第9話:鋼鉄の洗礼
雨上がりの廃屋。湿ったコンクリートの壁からは絶えず結露が滴り、沈黙を刻んでいた。
室内に満ちているのは、鼻を突く機械油の匂いと、ギゼが燻らすパイプの香りが混じり合った、重苦しい空気だ。
アンリエットは、錆びた作業台の上に置かれた四十五口径の重みを確かめていた。
かつて彼女が刺繍布に注いでいた繊細な集中力は、今や銃身を磨き、薬室に弾丸を充填する指先に注がれている。
カチリ、と硬質な金属音が響く。彼女の指先は、コンマ数ミリのガタつきさえも許さない精密なセンサーと化していた。
「パパ。右側のスライドがわずかに重いわ。……設計者なら、私の指の癖くらい完璧に把握しておいて。今の私は、あなたの設計した『理想』からはみ出し続けているんだから」
その声には、以前のような無垢な響きなど微塵もない。ただ、自らの肉体の一部を点検するような、冷徹な職人の響きがあった。
ギゼは黙って銃を受け取り、ヤスリとオイルで微調整を繰り返した。彼の指先は、今や彼女の身体を癒やすためではなく、彼女が振るう暴力を研ぎ澄ますための道具となっていた。
「……アンリエット。明日の標的は、物流部門の総括だ。そこを叩けば、本拠地へのアクセス・コードが手に入る」
「わかったわ。……ねえ、ギゼ。今日の夕飯はシチューがいい。あなたが教えてくれた、あの甘すぎる味付けの。……毒でも何でも、私は完食してあげるから。それが、あなたが私を『作り替えた』ことへの対価でしょう?」
アンリエットは、返り血で黒ずんだあの刺繍布を、今は銃のグリップに滑り止めとして巻き付けていた。
彼女は、自分が「アンリエット」という製品であることを受け入れた。その上で、自分を設計した男を「飼い慣らす」怪物へと進化し始めていた。
夜、街の外れにあるコンテナターミナル。
そこは組織の血管とも言える物流の要所だった。巨大なクレーンが恐竜の骨格のようにそびえ立ち、海風がコンテナの隙間を抜けて不気味な笛の音を奏でている。
二人は暗闇に紛れ、獲物を待った。だが、今回現れたのは、これまでの「人間の警備員」ではなかった。
コンテナの影から、音もなく三つの人影が滑り出してきた。
月光を反射する、凍てつくような銀色の髪。自分と全く同じ、端正すぎる顔立ち。だが、彼女たちの動きは今まで見てきた個体よりもさらに洗練され、重力を無視するかのように滑らかだった。
「……次世代型か。感覚受容器のバイパスが強化されている。思考と運動のラグを極限まで削ぎ落とした、最新の殺人ユニットだ」
ギゼが通信機越しに低く唸る。
「私の後継者たちね。素敵だわ。……でも、教わらなかったの? 姉さんには敬意を払えって」アンリエットは冷ややかに笑い、影を飛び出した。
次世代型たちは、即座に散開し、完璧な三角形の包囲陣形を組んだ。
彼女たちはアンリエットがこれまでに培った格闘術や射撃パターンをすべてデータとして共有している。 一体目がナイフでアンリエットの視界を奪い、二体目が死角から膝関節を狙う。その動きは鏡合わせのように精密で、アンリエットを翻弄した。
「無駄よ、137号。あなたの最適解はすべて算定済み。……次の一手は、左への回避」 次世代型の一体が無機質に呟く。予言通り、アンリエットが踏み込もうとした場所に、正確に三体目の弾丸が撃ち込まれる。
だが、アンリエットの口角が吊り上がった。 「算定? ……笑わせないで。私の動きは、あなたの古い計算式には収まりきらないわ」
アンリエットは、あえて重心を崩した。それは格闘術の基本を逸脱した、醜い「よろめき」だった。
だが、その不規則な揺らぎが、次世代型の演算をコンマ数秒狂わせる。彼女の動きは、ギゼが彼女を「人間」として育てようとした際の「余計な所作」――ベーカー夫人の家で見た刺繍の運針、シチューの鍋をかき混ぜる際の手首のひねり、そうした「生活の記憶」が混ざり合った、歪な変拍子となっていた。
