第2話 復讐の値段
目が覚めたとき、最初に感じたのは「熱」だった。
それは内側から体を焼くような高熱ではなく、喉を通って胃に落ちていく、重くて温かい液体の感覚。泥の中で凍りついていた感覚が、その熱によって一枚ずつ剥がされていくようだった。
アンリエット型――『No.137』は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に入ってきたのは、染みのついた天井と、安物の電球の光。そして、鼻をつく安煙草の匂い。
「……気がついたか。死に損ない」
低い、砂を噛むような声がした。
視線を動かすと、椅子に深く腰掛け、新聞を広げている男がいた。彼はアンリエットが身じろぎしたことに気づいても、新聞から目を離そうとはしなかった。
「ここは……」
「俺の部屋だ。お前を担いで階段を登る羽目になったおかげで、俺の膝は悲鳴を上げてる。感謝するなら、今すぐそのスープを飲み干して、さっさと体力をつけろ」
ギゼは顎で、サイドテーブルに置かれたマグカップを示した。中には、豆をドロドロに煮込んだ茶褐色のシチューが入っている。
アンリエットは震える手でそれを掴み、唇を寄せた。熱い。だが、その熱さが心地よかった。味など分からなかったが、喉を通り、胃に溜まる感覚が、自分がまだ「物質」としてここに存在していることを証明しているようだった。
「なぜ、私を直したの?」
半分ほど飲み干したところで、彼女は掠れた声で質問した。
アンリエット型は相当な数世代も前のクローンだ。戦闘用としてもライフルの連射さえ避ける事すらできず、愛玩用としてもすぐに反応が鈍くなる。『使用者』も読み終わった三文小説のほうが価値があるかの如く路地裏に投げ捨てる。
使い物にならなくなれば棄てる。それがこの世界の、そして彼女たちを造った者たちの絶対のルールだ。慈悲や同情といったコストのかかる感情を、クローンに割く人間などいない。
ギゼは新聞を折り畳むと、ようやく彼女を正面から見た。その瞳は、深い夜の海のように暗く、冷たい。
「勘違いするな」
彼はタバコを灰皿に押し付け、淡々と言葉を継いだ。それはまるで潰したタバコの残りのような残滓を放っていた。
「お前は、アンリエット型の中でも希少な初期ロットに近い個体だ。少し磨いて健康体に戻し、適切な『調整』を施せば、好事家ぞろいの闇市場では飛ぶように売れる。仕事屋の年収分、いや、それ以上になるかもしれない。そんなものをほうっておくほど、俺の台所事情は良くないんだ」
アンリエットはその言葉を、驚くほど素直に受け入れた。
「そう。……つまり私は、のちのち売るための商品として拾われたのね」
「そうだ。だから死なれると、俺が損をする。わかったら寝てろ。今夜からはまともな衣食住を約束する。しかしお前がそれを反故にしたり無駄にするようなことがあれば、俺はお前を許さない。俺の言うとおりにして、健康を取り戻すんだ。売るのはそれからか……」
「……どうしたの?」
「なんでもない。食材と服を買ってくる。女物の服屋に入る度胸は俺にはない。男物で我慢しろ。じゃあな」
そう言ってギゼは、飛んで跳ねれば折れて中空に放り出されそうな古びた階段を降りて行った。あとには古く錆びた部屋と、拾われたときよりいくばくかきれいになったアンリエットが残された。
しばらくの後、彼は両手にガサガサと羽虫の擦れるような音を立てる紙袋を持って帰ってきた。ひとつは食料品で、ひとつは衣類のようだった。
ギゼはアンリエットに紙袋を放り投げた。『こんなきれいなものをもらっていいのか?』と問えば、彼がこちらを見ずに『着たくなければ着るな』ということがわかっていたので、アンリエットは黙って衣類を取り出した。古着のようだったが、ずっとボロ布をかぶっていただけのアンリエットには、それがまるで最高級のガウンのように感じられた。
「着替えろ。俺は食事をつくる」
ギゼはぶっきらぼうにそう言うと、背を向けてキッチンへ去った。
たった一日しか共に過ごしていないが、アンリエットは、彼が悪人のようには見えなかった。
この街では、命は使い捨てだ。なぜなのかといえば、そうだからだとしかいえない。
とにかく、命とはそういうものだ。だが、彼が野菜を切りスープをつくる背中には、彼が口にする「損得」以上の、何か奇妙な重みが漂っているように見えた。
*****
それからの数週間、アンリエットの日常は、緩やかな「回復」の中にあった。
ギゼは約束通り、彼女に良質な衣食住を与えた。朝はパンとスクランブルエッグ、昼は肉の入ったシチュー、夜は温かいミルクとパン。
かつて軍の施設で与えられていた無機質な栄養剤や、変態に首輪をつけられて犬のように飼われていたころの生臭い肉とは違う。噛みしめるたびに美味しさが下を喜ばせ、飲み込むたびに温かくなる本物の食事。
だが、肉体が回復するにつれ、彼女は別の苦しみに襲われるようになった。
「……っ、やめて、離して……!」
深夜、静まり返った部屋にアンリエットの悲鳴が響く。
