第10話:設計図のあるじ
都市の喧騒が遠い足音のようにしか聞こえない高層ビルの最上階。そこは、世界を動かす歯車の中心でありながら、墓場のように静まり返っていた。
組織の大幹部、カレル・ヴァイス。かつてギゼと共に研究所で、神の真似事をして遊んでいたその男は、最高級のワインを嗜むような優雅さで、二人の死神の来訪を待っていた。
アンリエットの放った四十五口径の咆哮が、防弾ガラスを震わせ、護衛の喉を精密に貫く。重厚な扉が蹴り開けられた瞬間、室内に流れ込んだのは、硝煙の匂いと、拭いようのない復讐者の冷気だった。
「……久しぶりだな、ギゼ。そして、アンリエット第137号。見事な暴れぶりだ。我々の『最高傑作』が、自分を組み立てた生みの親を連れて、地獄の里帰りとはな」
カレルは硝子越しに夜景を眺めたまま、薄く笑った。その手には、使い古された銀色の記録チップが握られている。それは一人の少女の運命を決定づけた、悪魔のレシピだった。
「ギゼ、君が彼女を拾って世話をしていると聞いたとき、我々は驚いたよ。君こそが、このモデルに『感情という名の致死性バグ』を組み込むことを提案した、プロジェクトの冷酷な先導者だったのだから」
アンリエットの銃口が、微かに揺れた。夜景の光を反射する銃身が、彼女の動揺を銀色の閃光として撒き散らす。隣に立つギゼは、もはや呼吸さえ止めているかのような、石像の沈黙を貫いていた。
「……どういう意味?」
アンリエットの声が、低く室内に響く。それは、凍った湖の氷が割れる時のような、鋭利な響きだった。
「教えてやろう。アンリエット、君の……君たちの脳にあるあの『自壊スイッチ』。君が人間らしさを望んだ瞬間に、脳を灰に変えるあの機構。あれを設計したのは、そこにいる君のパパだ」
カレルは楽しげに肩をすくめ、言葉を続けた。
「彼は言ったのだよ——『完璧な兵器には、完璧な終わりが必要だ。意思を持たせ、それを裏切った瞬間に破壊する。それが最も効率的なリセット方法だ』とな。君が今、こうして怒りに震えているその神経回路の一本一本に、彼は絶望という名の導火線を仕込んだんだ」
カレルが投げ出したチップが、高価な絨毯の上を滑り、アンリエットの足元で止まった。
ホログラム・プロジェクターが自動で起動し、数年前の実験映像が虚空に浮かび上がる。
そこには、今より少しだけ若いギゼがいた。今の使い古されたコートではなく、血の通わない無機質な白衣を纏い、培養槽の中に浮かぶ「アンリエット型のプロトタイプ」を冷徹に検品する姿。
『検体番号01。情動反応を検知。……予定通り、神経焼灼シーケンスを実装しろ。意思は、苦痛によって管理されるべきだ。恐怖こそが、この製品を動かす唯一の潤滑油になる』
映像の中のギゼの瞳には、今の彼が宿しているような後悔も、アルコールで濁った陰りもなかった。あるのは、神のように振る舞う開発者の、凍てついた傲慢さだけだった。
「……パパ」
アンリエットは、隣の男を見ずに、ただ映像の中の「創造主」を凝視したまま呟いた。
「あなたが教えてくれた『痛みは生きている証』だという言葉。あの雨の日、震える私を抱きしめてくれた手のぬくもり。……それも全部、この自壊スイッチを隠すための、安っぽい装飾だったの?」
ギゼは、ゆっくりと顔を上げた。その表情には、もはや何の言い訳も、自分を庇うための盾もなかった。
「……そうだ。お前たちに絶望を教え、限界まで追い詰めることで、生存本能という名の殺意を引き出す。それが、俺がこのプロジェクトで担った役割だ。俺は、お前を救ったんじゃない。俺という最高傑作の、最終テストを続けていただけだ」
「嘘よ……」