「アンリエット、今だ。三時の方向。奴らの関節駆動は人間には感知できないほどの、しかし確実にわずかなラグがある」
ギゼの声が耳の奥を揺らす。
アンリエットは、弾丸の雨の中を踊るように突き進んだ。
次世代型のナイフが彼女の頬を掠め、鮮血が舞う。だが、彼女はその痛みさえも「覚醒」の合図として利用した。
彼女が繰り出したナイフの軌道は、直線の「刺突」ではなく、刺繍糸を布に通す際のような、柔らかな、しかし逃れられない「曲線」を描いた。
「なに……これ……」次世代型の首筋を、アンリエットの刃が撫でる。
セラミック装甲ではなく、カーボンファイバーで編まれた帷子、その隙間にある冷却パイプの継ぎ目――頸動脈を、針の穴を通すような正確さで、しかし殺意に満ちた暴力で引き裂いた。
激しい火花が散り、自分とわずかに違う顔をした少女が、電子の悲鳴を上げて崩れ落ちる。
アンリエットは止まらない。二体目の次世代型が放った銃弾を、わずかな首の傾げだけでかわし、そのままゼロ距離まで肉薄した。
「完璧ね、パパ。あなたの言う通り、彼女たちは『正しい』けれど、『美しくない』わ」
アンリエットは、相手の銃身を掴んで強引に上向かせると、その懐に潜り込み、肘を支点に相手の顎をカチ上げた。
それは軍用マニュアルにはない、野卑で、しかし生物的な執着に満ちた打撃だった。
相手が姿勢を立て直そうとする寸前、アンリエットは四十五口径を相手の胸部プレートの「歪み」に押し当て、三発連射した。分厚いセラミックを貫通し、内部の人工臓器を粉砕する衝撃波。二体目が、物言わぬ機械の骸となって地に伏した。
最後の一体。彼女はわずかに後退し、アンリエットの「不規則性」を再計算しようとしていた。
だが、アンリエットはその猶予を与えない。そもそも、「不規則性」を「計算」することなど、出来はしない。
彼女はグリップに巻いた刺繍布を強く握り、最後の一歩を踏み出した。
「さあ、計算して。今の私のこの『憎しみ』が、何ニュートンの圧力であなたの心臓を握り潰すか」
アンリエットのナイフが、次世代型の右目のセンサーを貫通した。激しいショート音が鳴り、ターミナルに静寂が戻った。
アンリエットは、倒れ伏した自分と同じ顔――いや、わずかに違う顔――の少女たちを見下ろした。彼女たちの瞳にある虚無。それは、自分が失いかけた、あの醜い深淵そのものだった。
「かわいそうに。……あなたたちには、毒入りのシチューを作ってくれる『悪いパパ』がいなかったのね。だから、あなたはただの、壊れやすいガラクタで終わったのよ」
アンリエットは、返り血を拭うこともせず、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の呼吸は荒く、全身の神経が焼き付くように熱かった。だが、その疲労感こそが、彼女にとっての「生」の証明だった。
車に戻ったアンリエットの服は、硝煙と返り血、そして海風の匂いで満ちていた。
ギゼは運転席で、震える手でタバコを吸おうとしていた。マッチの火が定まらない。
アンリエットは無言でその手を掴み、タバコを奪い取ると、自分の唇に当てた。
「……アンリエット」 「あなたが教えたんでしょう? 私たちは共犯者。……あなたの肺に溜まる汚れも、私が半分引き受けてあげる」
アンリエットは、かつてベーカー夫人に向けたような「理想の娘」の微笑みを浮かべながら、深く煙を吸い込んだ。
だが、その眼差しの奥には、決して消えることのない深い拒絶と、逃れられない狂気的な依存が、複雑に絡み合って渦巻いていた。
「パパ。車を出して。……明日は、もっと高いところにある『ゴミ』を片付けに行きましょう。私の、そしてあなたの過去を、全部掃除しに」
二人の車は、夜の闇へと溶け込んでいく。
アンリエットは、グリップに巻かれた刺繍布のざらついた感触を確かめながら、次の標的を、そして隣に座る「最愛の仇」を見つめていた。
(つづく)




