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第1話 発音されないH(アッシュ)

「ギゼ、また『同じ顔』が映ってるぜ。今月で三人目だ」


 カウンターの向こう側で、店主のジャックが濁った色をした布巾でグラスを拭きながら、顎でテレビを指した。ブラウン管の隅が欠けた古いテレビの中では、ノイズの幕越しに路地裏の光景が映し出されている。


「こいつらは中身が腐るのが早いんだ。もうとっくに整備期限の過ぎたモデルだからな。賞味期限の切れた肉と変わらねえ」


 ジャックは下卑た笑いを浮かべ、カウンターに肘をついた。


「なあギゼ。これの『出所』を探る仕事があるんだが、乗らないか? 廃棄業者が横流しして、野良の診療所で再調整リセットして売り飛ばしてるって噂だ」


 ニュース映像では、警官がアンリエット型の残骸を、まるで不法投棄された粗大ゴミでも扱うように、無造作に黒いビニール袋へ詰め込んでいた。


 かつて軍部が「ひとりで一個中隊に匹敵する」と豪語した美貌の兵器が、今や数ドルの清掃代で処理される対象に成り下がっている。


「……興味ないな。死体は喋らん。喋るうちは死体じゃない。それに、俺は腐った人間の出所を洗うほど暇じゃないんだ」


「人間?」


「クローン肉とは呼ばないだろう。それだけだ」


 ギゼは訛りの混じった低い声で吐き捨てると、最後の一口を胃に流し込み、雨の降る街へと足を踏み出した。


 バーを出ると、酸性雨がトレンチコートの肩を執拗に叩いた。


 街灯の下を歩く人々の顔を眺めれば、この世界の狂気が嫌でも目に入る。


 ショーウィンドウには、最新の『マリア型』のホログラムが優雅に微笑み、「家族の愛を、月額払いで」というコピーが躍っている。そのすぐ脇を、ボロボロになった同型のクローンが清掃カートを引いて歩いていく。


 この街では、夢も愛も、すべてが遺伝子の配列コードとして棚に並べられ、消費され、そして捨てられていく。


 ネオンサインの毒々しい光が、水たまりに浮いたバイオオイルの油膜に反射し、千切れた万華鏡のように揺れている。


 ギゼは路地へと折れた。表通りはクローン技術がもたらした偽りの豊穣に溢れているが、一歩裏へ入れば、そこは新陳代謝を忘れた都市の排泄物溜まりだ。


「おい、掃除屋。いいところで会ったな」


 背後から、湿った声が響いた。


 振り返らなくてもわかる。安物の合成皮膚特有の、鼻をつく薬品臭。クローンにのみ効果をもたらす、旧式の合成麻薬の酸化した臭い。


 ギゼは歩みを止めず、コートのポケットの中で四十五口径のグリップに指をかけた。


 三人の男が、闇の中から這い出してきた。どれも同じ顔をしている。街の三流警備会社が使っている『ボリス型』の旧式クローンだ。オリジナルの知性はとっくに摩耗し、残っているのは下劣な闘争本能と――おそらく性欲だけだ。


「お前の首に、少々色がついた。……悪いようにはせん、大人しく――」


 男の言葉が終わるより先に、ギゼの体が動いた。


 振り向きざまに、抜いておいた拳銃を逆に持ち、まるでハンマーをつかうように先頭の男の額を砕く。鈍い音。骨のカケラが地面に肉と共にべちゃりと落ちる。


 クローンの額から、赤い血ではなく、濁ったピンク色の人工血液が飛び散った。


 たじろぐ残りの二人に対し、ギゼはそのふたりを同じように殴り殺した。


 鈍い音が二度。その音は雨に吸い込まれ、路地からはけして表に出ない。あまりにもあっけなく――ギゼにとってはバーボンを飲み干すより簡単に――男たちは糸の切れた人形のように泥水の中へ崩れ落ちる。


「……『悪いようにはしない』か。安物の嘘だな。お前たちは銃弾ひとつよりも価値がない」


 銃にこびりついた汚らわしい肉と骨を、酸性雨で洗い流す。側溝はとうの昔に汚物で埋まっており、赤黒いそれらは吸われることなく雨の中をただよい、消えていった。


 ギゼは湿って吸えなくなったタバコを指で弾き飛ばし、硝煙の匂いを振り払うように歩き出した。


 死体は明日の朝には清掃局が回収し、使えるパーツを剥ぎ取った後、焼却炉へ放り込まれる。この街では、死は単なる「資源の循環」に過ぎない。


 アパートへ続く、最後の角を曲がった時のことだ。


 大型コンテナの影、積み上げられた段ボールの山が、不自然に崩れていた。


 普段なら無視するはずだった。だが、そこから漏れ出していたのは、清掃局の回収車を待つ死体の沈黙ではなく、今にも消え入りそうな、か細い『音』だった。


 ヒュウ、ヒュウと、破れたふいごのような呼吸音。


 ギゼは無意識に銃を構え、段ボールの山を蹴り飛ばした。


 現れたのは、白く細い足だった。泥と油にまみれ、ところどころ皮膚が剥げ落ちた、子供の足。


「……マネキンじゃない、な」


 ギゼは舌打ちをして、奥にうずくまっている『それ』を、足首を掴んで強引に引きずり出した。


 現れたのは少女だった。


 十四、五歳に見えるが、クローンの年齢に意味はない。そしてギゼは『それ』がクローンだとわかっていた。


 陶器のように整った顔立ちは、かつてこの国の軍部が誇った最高傑作、『アンリエット型』のそれだ。


 しかし、目の前の少女に、軍用兵器の威容はない。頬はこけ、銀色の髪は固まった泥で束になり、その瞳は、焦点すら合っていない。 ただ、本能だけで空気を求め、口を浅くパクつかせている。


