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短編集

海沿いの電車に揺られて

作者:

 敦賀駅の改札を抜けた瞬間、冷たい風が頬を刺した。

 冬の敦賀は、海の近く特有の冷たさを帯びている。海風が肌をつんと冷やし、吐く息はすぐに白く染まる。

 駅の前には、町の風景が広がっている。港に向かって伸びる大きな通りと、周囲に広がる海。右手には海上自衛隊の艦船が並び、その錆びた灰色の船体が微かに陽光を反射しているのが見えた。


 ここがこの街の「始まり」だと思うと、少し不思議な気持ちがこみ上げてくる。数十年経った今も、この風景は変わらない。

 しかし、僕の中の敦賀はもう少し「別れ」の町としてのイメージが強い。

 大学時代、僕はここで友人たちと別れた。学生生活の最終年、サークル仲間たちと訪れたこの町で、夏休みが終わった。それぞれが東京、関西、地元に帰っていき、僕は当時、未だ関西での進路が決まっていなかった。


 改札を抜けた先にあったバス乗り場、どこか寂しげな町並み。

 「また来るよ、敦賀。きっと、また来るよ」

 あの時はそんな言葉を心の中で呟いて、バスに揺られながら過ぎて行った。

 あれから十年以上経ち、僕は再びこの町を訪れることになった。途中の駅で降りるつもりもなく、終点の東舞鶴まで乗り通すことに決めていた。


 しばらく待つと、小浜線の列車が駅に到着した。二両編成の気動車。白い車体に青い帯が特徴的で、どこか懐かしさを感じる。


 今、僕はその列車に乗っている。

 二時間ちょっと、あの頃の自分を、あの町を、もう一度この列車の窓から眺めながら走ってみようと思っている。


 発車ベルが鳴り響き、列車は静かに動き出した。

 車内には数人の乗客がいるが、ほとんどが顔見知りでもない観光客か、近隣の住民たちだろう。年配の夫婦、学生のグループ、手をつないで座るカップル。みんなそれぞれに目的地があるのだろう。僕と同じように、どこか心の中に何かを抱えているのかもしれない。


 僕の心の中には、ただ「過去を見返す」というシンプルな目的しかない。

 二十年前、この列車を何度も乗り降りしていた時の景色を、今は懐かしみながらもう一度目に焼き付けたい。

 それだけの理由だ。



---



 敦賀を出てしばらくは住宅地を走り抜け、しだいに景色が開ける。車窓から見えるのは、若狭湾を囲む静かな海と、そこに広がる平野だ。

 美浜駅は、海に面した小さな町だ。鉄道が海沿いを走ると、突然、広い景色が視界に飛び込んでくる。左手には、穏やかな波が広がっている若狭湾が見え、波間に浮かぶカモメの群れが目を引く。