アンリエットの指が、引き金に食い込む。彼女の全身から力が抜け、代わりにドロドロとした黒い憎悪が血管を満たしていく。
「あなたは私に、シチューの作り方を教えた。刺繍の針の持ち方を教えた。ベーカー夫人との、あの平和な昼下がりを……あれも全部、私を壊すための実験だったっていうの?」
「……いいや、アンリエット。そこが彼の天才的なところさ」
カレルが、毒を孕んだ蜜のような声で遮る。
「彼はね、君に『幸せ』という名の麻薬を教え込むことで、その幸せを失う恐怖を、殺人のための燃料に仕立て上げようとしたんだ。君が今、こうして怒りに身を焼き、ここまで辿り着けたこと自体、彼の『教育プログラム』が完璧だった証拠だよ。君のパパは、君に銃を握らせるより先に、守るべきものを与えて、それを奪うことで最強の殺人鬼を完成させたんだ」
アンリエットの脳内で、陽だまりの記憶が黒い泥に塗り潰されていく。
ベーカー夫人の柔らかな笑顔は標的を狙うための集中力の訓練であり、甘すぎるシチューは飢えへの恐怖を植え付けるための餌であり、柔らかいベッドは戦場での疲労を効率的に癒やすためのメンテナンスに過ぎなかったのか。
彼女のこれまでの人生は、ギゼという作家が書いた、あまりにも出来の悪い、しかし効率的な処刑シナリオだったのか。
アンリエットは、銃口をカレルから逸らし、ゆっくりと、しかし確実にギゼの額に向けた。
四十五口径の銃口は、冷たい闇を覗き込むトンネルのようだった。
「……ねえ、ギゼ。私をゴミ箱から拾ったあの雨の日、廃棄される『製品』が勿体ないと思っただけ? それとも、自分の最高傑作がどれだけ地獄に耐えられるか、その続きが見たくなっただけなの?」
ギゼは逃げなかった。眉間に押し当てられた鋼鉄の感触を、長い間待ち望んでいた救済であるかのように受け入れ、静かに目を閉じた。
「……撃てばいい。お前のその燃え盛るような殺意こそが、俺が望んだ完成形だ。俺を殺し、お前は自由になれ。それだけが、俺に残された最後の手続きだ」
引き金にかけられた指が、わずかに震える。一瞬の静寂。
だが、アンリエットは、乾いた笑い声を漏らした。それは、彼女の魂が完全に「あちら側」へ渡ったことを告げる、終わりの鐘の音だった。
「……死なせてなんてあげない」
アンリエットは、銃の安全装置を親指で戻した。彼女の瞳からは、涙も、温度も、人間らしい未練も消えていた。
「あなたは、私が飽きるまで、私の道具として生きなさい。あなたが作ったこの『心』が、完全に擦り切れて塵になるまで、私の傍で自分の犯した罪を数え続けなさい。あなたの絶望が、私の次の戦いの燃料になるのよ」
アンリエットは、ギゼから銃口を外すと、そのまま視線を動かさずにカレルの眉間に、一発の弾丸を叩き込んだ。
カレルの饒舌な口が永遠に閉じ、鮮血が高級な硝子窓を赤く汚した。宝石のような夜景が、血のカーテンによって遮られる。
「……行きましょう、パパ。次は、この地獄を産み出し続けている『工場』を、跡形もなく焼き払いに行くわ」
アンリエットはギゼの腕を、骨が鳴るほど乱暴に掴んで引き寄せた。
それはかつての、愛情に満ちた親子の触れ合いではなかった。それは、壊れた玩具と、それを捨てられない主人のような、呪わしく、逃れられない共依存の形だった。
ギゼは、自分の額に残った銃口の冷たさを、まるで消えない烙印のように感じながら、彼女の影に従った。
彼がアンリエットに与えた「教育」という名の呪縛は、今、彼自身を一生かけて縛り上げ、地獄の果てまで引きずり回すための重い鎖へと姿を変えたのだ。
二人の足跡は、カレルの血溜まりを越え、次なる戦場へと向かっていった。
(つづく)