 先ほどのテレビに映っていたアンリエット型より幾分、そう、それこそタバコ一本分マシなくらいの有様だった。


「アンリエット型……」


 ギゼは彼女の細すぎる腕を掴んだ。


 皮膚の下に肉がない。骨と皮、そして辛うじて繋がっているであろう神経。餓死寸前の廃棄体。


 少女は、自分を掴むギゼの手を、弱々しく振り返った。その瞳には、恐怖も、助けを求める意志すらなかった。ただ、深淵のような『無』が広がっている。


 ギゼは数秒、その瞳を見つめ返した。このまま手を離せば、彼が家に帰ってもう一杯バーボンをやる間に、彼女は動かない肉塊になるだろう。そうすれば仕事は増えない。金も減らない。掃除屋の取れ高も増える。いいことづくめだ。


 だが、彼は少女を離す代わりに、乱暴に自分の肩へと担ぎ上げた。


「……雨のせいだな。どうやら、寒すぎて脳まで冷えたらしい」


 重さを感じないほど軽い少女を担ぎ、ギゼは自分の部屋へと続く階段を登り始めた。


 彼はベッドに少女を放り出した。古いスプリングが不気味な音を立てたが、少女は身じろぎ一つしない。  ギゼは洗面台で洗面器に水を張り、古びた、しかし清潔なタオルを浸した。


 絞ったタオルで彼女の頬を拭う。一拭きごとに、泥の下から驚くほど白い、そして不健康なほどに透き通った肌が露出した。


 軍部が心血を注いだというアンリエット型の美貌は、死の淵にありながらも見る者の心を逆撫でするような完成度を保っている。


 だが、その肌は冷たかった。まるで、最初から体温などという概念を知らない石像のようだ。


 拭っている途中で、彼女の細い首筋に、古びた手術痕のような筋を見つけた。再調整を繰り返された痕か、それとも製造工程での不具合か。


 「……おい、アンリエット。勝手にくたばるなよ。拾った俺の労力が無駄になる。お前にかける時間で、たばこが三本は吸えるんだ」


 独り言は虚しく部屋に響いた。


 ギゼはふと、壁に立てかけた鏡に映る自分を見た。返り血と雨に濡れ、目の下に深い隈を刻んだ男。クローンという偽物の命を相手に、偽物の救済を試みている。


「何をやってるんだ、俺は」自嘲気味に笑い、彼は少女の鎖骨付近に記された焼き印を見つめた。


『No.137』


それは彼女が『アンリエット型クローンの137番に製造されたクローン人間』であることを示す赤黒い証左だった。


 汚れが落ちたその刻印は、彼女が人間ではなく、工場のラインから転がり出た単なる『製品』であることを改めて突きつけてくる。


 ギゼはかぶりを振ると、濡れたタオルを傍らに置き、タバコに火をつけた。肺の奥まで重い煙を吸い込み、天井に向けて白く濁った吐息を吐き出す。


 彼女の名前の綴りには、最初の一文字に「H」がある。


 ギゼが人生の大半を過ごした国では「アッシュ」を発音しない。しかし、他の国では彼女の名前はアンリエットではなく『ヘンリエッタ』だ。


 だが、この街の誰も、それを声にすることはない。


 それは、彼女に「ハート」など必要ないと、この世界が定義を許し、傲慢な人間がそれに乗じて剥奪しているかのようだった。


「拾ったのが俺でよかったのか悪かったのか……まあ、目が覚めてからお前が決めろ」


 彼はクローゼットの奥から、比較的新しい豆のスープ缶を取り出した。ほかの缶はほとんどが淡い誇りをかぶっている。それが彼の優しさによるものなのか、それとも単に一番手前にあったからなのか、彼の表情からはとうていわからない。


 アンリエットの方を見向きもせず、缶切りを回す規則的な金属音だけを響かせる。


 明日になれば、また別の『アンリエット』がどこかで死ぬだろう。だが、今この部屋で呼吸をしているこのアンリエットだけは、死の行列から一歩だけ外れた場所にいる。


「お前が決めろ」


ギゼは羽虫が躍るような小さな声で、ひとり呟いた。


「おまえが、ただのアンリエットなのか。……それとも、『ヘンリエッタ』なのか」


 夜の雨音だけが、答えのない問いをかき消すように続いていた。






(つづく)


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