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第6話 追跡の疑惑

 シチューの余熱が残る食卓。窓の外では、夕暮れの穏やかな光が新興住宅地を黄金色に染めていた。


  アンリエットは、ベーカー夫人から教わった刺繍をワンピースの裾に施していた。


  だが、彼女の意識はその繊細な針先にはなかった。


  不意に、鋭い針先が彼女の指先を深く突いた。ぷくりと膨らんだ赤い雫が、真っ白な布に小さな染みを作る。それは美しい花模様を汚す、消えない『死の紋章』に見えた。彼女はその指を舐めることも、痛みに顔を顰めることもしなかった。ただ、自分の体内に流れる血が、夫人の焼くパイのジャムよりもずっと暗く、鉄の匂いがすることを確認しただけだった。


「ギゼ。いつまでここで『おままごと』を続けるの?」


 針を止め、彼女は静かに問いかけた。その瞳は、平和な日差しを拒絶するような、凍てついた鋼の輝きを湛えている。


「わたしの手や指先は、刺繍をするためにあるのではないわ。それに、この手で夫人の教えてくれた刺繍をする資格は、もうないと思う」


 ギゼは安タバコではなく、上質な葉を詰めたパイプの煙をくゆらせながら沈黙した。それはまるで、肺が煙で詰まって言葉が出せないという言い訳をするしぐさのように見えた。あるいは、この偽りの香りに自分自身の鼻を慣らそうとしているようにも。


「……ここでの生活は、お前の精神を安定させるための措置だ。殺人機械マシーンとしての性能を維持するには、日常という休息が要る」


「わたしはもう、じゅうぶん休んだわ。これ以上穏やかな空気に身を任せていたら、あなたが教えてくれたことが無駄になる」


「アンリエット型の戦闘技術は、一度組み込まれれば、たとえ失われても再度教えれば十分脳と体に定着する。お前がその例だ。自分自身がよくわかっているだろう」


 アンリエットは殺意のない、しかし警戒心を鋭く秘めた瞳でギゼを射抜く。


「ずいぶんわたし……いいえ、アンリエット型に詳しいのね」


 ギゼの眉が微かに動いた。「……仕事屋は、いろいろ学んでおかないと死ぬ。それだけだ。お前も殺人以外のことを学ぶときがくる」


「来ないわ」


 会話はそこまでだった。


 アンリエットは立ち上がり、ドレッサーの奥から、自ら収集した「あるリスト」を取り出した。それは、前回の晩餐会で標的の男から、息の根を止める瞬間に抜き取った電子デバイスのデータだった。


「私はもう、逃げないし、待たない。……次は、こっちから見つける番よ」


 二人はその日のうちに、こぎれいな一軒家を「前線基地」へと変貌させた。


 アンリエットは、淡いブルーのワンピースを脱ぎ捨て、黒いタクティカルウェアに身を包んだ。


 髪を短く結び、腰には四十五口径、足首には教わった通りの位置にナイフ。その姿は、住宅街の理想の娘ではなく、夜を統べる狩人のそれだった。


 彼女はそのまま、獣のごとき足取りで玄関へ向かおうとした。


「待て」


 ギゼの声が低く、しかし鋭く制した。


「なに!?」アンリエットは明らかに苛立ちを孕んだ声で問い返した。


 その瞬間、彼女の視界の天地は逆転した。


 天井に立っていたかと思うと、次の瞬間には、硬いフローリングが彼女の側頭部を直撃していた。自分がギゼに足払いをかけられ、真っ逆さまにひっくり返ったのだと理解するまで、アンリエットは呼吸をすることさえ忘れていた。


「お前は今、冷静じゃない」 


 ギゼはパイプを行儀よくデスクの上に置き、オーク材を削り出し、精緻な文様が刻まれた椅子に座った。体を激しく痙攣させているアンリエットは、地面に叩きつけられ、逝く間際の蝉のようにも見えた。


「知っているか?  街のはるか外にある野生の世界。そこでは、大型の肉食獣ほど、獲物を狙うのに慎重になるという。踏み潰せるような小兎を捕まえるときにでも、『確実に仕留められる』と冷徹に決心したときにしか、捕食者は動かない」


「……っ、……はっ」


「心を静めろ。冷静になれ。短時間でお前は昔を取り戻し、俺の教えで強くなった。しかし強いだけでは殺しも復讐も果たせない。それをお前は理解しているはずだ」


 ギゼは立ち上がり、救急キットを持ってきた。アンリエットの額から流れる血を、刺繍を施していたあのワンピースを切り裂いた布で拭う。


「……はい。ごめんなさい。わたし、調子に乗りすぎていたわ」


「子どもの面倒を見るのは大人の仕事だ。傷を見せろ。縫ってやる」


「次からは、ヘルメットもつける」


「だから落ち着けと言っているんだ。……いいか、痛みは敵じゃない。それはお前がまだ生きていることを教える、唯一の『自己診断機能』だ。それを無視するようになったとき、人間は本当のガラクタになる」


