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最終話:ヘンリエッタ

 断崖に築かれた施設は、巨大な松明のように夜空を焦がしていた。


 雪混じりの冷たい風が、立ち昇る熱気に煽られて狂ったように渦を巻く。


 その地獄の底から這い出してきた二人の影は、雪原の上に長く、歪な軌跡を描いていた。


 アンリエットの足取りは、もはやおぼつかない。全身に浴びた返り血が、極寒の空気の中で硬く凍りつき、彼女の細い身体から生命の熱を執拗に奪っていく。


 隣を歩くギゼもまた、崩落に巻き込まれた際に鉄骨の破片が刺さった脇腹を押さえ、雪をどす黒く染めながら歩いていた。二人の吐息は白く、重く、静寂を切り裂く喘鳴のようだった。


 崖下の海岸線。波の音だけが、世界の終わりを告げるように響く流木の上に、アンリエットは力尽きたように腰を下ろした。


 背後の施設が、ひときわ大きく、断末魔のような爆音を上げて爆発した。


 夜空を埋め尽くす火花。それが、彼女たちを縛り、蹂躙し続けてきたすべての「設計図」が灰になった合図だった。


「……終わったわね。パパ」


 アンリエットは、震える手で銃のグリップに巻かれた刺繍布を、ゆっくりと解いた。硝煙と泥、そして『自分たちの血』を吸って硬くなったその布を、彼女は凍えた指で愛おしそうになぞる。


 ギゼは彼女の数歩後ろで立ち止まり、血の混じった溜息を吐いた。彼は懐から、あの一軒家から持ち出していた、かつてのパイプを取り出した。だが、火をつける気力も、マッチを擦る指の力も、もう残っていなかった。彼はただ、それを噛みしめることだけで、自分がまだ生きていることを確かめていた。


「……ああ。お前の言う通り、すべて焼き尽くした。データも、サーバーも、予備の個体も。……お前はもう、世界でたった一人の、替えのきかない存在だ」


「……ねえ、ギゼ。こっちへ来て。寒いわ」


 彼女の声は、これまでの戦闘の狂気が嘘のように、驚くほど穏やかだった。  ギゼは一瞬躊躇したが、重い足取りで歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろした。


 アンリエットは、血に汚れたその刺繍布を、ギゼの傷ついた大きな手にそっと重ねた。二人の肌の間に、冷え切った布が挟まる。


「ぜんぶ、ぜんぶ……あなたが教えてくれた」


 彼女は遠い空を見つめた。そこには、あの街で見たような穏やかな星空はなかった。燃え殻が舞い、暗雲が垂れ込める荒んだ空。だが、彼女の瞳には確かに、設計図には描かれなかった何かが映っていた。


「シチューの作り方も、刺繍の仕方も、……復讐の仕方も、痛みの数え方も。私の名前も、私のこの壊れやすい心も。……全部、あなたが私に植え付けた、私のすべてなのよ」


「……ああ。俺が、お前をこんな形にしてしまった。俺という外道が、お前という人間を壊したんだ」


「そうね。壊したの。……だから、責任を取って。ギゼ、あなたといるときだけ、私は『アンリエット型』という製品じゃない。……ただの、ヘンリエッタになれるの」


 彼女は初めて、自らの意志でその名を口にした。


 設計者が名付けた記号でも、組織が管理するためのコードでもない。


 一人の男が、一人の少女を欺くために与え、そしていつしか、二人にとっての唯一の真実となった、呪わしくも美しい名前。


「だから、一緒にいて。……ううん、一緒に居なさい。これがあなたの、永遠の償いよ。私は、一生あなたのことを許さない。一生、あなたが私に何をしたかを、その横顔を見るたびに思い出し続けてあげる。あなたの絶望が、私の生きた証になるように」