彼女はベッドの上で、自分の喉を掻き切るような動作をして飛び起きた。全身に嫌な汗をかき、心臓が壊れた時計のように激しく脈打っている。
夢の中で、彼女は何度も「廃棄」されていた。
冷たい手術台、同じ顔をした死体の山。白いガウンを着た男たちが、笑いながら彼女の四肢を分解していく光景。
「……また、あの夢か」
いつの間にか、ギゼが傍らに立っていた。彼は彼女の震える肩を掴むわけでもなく、ただ月明かりの中で新しいタバコに火をつけた。
「ごめんなさい。……私は、壊れているのかもしれない。わたしを直しても売れないかもしれないわ」
「馬鹿を言うな。壊れてなんかいない。壊れた奴は死んだ奴だけだ。お前はクソみたいな記憶が脳のシワにへばりついているだけだ」
ギゼは煙を吐き出し、窓の外の濁った夜景を見つめた。
「悪夢を見るのは、お前の脳が『嫌だ』と叫んでいるからだ。それは生身の人間が持っている、生きている証拠だ。人形は、寝言も言わなければ、汗もかかない。つまり、お前は人間だということだ」
彼の不器用な言葉は、どんな鎮静剤よりも深く彼女の胸に染み込んだ。彼女は、自分が『人間』として扱われているという錯覚に、少しずつ安心していった。
ある昼下がり。ギゼがシャワーを浴びている隙に、アンリエットは机の上に置かれた『四十五口径』に目を奪われた。
鈍く光る鋼鉄の塊。ギゼが『掃除』に使う道具。
彼女は吸い寄せられるように手を伸ばし、その冷たいグリップを握った。
ずっしりと重い。それは、自分をゴミ捨て場に追いやった者たちが共通して持っていた「力」そのものの重みだった。
セーフティを外し、彼女が引き金に指をかけようとした瞬「触るな」
背後から、氷のような声が飛んだ。
振り返ると、濡れた髪のまま、ギゼが射抜くような視線で立っていた。その目には、これまでに見たことのない険しさと、そして何らかの『怯え』に似た色が混じっていた。
「……興味があったの。これが、世界を変える道具なんでしょう?」
「勘違いするな。それは遊びの道具じゃない。一度指を動かせば、二度と取り返しのつかない場所へ自分を追い出す、ただの破滅のスイッチだ。そんなことも忘れてしまったのか。アンリエット」
ギゼは彼女の手から乱暴に銃を奪い取ると、セーフティをかけ直し、マガジンを抜いた。
「お前にはまだ早い。……いや、一生縁がない方がいい。重すぎるんだ、いろんな意味でな。忘れたままなら、忘れたままのほうが良いことだってある」
彼はアンリエットを厳しく叱責した。それは彼なりの不器用な、壊れたオルゴールが絞り出す醜いメロディのような拒絶だったのかもしれない。
さらに数日が経った。
アンリエットの頬には健康的な赤みが差し、銀色の髪は本来の美しい輝きを取り戻していた。彼女はギゼの部屋を掃除し、彼の汚れた靴を磨き、彼が帰るのを静かに待つようになった。
時折、ギゼは深夜に、ひどく重い足取りで帰宅することがあった。
彼は何も言わない。だが、彼がドアを開けた瞬間に漂う、火薬の焦げた臭いと、鉄錆のような生々しい血の匂いをアンリエットの鼻は鋭敏に感じ取った。
ギゼは黙ってシャワーへ向かい、こびりついた赤黒い汚れを洗い流す。
アンリエットは、彼が戻ってくるまでに、何も言わずに新しいタオルと、温かいミルクを用意した。
彼は仕事屋だが、掃除屋でもある。誰かを殺し、誰かを片付けて、その報酬で彼女の穏やかな生活を買うこともある。
アンリエットはその事実に恐怖を感じるのではなく、むしろ、ある暗い情熱を育んでいった。
「……明日、引き取り人に会う」
ある朝、ギゼがコーヒーを飲みながら唐突に言った。
「準備が整った。お前を買い取りたいという太い客が見つかった。街から離れた静かな場所だ。そこでなら、お前はもう『番号』で呼ばれることもない。アンリエットという味気ない呼ばれ方もしない。きっといい名前をもらえるだろう」
ギゼは受話器に手を伸ばした。彼女を平和な場所へ売り渡し、自分との縁を切り、彼女の『普通の幸せ』を確定させるために。
「待って。……ギゼ」
アンリエットの声が、受話器を持つ彼の手を止めた。
彼女は椅子から立ち上がり、まっすぐにギゼを見つめていた。その瞳には、かつての空虚さはない。代わりに、燃え盛るような、しかし静かな決意が宿っている。
「お願い。私を売る前に、教えてほしいことがあるの」
アンリエットは、ギゼが大切に手入れをしていたあの四十五口径を指差した。
「復讐する方法を教えて」
「……なんだと? 体が健康になったら、今度は脳のしわがなくなったのか?」
「本気よ。私を造って、私をゴミのように捨てた奴らに……私と同じアンリエットたちを壊し続けている奴らに、復讐するための方法を」
ギゼは受話器を置いた。部屋を流れる沈黙は、かつてないほど重く、そして硝煙の予感に満ちていた。
「復讐か。……教えるのはいいが、その代金はお前を売った金より高くつくぞ」
ギゼの言葉に、アンリエットはわずかに、しかし確かに微笑んだ。
「構わない。私はもう、自分に値段がつくのは飽きたの」
それは、アンリエットがヘンリエッタへと至る、最初の、そして最も過酷な一歩だった。
(つづく)