 僕はここで一度、海岸に立ったことがある。その時、目の前に広がっていたのは、海よりも青空だった。美浜の空は、本当に透き通るように青かった。


 「ここで、海と空が一緒に溶けてるんだな」

 美咲がそんな風に言って、空を仰いだことがあった。


 大学三年生の夏、美咲と一緒に来たのだ。

 僕たちは、美浜の海岸を歩きながら、未来の話や、これからどうするかを語り合っていた。

 「就職先、決まった?」

 美咲は、少し心配そうに僕に尋ねた。彼女もまた、自分の進路に迷っていた。

 「うん、まだ決まってないけど」

 そんな会話をしながら、波の音を聞いていた。


 美浜の町には、今でもあの時の風景が残っているのだろうか。僕が訪れることで、過去が蘇ることはないだろうか。

 今となっては、美咲のことも、どこで何をしているのかすらわからない。


 列車はゆっくりと美浜駅を通過し、次の駅へ向かって走り出す。

 青い海が左手に広がり、今もあの景色が変わらずそこにあることを知って、少しだけ安心する。



---



 列車はさらに西へと進み、三方五湖の湖畔を走る。窓の外に広がる湖の景色は、冬の冷たい空気を反射して、銀色の世界に見えた。

 三方湖の上を滑るように飛ぶカモメの群れが、静かに水面を渡る。湖の周囲は山に囲まれていて、所々に霧が立ち込めている。


 三方駅に近づくと、湖面が目の前に広がった。どこかしんとした雰囲気が漂う。まるで時間が止まっているような静けさだ。

 大学時代、夏の終わりにカズとここを訪れた。レンタサイクルを借りて、湖を一周した時のことを思い出す。カズはいつも写真を撮るのが好きだった。

 「この風景を、写真で切り取っておきたいんだ」

 そんなことを言いながら、何十枚もシャッターを切っていた。


 僕はその時、彼がどんな思いでシャッターを切っていたのか、考えもしなかった。でも、今はその理由が少しわかる気がする。

 「もうすぐ、最後の夏だ」

 カズが言った言葉を、今でもはっきりと覚えている。あの時、彼はどこか寂しげな目をしていた。


 三方五湖の風景は今も変わらず、湖面に反射する景色は静寂そのものだ。あの夏を過ごしたことは、すっかり遠い記憶のように感じる。



---



 三方を過ぎると、列車はしばらく山の中を進む。

 若狭本郷駅に近づくと、山間に広がる田園風景が見えてきた。冬の冷気が田畑を包み込み、薄曇りの空の下、白い霜が地面を覆っている。

 ここはかつて賑わっていた町だと聞く。美咲と一緒に歩いた記憶が薄れた町の風景が広がっていた。


 「こんな小さな町でも、人々はしっかり暮らしているんだな」

 そんな感想を、あの頃美咲と話したことがあった。

 当時、僕たちはまだ若くて、未来に不安を抱きながらも、何か大きなことを成し遂げることを信じていた。しかし、この町は静かに時が流れ、商店街はシャッターを下ろし、風景だけが残った。


 ここで僕たちは、ほんの少しだけ立ち止まり、何かを感じ取ろうとしていた。今はもう、あの時感じたものは全て薄れてしまっている。



---



 若狭本郷を過ぎると、再び海が近づいてきた。

 小浜駅は、この沿線で最も賑わいのある駅だ。観光案内所や土産物店が並び、ホームには少し賑やかな雰囲気が漂っている。


 学生時代、この町で何度も降りた。港近くのカフェで友人たちと夜更けまで語り、朝は海沿いを歩いた。海の香りが風に乗って漂ってくる。

 僕と美咲は、ここで海を眺めながら、未来のことをよく話した。

 「東京に行くの?」

 「…たぶん、そうなると思う」

 そのときの彼女の横顔は、夕陽を浴びて赤く染まっていた。港の先には漁船が並び、波が静かに揺れている。

 「そっちは?」と僕が聞くと、美咲は少し間を置いて答えた。

 「私は、まだ決められない。でも…ここから離れなきゃって思ってる」


 小浜の町には、古い町並みと新しい店が同居している。魚市場の活気、寺院の静寂、そして港に打ち寄せる波の音。あの頃の僕たちは、そんな全てを「当たり前の風景」として見過ごしていた。

 今こうして列車の窓から眺めると、その一つ一つが時間に磨かれて、やけに愛おしく感じる。


 あの日、美咲が港で笑いながら言った言葉を思い出す。

 「こういう景色って、きっとずっと残るんだろうね」

 残ったのは景色だけじゃなかった。

 彼女の声、表情、そしてこの町で過ごした時間も、僕の中で凍結されたように残っている。


 発車のベルが鳴り、列車は再びゆっくりと動き出した。

 小浜の港が遠ざかる。僕はその光景を、窓越しに最後まで目で追い続けた。



---



 小浜を出てしばらくすると、海が突然、車窓いっぱいに迫ってくる。加斗駅は、小浜線の中でも特に海に近い駅だ。

 潮の香りが窓のわずかな隙間から入り込み、海面が陽光を反射して眩しい。列車がカーブを描きながら走ると、まるで海の上を進んでいるように錯覚する。


 美咲と二人、この加斗の入り江に何度か降り立ったことがある。夏には、岩場から小魚を見つけては捕まえようとし、冬には海風に吹かれながら熱い缶コーヒーで指先を温めた。

 彼女は「波の音って、人の声みたいに聞こえるときがあるんだよ」と言って、耳を澄ませていた。

 僕にはただの潮騒にしか聞こえなかったが、今思えば、あのときの彼女は何かを感じ取っていたのかもしれない。別れの予感のようなものを。


 加斗のホームは小さく、列車が停まると、海と駅舎の距離はほとんど数歩だ。釣り竿を担いだ老人が一人、改札を抜けて海へ向かっていく。その後ろ姿を見ながら、僕はふと、自分も海に向かって歩き出したい衝動に駆られる。

