第5話 偽りの肖像
白い木目のフェンスに、手入れの行き届いた小さな庭。 そこにあるのは、刈り取られたばかりの芝生の香りと、どこかの家から漂ってくる焼き立てのパイの匂いだけだ。
少女は、淡いブルーのワンピースの裾を揺らしながら、庭のハーブに水をやっていた。
「おはようございます、ギゼさん、アンリエットちゃん。今日もいいお天気ね」
隣家のベーカー夫人が、ふくよかな顔に柔和な笑みを浮かべて柵越しに声をかけてきた。
「おはよう、ベーカー夫人。ええ、ハーブたちも喜んでいるみたい」
少女が振り返り、天使のような微笑みを返す。
「まあ、本当にかわいらしい。こんなに素敵な娘さんがいて、あなたは幸せ者ね。うちの息子がもう少し若ければ、放っておかなかったわよ」
庭先で古びた木製椅子に座り、読書にふけっていた彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「過分なお言葉です、夫人。娘が元気でいてくれることだけが、私の今の望みですから」
彼はそう言って、少女に穏やかな視線を向けた。
昼食の買い出しに出かける際も、ふたりはとても微笑ましい姿を見せた。
地元の活気あるマーケットを、腕を組んで歩く。青年が少し重そうに紙袋を抱え、少女がその横で今日作る献立について楽しげに語らう。
「ねえ、パパ。今日は新鮮なトマトが安いわよ。夜はシチューにしましょう?」
「お前の好きなようにしなさい。……少し歩くのが早いぞ」
「ごめんなさい、パパ」
少女は小走りに戻り、彼の腕にそっと手を添えた。たくさんのひとに微笑まれ、微笑みを返しながら、買い物と公園遊びで夕暮れが近づいてきた。
その日の夜。家に戻り、すべてのカーテンを閉め切った瞬間に、部屋の空気は一変した。
ギゼは、穏やかな父親の仮面を脱ぎ捨て、ドレッサーの前にアンリエットを座らせた。
「……ベーカー夫人への受け答えは満点だ。だが、マーケットでの歩き方が少しだけ軽快すぎた。か弱さを演出するなら、もう少し足取りに『迷い』を混ぜろ」
「わかった。次からは気をつける」
「だめだ、次があるとは限らない。あとで俺の前で実践しろ」
「わかった」
アンリエットの声から、甘い蜜のような響きが消え、硬質な無機質さが戻る。
ギゼは大きな手で、繊細な化粧筆を握った。パレットから色を選び、彼女の肌に「演出」を施していく。
それは彼女を美しく飾るためではなく、獲物を油断させるための「毒」を塗る作業だった。
ふたりは偽造家族だった。
この新興住宅地を流れる空気には、スラムの鼻をつく薬品臭も、絶望が発酵したような死の匂いも一切混じっていない。
ベーカー夫人はこの少し歳の離れた父娘を、内戦か何かで故郷を追われ、この静かな街に安住を求めてやってきた慎ましい避難民だと信じ切っている。
アンリエットの声は鈴の音のように澄んでおり、数週間前に地下射撃場で火薬の煙を吸い込んでいた少女とは到底結びつかない。
ギゼは安物の眼鏡を鼻先にかけ、どこにでもいる、少し気難しいが実直な父親を完璧に演じていた。
その瞳の奥にある冷徹な「観測者」の光に、ベーカー夫人が気づくはずもなかった。彼は、アンリエットの立ち居振る舞い、声のトーン、近隣住民との距離感に至るまで、すべてを「生存のための偽装」として評価し、合格点を与えていた。
その指先は、数日前まで銃の部品を素早く分解・結合していた精密な機械のようでありながら、今はただ、父親の愛情を求める愛らしい少女のそれだった。
