第8話:亡霊の揺りかご
窓を叩く雨音だけが、廃屋となった古い診療所の沈黙を埋めていた。
かつて組織の「掃除屋」として街を追われた際、ギゼが万が一の隠れ家として確保していたこの場所には、生活の匂いなど一切ない。
あるのは、埃を被った医療機器の死骸と、カビの混じった冷たい空気、そして死を待つ者の吐息だけだ。
アンリエットは、錆びたベッドの上で、糸の切れた人形のように横たわっていた。
視線は天井の一点、剥がれかけた塗装の染みを見つめたまま動かず、呼吸は機械的なまでに浅い。
彼女の精神は、「自分と同じ顔をした骸」の記憶に塗り潰されていた。網膜に焼き付いた140号の焼ける肉の匂い、127号の砕けた肘の感触。
それらが濁流となって彼女の脳内を駆け巡り、「自分」という個の輪郭を溶かし去っていた。
ギゼは、彼女の傍らで古いノートPCを開き、点滴の速度を調整し、アンプルを打ち込み、アンリエットの生体反応をモニターしていた。
キーボードを叩くその指先は、迷いなく、そして冷徹だった。画面に流れるのは、一介の「掃除屋」が知り得る範囲を遥かに超えた、軍用クローンの深層神経系ダイアグラム。
複雑な数式と、パルス状に波打つ脳波のログ。
ギゼは、画面の隅に表示される「情動エラー:臨界」という赤い文字を、忌々しそうに見つめた。
かつて自分が、このモデルの「限界」を試すために設定した数値だった。
「……127号。140号。そして……いや、お前たちアンリエット型は……」
ギゼの声は、長い間使われなかった古い扉が軋むように掠れていた。反応のないアンリエットに、彼は聞かせるように、あるいは自分という壊れかけた器に言い聞かせるように語りかける。
「彼女が死んだのは、事故じゃない。『仕様』だ。思考の自由は、お前たちには最初から許されていないんだ。自由を望むというバグ。それを組み込んだ連中は、お前たちが『外の世界』を望むこと自体を、システム全体への深刻な攻撃だと定義した。彼女の脳が焼けたのは、お前を見て『人間』になろうと足掻いたからだ。ハーブの香りや刺繍の針が動く風景……それを想像した瞬間に、彼女の首筋にある爆弾のカウントダウンは始まっていたんだよ」
ギゼは、アンリエットの細い手首を掴んだ。そこには、激戦でオーバーヒートした神経チップの跡が、まるで吸い殻を押し付けたような赤黒い痣となって残っている。
彼はその醜い傷跡を、狂おしいほど愛おしむように、あるいは自らの消えない罪を刻みつけるように、骨が軋むほど強く握りしめた。
そして、ギゼはもっとも残酷な一言を、鉛を口から引き出すような重さを以て言った。
「すまない、アンリエット。……お前の中に、こんな残酷な呪いを植え付けた連中の、俺もその中枢にいた」
「俺のこの指が、お前たちのその美しい思考を『エラー』として処理するように、かつて設計図を引き、論理回路を組んだんだ。お前の感受性が高ければ高いほど、兵器としての殺傷能力が上がる……そんな悪魔の計算式を完成させたのは、俺なんだ」
アンリエットの指先が、微かに、痙攣するように跳ねた。
意識の深淵、深い闇の底で、彼女はその言葉を拾い上げた。
憎むべき創造主の声。だが、その声はひどく震え、崩れ落ちそうなほどの後悔に満ちていた。
彼女の虚ろな瞳に、一瞬だけ、針の先のような鋭い光が宿る。
それはまだ「自我」と呼べるほど確かなものではなかったが、自分をここまで貶めた男に対する、生命としての本能的な拒絶反応だった。
ギゼは構わず続けた。もはや彼女に聞こえているかどうかは、彼にとって重要ではなかった。
これは彼自身の、遅すぎた、そして誰にも許されることのない告解だった。
「俺は逃げたんだ。自分が作った『製品』が、意思を持ち、泣き、そして壊されていく光景に耐えられなくなった。俺はお前を助けたんじゃない。ゴミ捨て場でお前を見つけたとき、俺は自分自身が捨ててきた良心の残骸を見たんだ。俺はお前という鏡を見て、自分の罪から逃げ出したかっただけなんだよ」
ギゼは、救急キットから一本の太い注射器を取り出した。