 でも列車はすぐに発車し、海は少しずつ遠ざかっていった。



---



 加斗を過ぎると、海沿いの集落が点在する区間に入る。勢浜駅のあたりでは、家々の軒先に洗濯物が揺れ、漁船が港にひしめいている。

 冬の海は鉛色で、空との境界があいまいだ。その景色が車窓いっぱいに広がる。


 美咲と最後に乗ったとき、このあたりで急に雨が降り出したことがあった。

 傘もなく、駅で降りて漁村の小さなバス停で雨宿りをした。

 「急ぎじゃないんだから、いいじゃん」

 彼女はそう言って、僕の肩に落ちた雨粒を指で払った。

 雨の匂いと海の匂いが混ざって、やけに鮮やかに記憶に残っている。


 若狭和田駅付近では、夏になると多くの海水浴客が降りる。白い砂浜と青い海、遠くに見える島影。今日は季節外れの静けさが漂い、砂浜には誰の足跡もない。

 列車は海辺を離れ、再び山の中へと進んでいった。



---



 若狭高浜駅は、明鏡洞で有名だ。列車を降りて少し歩けば、岩のアーチ越しに海を望める絶景が広がる。

 僕たちも一度だけ訪れた。夕暮れ時、洞窟の向こうに沈む太陽を眺めながら、彼女は言った。

 「ここから見える海って、ちょっと特別だよね」

 確かに、同じ海でも場所によって色も匂いも違って感じられる。あのときの海は、どこか穏やかで、永遠にその場にとどまってほしいと思うほどだった。


 ホームには高校生らしき三人組が立っていた。部活帰りなのか、肩にラケットを担ぎ、大きな声で笑い合っている。

 その姿が、不意に昔の自分たちと重なった。

 時間は残酷なくらい早く過ぎる。気づけば、あの頃の僕らも遠くなってしまった。



---



 松尾寺駅の周辺は山が迫り、若狭富士と呼ばれる青葉山が美しくそびえている。秋には紅葉が山肌を染め、冬にはうっすら雪が積もる。

 美咲は登山が好きで、一度この松尾寺から青葉山に登ったことがある。

 山頂でおにぎりを食べながら、「この景色、写真じゃ伝わらないよね」と笑った。

 あのとき撮った写真は、今も僕の部屋の引き出しにしまってある。もう見返すことも少ないが、それを捨てる気にはなれない。


 松尾寺駅に停車する列車は少ない。ホームに降りる人影もなく、静かな時間が流れる。

 車窓から見える山の稜線を目でなぞりながら、僕は旅の終わりが近づいていることを意識し始めていた。



---



 やがて列車は、高架を走りながら東舞鶴の街並みへと入っていく。港には大きな艦艇が停泊し、クレーンがゆっくりと動いている。

 この街に降り立つのは、何年ぶりだろう。美咲と一緒に来たことはなかったはずだ。だから、この場所には共有する記憶がない。

 けれど、それが逆に救いのようにも思えた。ここから先は、僕の新しい時間が始まる気がした。


 列車が停まり、ドアが開く。冷たい風がホームに吹き込む。

 僕は立ち上がり、リュックの紐を握り直した。

 過ぎ去った日々はもう戻らない。だけど、こうして沿線を辿ることで、確かに僕は彼女と再会していた。記憶の中で、何度も。

 それで十分だと思えた。


 改札を抜けると、街のざわめきが耳に届く。

 僕は一度だけ振り返り、遠くに見える線路を目で追った。そこには、敦賀へ向けて走り出す列車の灯りが、小さく揺れていた。



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