は絶対にない。
備品の在庫確認、アメニティの補充、精算処理……
淡々と作業をこなしているうちに、退勤時間が近づいてきた。
「……ふぅ、やっと終わった」
夜勤明けの静かな事務所。
オーナーはまだ出勤前で、今は私一人きりだ。
少しだけ気が緩んでいたその時、モニターの端に「場違いな影」が映り込んだ。
(えっ……? 誰……?)
ドクン、と心臓が跳ねる。
モニターに映っていたのは、爽やかなスーツ姿の若い男の人だった。
でも、ここは『ロワール』の事務所入り口。
関係者以外は立ち入り禁止のはずの奥まったドアだ。普通、営業の人ならフロントのインターホンを鳴らすのがルールなのだ。
不審者……ではなさそうだけど、マナーを知らない強引な人なのかもしれない。
私はセキュリティシステムの防犯ブザーを持ちながら、ドアのすぐ裏側まで歩み寄った。
コンコン、と軽やかなノックの音。
「お世話になっております、『ラフィーネ』の芹沢と申します! 嶋田オーナーへ取り次ぎをお願いできますか?」
少し焦ったような若い男性の声。
『ラフィーネ』は、各部屋に置いてあるコスプレ衣装や下着のアパレル会社だ。
マナー違反な場所に立っている自覚なんて、これっぽっちもなさそうな声だった。
(……この人、ここに来ちゃダメなこと、分かってないんだ)
私はドアに張り付くようにして、精一杯の声を絞り出した。
「すみません、お約束はありますか? オーナーは午後から出勤予定ですが……」
シフト表を確認しながら返すと、相手は慌てたように謝り、立ち去ろうとした。
……このまま帰らせるのも気になる。
私は内鍵を外し、僅かにドアを開けて声をかけた。
「オーナーの出勤時間、確認しなくて大丈夫ですか?」
外は思った以上に陽射しが強く、目が眩む。
その光を背にして立っていたのは、長身で姿勢の良いスーツ姿の男性だった。
若い。
新人さんだろうか。
キャラメルみたいな髪色がふわっと揺れて、どこかワンコっぽい。
「……あらためまして、『ラフィーネ』の芹沢と申します」
丁寧な所作で名刺を差し出され、私は受け取りながら名乗り返す。
「名刺はお預かりしますが、オーナーは午後2時に出勤予定です。よければ私からメールで伝えておきますので、一度ご連絡いただけますか?」
「承知しました! 本当にありがとうございます!」
芹沢さんは、安心したように目尻を下げて笑った。
その笑顔があまりに素直で、陽射しの中で少し眩しく見えた。
……が、私は24時間勤務明け。
早く帰りたい。
「では、失礼します」
ドアを閉めようとした瞬間──
まだ芹沢さんは動かない。
「あの……佐伯さんは、こちらに長くお勤めですか?」
ワンコみたいな好奇心丸出しの目。
……可愛い気もするが、今はその目に付き合う余裕がない。
「三年ほどです」
「そうなんですね! この業界だと長い方ですよね?」
空気を読まない返しに、思わず吊り目がさらに鋭くなる。
「……そうですね」
突き放すように言うと、ようやく芹沢さんは察したらしい。
「お忙しいところ、申し訳ありませんでした!」
キャラメル色の頭をペコペコ下げながら去っていく。
もし尻尾があったら、しゅんと垂れていただろう。
……ちょっと大人気なかったかな。
胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。




