第7話:双鏡の残響
郊外の高級住宅地の外れに建つその施設は、夜の闇に白く浮かび上がる巨大な墓標のようだった。
表向きは最新鋭の再生医療と遺伝子ケアを謳う『クライン診療所』。ベーカー夫人が『膝が痛むときに通っている』と笑っていた場所だ。だが、その清潔なタイルの下には、迷宮のごとき深淵が隠されている。
ギゼは裏口のハッチをこじ開け、手際よく監視カメラの信号をバイパスした。
アンリエットは、タクティカル・ヘルメットのバイザー越しに、冷たい通路を見据えていた。
地下三階。エレベーターの扉が開いた瞬間、頬を打ったのは、住宅街の陽だまりとは対極にある、凍てついた消毒液と高電圧のイオンが混ざり合った匂いだった。
(知っている。この匂いを、私は知っている)
肺の奥が、拒絶反応で引き攣る。
アンリエットは無言で通路を進んだ。迷いはない。
だが、その足取りは一歩ごとに鉛のように重くなっていく。
行く手を阻む重厚な隔壁。アンリエットがその前に立つと、不可視のレーザーが彼女の眼球を舐めるように走った。
『個体識別番号:H-114(アンリエット型)。網膜パターン照合――適格。アクセスを許可します』
無機質な合成音声と共に、隔壁が音もなく左右に割れる。自分の身体そのものが、この地獄を維持するための『鍵』であるという事実に、彼女は胃の底を焼かれるような嫌悪感を覚えた。
この施設において、彼女は一人の人間ではなく、ただの『認証デバイス』に過ぎなかった。
最深部、データセンターを塞ぐ円形の扉の前で、彼女の足が止まった。 そこには、自分と同じ顔、同じ髪型、同じ体躯の『自分』が、二人立っていた。
「……アンリエット型を発見。第127号、および第140号。不法侵入個体。排除シーケンスに移行」
一人の個体、127号が、感情の起伏が一切ない声で言った。
その瞳にはハイライトがなく、光を反射しない黒い硝子玉のようだ。彼女はギゼが言った『完成された機械』そのものだった。
もう一人の個体、140号は、アンリエットを見た瞬間、わずかに眉根を寄せた。その瞳には、プログラムにはないはずの『困惑』という名の揺らぎが、細い銀糸のように走った。
「あなた……その服……」
140号の声は、酷く掠れていた。
その言葉は、今から殺し合おうとする者同士の言葉としては、あまりにも場違いで、あまりにも切実だった。
アンリエットのタクティカルウェアの隙間から、ギゼが縫い合わせた傷跡が覗いている。それは彼女にとっての「復讐の火種」であったが、140号にとっては、外の世界で誰かに触れられたという『奇跡』の証に見えたのだろう。
「ええ。……でも、血で汚れてしまったわ」
アンリエットがタクティカルナイフを抜く。それが、殺戮の合図だった。
戦闘は、音速に近い濃密な沈黙の中で行われた。
127号の動きは、物理法則をなぞるような最短距離の暴力だった。痛みも恐怖も欠落した彼女の拳が、アンリエットの側頭部を狙う。
アンリエットはギゼに叩き込まれた通り、重心をわずか数センチ移動させ、その衝撃を逃がしながら127号の肘関節を逆方向に破壊した。
メキリ、という硬い音が室内に響く。だが、127号は表情一つ変えなかった。骨が突き出た右腕を顧みず、彼女は残った左腕で、アンリエットの喉笛を指先で貫きにかかる。
「……っ、この化け物!」
アンリエットは翻り、教わった『構造的弱点』――第四頚椎の隙間にナイフの先端を突き立てた。
127号は、一度も呻くことなく、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
自分と同じ顔をした人間が、物言わぬ肉の塊へと変わる。それは、アンリエットがこれまで経験したどの殺しよりも、自分の心臓を直接削り取るような苦痛を伴った。
残るは、140号。彼女はナイフを構えてはいたが、その指先は目に見えて震えていた。彼女は、戦うためではなく、ただ自分を守るために鋼鉄を握っていた。
「ねえ……聞かせて。外の世界は、まだ青いの? 太陽は、あのアンプルの中の光よりも温かい?」
アンリエットは、ナイフを握る手に力を込めた。叫び出したかった。そんなことを聞かないでくれと。
「温かいわ。……ハーブの匂いも、焼きたてのパンの匂いもある。……ベーカー夫人の、あの甘すぎるクッキーの匂いも」