中には、休止状態にある彼女の神経系を強制的にブーストさせ、焼き切れた回路を修復あるいはバイパスして意識を覚醒させる、文字通りの劇薬が入っていた。
それは肉体に過酷な負荷を与え、寿命を削り取る『禁断の術』になりうるかもしれない。
「目を開くんだ、アンリエット。……俺を殺したければ、復讐したければ、まず立ち上がれ。お前に『復讐』という名の目的を果たすための技術を教えたのは俺だ。神経チップを取り除いておいたのも俺だ。その銃口が、最後に俺に向けられるとしても、お前がただの『人形』として、このカビ臭い部屋で終わることだけは、俺が許さない。いや、生きてくれ。俺を許さないでくれ」
首筋に、冷たい針が突き刺さる。
劇薬が血管を駆け巡る。アンリエットの身体が、電流を流されたように大きく弓なりに反った。
「――が、あ、あ…………っ!」
強制的に流れ込む電気信号。焼き切れたはずの神経が悲鳴を上げ、彼女の閉ざされた意識の扉を、内側から重い槌で叩き壊した。
「……っ、……はっ……!」
アンリエットは激しく咳き込み、肺に溜まっていた泥のような血を吐き出した。
焦点の合わなかった瞳が、目の前にいる、自分を壊し、そして無理やり蘇らせた男を捉える。
「……ギ、……ゼ……」 「そうだ。俺だ。……復讐すべき敵は、目の前にいるぞ、アンリエット」
アンリエットは震える手で、ギゼの首元に手をかけた。
指先に力がこもる。殺意か、それともこの世で唯一自分を定義できる存在への縋り付きか。
自分でも分からないまま、彼女は男の肌に深く爪を立てた。
ギゼは逃げなかった。首筋を掻き切られ、血がじわりと滲むのを、彼は静かな、狂信的なまでの満足感とともに受け入れた。
「……あなたが、……私を……この身体に……」
「ああ、そうだ。お前のその痛みも、絶望も、能力も、美貌も、すべて俺の指先が設計図に描いたものだ」
アンリエットは、ギゼの瞳の奥を見た。そこには、自分と同じ絶望が、長い年月をかけて発酵し、どろどろに濁ったような深い闇が横たわっていた。
自分を愛してくれた「パパ」はもういない。そこにいるのは、自分を部品として組み上げ、今また戦場に送り出そうとする「設計者」だ。少なくとも、アンリエットはこの男をそう再定義した。
彼女はゆっくりと手を離し、ベッドの脇に置かれた「あの刺繍の布」を掴んだ。
ベーカー夫人から教わった、不器用な青い花模様。それは今や、返り血と、前の戦いの血と泥で黒ずみ、見る影もなくなっている。
アンリエットは、その布をじっと見つめ、そして、ひび割れた声で笑った。
「……シチューの味も、刺繍の仕方も、……全部、……おままごとの道具だったのね。私を、よく切れるナイフにするための」
「ああ、そうだ。すべては偽りだ。……だが、アンリエット。俺がお前をこの手で殺したくないと願ったことだけは、どの設計図にも書かれていないバグだった。……それを信じろとは言わない。だが、利用しろ。俺の罪も、俺の技術も、すべてをお前の復讐の燃料にしろ」
アンリエットは、黒ずんだ刺繍布を拳の中で強く握りつぶした。
かつての、淡いブルーのワンピースを着て笑っていた少女は、今この瞬間に完全に死んだ。彼女はその布を、ゴミを捨てるように、床の泥の中へ投げ捨てた。
「……ええ。利用してあげるわ」
彼女は立ち上がろうとして、弱り切った足にもつれ、ギゼの胸の中に倒れ込んだ。
ギゼはその身体を、かつての一軒家で見せたような『温かな父親』の手つきではなく、獲物を共に狩り、泥を啜る『共犯者』の力強さで支えた。
「行くわ、ギゼ。ううん、『パパ』。……私を、本当の怪物にして。設計図を超えた、あなたにも止められない、最悪の『アンリエット』に」
「わかった」
会話はそれだけだった。
廃屋の外では、いつの間にか雨が止んでいた。
雲の切れ間から差し込む冷たい月光が、泥にまみれ、血を分かち合った二人を照らし出す。
アンリエットの瞳から、もはや迷いは消えていた。
そこにあるのは、自分を製品としてしか扱わなかった世界そのものを、その根底から焼き尽くそうとする、静かな、しかし消えることのない『人間の炎』だった。
二人の亡霊は、揺りかごを後にし、夜の帳へと溶け込んでいった。
(つづく)