 ヘンリエッタは、ギゼの血に濡れた手を、逃がさないように強く握りしめた。


「許さないから。私たちは一生、共にいることになるのよ。……死ぬまで、私の『パパ』で居続けなさい。それが、私を人間にしたあなたの罰。……いいわね?」


 ギゼは絶望し、そして救われたような顔で、白み始めた天を仰いだ。


 彼の目尻を、熱い雫が伝う。それが雪の冷たさか、それとも彼自身の、凍りついていた魂が溶け出した涙なのかは、彼にも分からなかった。


 許されなかった(ゆるされた)。彼はそれを知った。


「……わかった。ヘンリエッタ。……お前が俺をもういいと言うまで。地獄の底まで、お前の『パパ』でいよう。それがどんなに汚れた偽りだとしても、俺はそれを真実として生きよう」


 施設の炎が弱まり、夜明けの灰色の光が雪原を包み込み始めた頃。


 ギゼは重い腰を上げ、痛む脇腹を抱えながら、アンリエット——ヘンリエッタに手を差し伸べた。


「……ギゼ」


「ああ?」


「……お腹、空いたわね」


 ヘンリエッタが、ふっと子供のような顔で笑った。ギゼは一瞬呆気に取られ、それから自分でも驚くほど穏やかな声で応えた。


「ああ。……まずは、火の気のあるところを探そう。そこで、何か温かいものでも」


「……シチュー?」


「そうだな。傷が治ったら、お前が作れ。それまでは俺が作る」


 ヘンリエッタは彼の大きな掌を握り返し、雪を払いながら立ち上がった。二人の身体はボロボロで、服は至るところが破れ、血と煤にまみれている。それでも、二人は確かな足取りで、地獄の燃え殻を後にした。


「どこにいこうか、パパ」


「さあな。……お前の嫌いな追手も、俺を縛る過去も、あそこで全部燃えてなくなった。どこへだって行ける」


 ヘンリエッタは少し考えてから、首に巻いた煤けたスカーフを整えて言った。


「そうね。とりあえず……わたしがアンリエットじゃなく、ヘンリエッタとして生きられるところが良いわ。……名前なんて関係なくて、ただの不器用な親子として、また刺繍でも始められるような、そんな静かな場所」


「……ああ。探そう。そんな場所、この広い世界のどこかには、まだ残っているはずだ」


 ヘンリエッタはポケットの中に、あの黒ずんだ刺繍布を大切にしまい込んだ。


 それはかつて、ギゼという男を殺すためのナイフに巻き付けられていたものだ。だが、これからは違う。いつか、新しい糸を買って、この汚れた布の上に新しい花を咲かせる日のために。


 復讐のために研ぎ澄まされたその指先を、今度は自分自身を愛するために使う日のために。


 雪原に、二人の足跡が刻まれていく。


 片方は大きく重い、罪人の足跡。


 もう片方は小さく、しかし力強い、再誕した少女の足跡。


 それは、設計図には決して描かれることのない、美しく、残酷で、どこまでも不確かな「人間」の歩みだった。


 遠く、朝の光が地平線を照らし出す。  かつて彼らがいた「亡霊の揺りかご」はもう見えない。  ただ、二人の真っ白な吐息だけが、新しい一日の始まりを告げるように、寒空の中に溶け合っていた。









 それから、ひと月が過ぎた。


 国境を越えた先にある、名もなき湖畔の小さな村。そこには、かつての「あの一軒家」を思わせる、陽だまりの似合う古い石造りの家があった。  


 アンリエット――いや、ヘンリエッタの身体に刻まれた無数の傷は、ギゼの手厚い看護によって、ようやく痛みのない傷跡へと変わっていた。


「ヘンリエッタ、そっちへ行っちゃダメだよ! 森の方は危ないから!」


 庭先から、幼い子供たちの弾んだ声が聞こえる。


 ヘンリエッタは、近所の農家の子供たちと一緒になって、色づき始めた草原を駆け回っていた。


 彼女の着ている淡い色のワンピースは、かつてベーカー夫人の家で着せられたものによく似ていたが、今の彼女は、それを『擬態用の製品』としてではなく、ただの少女として着こなしていた。