「いいか。今夜のターゲットは、慈善活動家を気取っている男、デズモンドだ。奴は弱者を助ける高潔な聖人を演じているが、その実、自分を頼る無力な存在を飼い慣らし、支配することに悦びを感じる『守護欲』の怪物だ。そして、あの手の男は小児性愛者でもある。奴の前で演じろ。目元にわずかな陰影をつけ、泣き腫らしたあとのような赤みを差す。お前は今、身寄りを亡くし、雨の中で震えている可哀想な子猫だ」
ギゼの指先が、彼女の頬をなぞる。
「会場は、奴が主催するチャリティ晩餐会だ。警備は厳しい。銃は持ち込めない。いいな、アンリエット。音を立てるな」
「……ええ。テコの原理と、頚椎の隙間ね。パパに教わった通りにやるわ」
鏡の中には、今にも折れてしまいそうな、儚くも美しい「偽りの肖像」が完成していた。
アンリエットはその顔をじっと見つめ、鏡の中の自分に向かって、ベーカー夫人に向けたのと同じ、しかし中身のまったくない微笑みを浮かべた。
その数時間後。幸せな家庭の肖像は、夜の闇に塗り潰された。
豪奢なシャンデリアが輝くホテルの宴会場。
アンリエットは、場違いなほど質素で、しかし彼女の美しさを際立たせる白いドレスを纏い、テラスの隅で一人、震えるように佇んでいた。
「……お嬢ちゃん、こんなところでどうしたんだい? まるで迷子の小鳥だ」
声をかけてきたのは、ターゲットのデズモンドだった。恰幅の良い体に、仕立ての良いタキシード。その瞳には、獲物を見つけた爬虫類のような、歪んだ慈愛が宿っている。
「……ありがとうございます。私、あまりに綺麗で、怖くなってしまって……」 アンリエットは潤んだ瞳で男を見上げ、その太い腕を頼るように縋りついた。
「おやおや、可哀想に。静かな場所で話をしよう。おじさんが力になってあげるよ」
デズモンドは満足げに鼻を鳴らし、彼女をバルコニーの先にある個室へと誘った。
扉が閉まり、密室となった瞬間。アンリエットの全神経が「兵器」へと切り替わった。
男が彼女の細い肩に手を回し、自身の優越感に浸ろうとしたその時だ。
「なんだ、お嬢ちゃん、その手――」
アンリエットの動きは、ギゼが叩き込んだ「テコの原理」そのものだった。
男の腕を絡め取り、全体重を最小限の支点に集中させる。男の巨体が、羽毛のように軽々と浮き、壁に押し付けられた。
アンリエットの細い指が、男の顎と後頭部を、冷徹な機械のごとき正確さで固定した。
男が恐怖に目を見開く。その瞳に映ったのは、愛らしい少女の顔ではなく、底知れない虚無を湛えた死神の貌だった。
――メキッ。
乾いた小枝を折るような、小さな音がした。
悲鳴さえ許さない、電光石火の処刑。頚椎を破壊されたデズモンドは、何が起きたのかさえ理解できぬまま、アンリエットの膝の上に崩れ落ちた。
彼女は男の身体から「生」が完全に消えるのを、脈拍が止まるまで、石像のように静かに確認した。
数分後、アンリエットは裏口から、待機していたギゼの車へと現れた。
彼女の顔には、まだギゼが施した「か弱き迷子」の化粧が、冷たい汗と混ざり合って、醜く残っていた。
「終わったわ、ギゼ」
ギゼは何も言わず、彼女の顔を乱暴に、しかし逃れることのできない共犯者の手つきで拭った。
「……帰るぞ。明日の朝は、またベーカー夫人に挨拶をして、庭のハーブに水をやるんだ。忘れるな」
「ええ。……トマトが安かったから、明日はシチューにしましょう」
彼女は再び、近隣住民から愛される「理想の娘」の顔を作ってみせた。
ギゼは、その完璧すぎる微笑みが、かつて自分が拾った壊れたアンリエットよりも、遥かに救いようのない場所にいることを確信し、奥歯でタバコを噛み潰した。
(つづく)