「クッキー……」140号の瞳に、絶望的なまでの憧憬が溢れた。
彼女の脳内に、共有データとしてではなく、自身の想像としての青空が広がったのかもしれない。
彼女はゆっくりとナイフを下ろした。
「逃げましょう。……私を、一緒に連れていって。私も、その温かい世界を……一瞬でいいから。あの日、システムエラーの隙間に見た、あの『家』へ……」
140号が、管理AIに対する明確な離反と、自由への意思を確定させた、次の瞬間だった。
「あ……っ、が………………あ!」
140号の顔が、突如として紫色の苦悶に歪んだ。
首筋に埋め込まれた神経チップが、臨界点を超えた高熱を発し、皮膚を内側から焼き焦がしていく。
それは、自由を望むという『バグ』が発現した瞬間に作動する、非人道的な安全装置だった。
「やめて! 逃げて、140号!」
アンリエットが駆け寄ろうとしたが、遅すぎた。
140号の耳、目、鼻から、黒く濁った血が噴き出した。
脳そのものが高電圧で沸騰し、彼女の細い身体は床の上で激しく痙攣する。
140号は、焼けるような苦しみの中で、最後の一瞬だけアンリエットを見上げた。その瞳に宿ったのは、恨みではなく、「あなたの服は、やっぱり綺麗ね」と言いたげな、淡い微笑みだった。
ドサリ、と重い音がして、140号は物言わぬ骸となった。
静寂が戻ったデータセンター。そこには、三人のアンリエットがいた。
一人は、心を殺して戦った末に壊された『機械』。
一人は、心を求めた末に焼かれた『犠牲者』。
そして、その二つの死体を見下ろして立ち尽くす、アンリエット。
「……あ、ああ……」
アンリエットは自分の腕を掻きむしった。爪が皮膚を裂き、ピンク色の人工血液が滲み出す。
(私は、何? 私は、どちらなの?)
もし、あの日ギゼが私を拾わなかったら。もし、ギゼが私に「心」など教えなかったら。
140号を殺したのは、組織のシステムではない。彼女に外の世界という希望を見せてしまった、私ではないのか。
思考が、音を立てて崩壊していく。
復讐のために手に入れた力も、自由を求めるこの疼きも、それすらもが誰かに仕組まれた「製品のサイクル」に過ぎないのではないか。
私の中にあるこのパパへの愛着さえも、いつか私を焼き切るためのスイッチではないのか。
「……う、うわあああああああ!」
アンリエットは絶叫し、血まみれの床に座り込んだ。 視界が真っ白に染まる。データセンターから情報を抜き取るという目的も、復讐の誓いも、すべてが虚無の彼方へ消え去っていく。彼女はただ、幼児のように自分の身体を抱え、ガタガタと震えることしかできなかった。
「パパ。助けて、パパ……」
震える声で呟く。だが、直後に猛烈な恐怖が彼女を襲う。
その『パパ』こそが、自分をこの地獄へ繋ぎ止め、この残酷な『心』という呪いを与えた張本人かもしれない。
彼は私を救ったのではない。私という製品を調整し直しただけなのではないか。
駆けつけたギゼが、データセンターの扉を蹴り開けた。
火薬の匂いと硝煙を纏った彼が見たのは、二体の同型の死体に挟まれ、焦点の合わない瞳で虚空を見つめるアンリエットの姿だった。
彼女は返り血で真っ赤に染まり、自分の肩に爪を立てて、「私はいない、私はいない」と小刻みに唱えている。
「アンリエット……!」
ギゼが強引に彼女を抱き寄せた。だが、彼女の身体は、死体よりも冷たかった。彼の腕の中で、彼女は何の反応も示さない。ただ、壊れた蓄音機のように、同じ言葉を繰り返す。
「……パンの匂いがするの。ねえ、ギゼ。……もう一度、あの刺繍をさせて。シチューを、作らなきゃ。パパが、帰ってくるから……」
その瞳には、もはや目の前のギゼは映っていない。
彼女の意識は今、血の海の底から逃げ出し、あの偽りの一軒家の陽だまりの中に閉じこもっていた。そこ以外に、彼女の心が生き永らえる場所はなかったのだ。
ギゼは絶望的な沈黙の中で、彼女の頭を強く抱きしめた。
自分のコートに染み付いた安煙草の匂いが、今の彼女にとっては救いではなく、地獄へと引き戻す腐臭であることを知りながら。
アンリエットは、自らが「人間」であろうとした重荷に耐えかね、その精神の幕を、自ら下ろしてしまった。
地下三階のデータセンターに、一人の男の嗚咽と、壊れた少女のうわ言だけが、空虚に響き続けていた。
(つづく)