 彼女は、転んで膝を擦りむいた男の子を抱き起こし、優しく泥を払ってやる。その手つきには、かつて銃を握り、次世代型の喉を掻き切った冷徹さは微塵もなかった。


「大丈夫。痛いの、飛んでいったわ」


 彼女が微笑むと、子供たちはまた嬉しそうに走り出していく。


 ヘンリエッタはその背中を、眩しそうに見つめていた。


 その瞳には、自分の内側にあった自壊スイッチへの恐怖も、設計図に縛られた虚無もない。ただ、穏やかな午後の光だけが宿っている。


 ギゼは、そんな彼女の姿を、テラスの椅子に腰掛けて静かに見守っていた。彼はあの日以来、一度も銃を握っていない。代わりに、彼は毎日彼女のためにシチューを作り、彼女がぼろぼろにした刺繍布を丁寧に洗い、新しい刺繍糸を揃えてやった。


 ヘンリエッタが、子供たちと別れてテラスに戻ってくる。彼女の頬と額には薄っすらと汗が浮かんでいた。


「……パパ。子供たちは、私のこと『お姉ちゃん』って呼んでくれたわ」


「そうか」


「私、あの子たちといるとき、自分が『137号』だったことを忘れられるの。自分が、ただのヘンリエッタなんだって、本気で思えるのよ」


 彼女はギゼの脚の間に座り、彼の大きな胸板に頭を預けた。ギゼはその金色の髪を、壊れ物を扱うように、ゆっくりと撫でる。


「……でも、パパ。私、わかっているわ」


 ヘンリエッタの声が、不意に静かな、大人の響きを帯びた。


「この幸せは、あなたが私にくれた『最後の嘘』なのね。私たちがここに長く留まれば、また誰かが傷つく。私たちの過去は、この穏やかな湖を汚してしまう」


 ギゼは撫でる手を止めなかった。彼の瞳には、夕暮れの赤い光が、まるで施設の火災の残滓のように映り込んでいた。


「……ああ。俺たちの足跡は、あまりにも血に汚れすぎている」


「ええ。……だから、行きましょう。パパ」


 ヘンリエッタは立ち上がり、テラスのテーブルに置かれた『あの布』を手に取った。


 ひと月かけて、彼女はそれを少しずつ補修していた。黒ずんだシミは消えなかったが、その上には新しく、不格好な青い花が一つ、彼女の意志によって刺繍されていた。


 夕暮れが、村全体を燃えるようなオレンジ色に染め上げていく。


 村人たちが家路につき、窓々に灯りがともり始める頃。二人は、誰に告げることもなく、静かにその家を後にした。






 

 大きな荷物は持たなかった。ギゼの背には古びたバックパック、ヘンリエッタの手には、グリップにあの刺繍布を固く、しかし優しく巻き直した四十五口径。


「どこにいこうか、パパ」  ヘンリエッタが、影の伸びる道を見つめて問いかけた。


「そうね。……とりあえず、わたしがアンリエットじゃなく、ヘンリエッタとして生きられるところが良いわ」


 ギゼは、彼女の隣に並び、歩幅を合わせる。


「……ああ。そんな場所、この広い世界のどこかには、まだ残っているはずだ。もしなければ、俺たちが作るしかない」


「ふふ、設計者(クリエイター)らしい言葉ね。……でも、今度は間違えないで。私の心は、もうあなたの計算には収まらないんだから」


「わかっている。……俺はただの、一人の不器用な父親として、お前の歩く先を照らすだけだ」


 二人の影は、夕闇に溶け込むようにして、街道の先へと消えていった。


 彼らが去った後のテラスには、冷めた紅茶のカップと、使い古された刺繍針と、まだまだうまくならない刺繍布が一枚残されていた。


 それは、彼女が「人間」であったことの、そして「人間」として旅立ったことの、静かな証明だった。


 夜の帳が降りる。


 ヘンリエッタとギゼ。


 設計図には決して描かれることのない、美しく、残酷な、そして自由な「二人だけの旅」は、これから一生続いていく。


 もう、彼女を縛る声はない。  ただ、隣を歩く「最愛の仇」の足音だけが、彼女にとっての唯一の福音だった。








「なあ、ヘンリエッタ」


「どうしたの、パパ?」


「いま、お前は俺のことをどう思っている?」


「決まっているじゃない」


 ヘンリエッタは微笑みを向けて、











大嫌い(だいすき)よ」


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