 ギゼの太い指が、繊細な医療用の針を操り、彼女の皮膚を繋いでいく。アンリエットは、その痛みを噛み締めながら、自分が「人間」という形を維持するために、この男の教えと技術を必要としていることを再認識していた。


 夜、二人は『ラット』が根城にする、下水処理場近くの廃ビルを包囲した。








 アンリエットは、ギゼから手渡されたタクティカル・ヘルメットの顎紐を締め、冷たい暗闇を見つめた。



「……作戦は?」


「シンプルよ。私が正面から入る。殺せる奴はわたしが殺す。逃げ出した奴は、あなたが外で仕留めて」


 廃ビルの中に、肉を叩くような鈍い音と、男たちの短い悲鳴が響き渡る。


 アンリエットの攻撃は、以前に見せた「静かな暗殺」とは対照的に、激しく苛烈だった。


 彼女は迷わなかった。男の膝を砕き、鼻梁を叩き折り、意識が飛ぶ寸前の耳元で「診療所の場所は?」と死神のように囁く。その動きには、軍用クローンとしての天賦の才と、ギゼが磨き上げた「殺しの合理性」が完璧に融合していた。


 最奥の部屋。震えながら机の下に潜り込んでいた『ラット』を引きずり出したのは、返り血で黒い服をさらに黒く染めたアンリエットだった。


「お、お前……あの時のアンリエット型か!? 廃棄したはずだ、生きてるはずが――」


「ええ。死に損なったわ。……だから、あなたの『最期』を届けに来たの」


 アンリエットは男の指を一本ずつ逆方向に折り曲げた。骨が砕ける確かな感触。男の絶叫が廃ビルを揺らすが、彼女の心は凪のように静かだった。


 ふと、彼女の脳裏に、数時間前にギゼにかけられた足払いの残像が浮かぶ。


 あのアクション。ギゼが自分を制圧したときの手首の返し、体重の乗せ方。それは今、自分がこの男の関節を破壊している理論と、驚くほど精密に、鏡合わせのように一致していた。


 アンリエットは男の喉元を掴み、意識が飛ぶ寸前の耳元で囁いた。


「私をゴミ捨て場に捨てるよう命じたのは誰?  組織の窓口を言いなさい。……言わなければ、次は関節を一つずつ外していくわ。……ねえ、知ってる?  鎖骨を外すとき、人間は声も出せなくなるんですって」


 それは、アンリエットがギゼから直接教わったことではなかった。だが、今の彼女には「知っている」という確信があった。まるで、最初からその知識が自分の神経系にプリセットされていたかのように。


 一時間後。ビルから出てきたアンリエットの手には、血に濡れたメモがあった。


 彼女はヘルメットを脱ぎ、夜風に髪をさらした。背後に立つギゼの気配を感じる。


 アンリエットは振り返らず、自分の右手の掌をじっと見つめた。


「……ギゼ」


「なんだ」


「さっき、あいつの体を壊しているとき、変な感じがしたの」


「……興奮したのか。それは性能の一部だ。気にするな」


「違うわ。……『懐かしい』って思ったの」


 ギゼがパイプを咥えようとした手が、わずかに止まる。


「あなたの教え方は、すごく分かりやすい。……でも、それだけじゃない。あなたが私に触れて、重心の移動や関節の隙間を教えるとき、わたしの体の中にある『何か』が、あなたの指先に馴染んでいくのがわかるの。まるで……最初からあなたの指を知っていたみたいに」


 アンリエットはゆっくりと振り返り、暗がりに立つギゼを真っ直ぐに見つめた。


「ギゼ……、ううん、パパは、本当に掃除屋として殺してきただけなの? ……それにしては、わたしたち、似すぎている気がする」


 ギゼの顔は、パイプから立ち昇る煙に遮られて読み取れなかった。彼は重苦しい沈黙の後、吐き出すように言った。


「……お前のような軍用モデルは、規格品だ。壊し方のセオリーも一つしかない。俺が教えたのがその『正解』だった。それだけのことだ」


「……そうね。パパがそう言うなら、そうなんでしょうね」


 アンリエットは追及を止め、血の匂いのするメモをポケットにねじ込んだ。


「次の場所がわかったわ。……パパ、車を出して」


 彼女が車へ向かって歩き出すと、ギゼは肺に溜まった煙を、呪詛のように吐き出した。


 ――彼女は気づき始めている。






(つづく)

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