乾杯! 【完結話】
いつもなら、二つに分ける長さですが、完結話ということで一気にあげさせて頂きました。思ってたよりも長くなりました……。
「ねえ、ディー? 街にとても美味しくて可愛らしいケーキを出すカフェがあるのですって。ダイアナに教えてもらったの。わたし、そのお店に行ってお茶をしたいわ」
オルトニー公爵家を訪れていた王太子のディルニアスは、愛しい婚約者であるヴァイオレットのおねだりに眉を顰めた。
「ヴィ、私は君のお願いは何でも叶えてあげたいと思うけれども、十四歳になって正式な王太子妃扱いをされるようになったのだから、そう言った我儘を言ってはいけないよ? 街に遊びに行くなんて、警護の者たちが困るだろう?」
真面目な声音でヴァイオレットを諭しているが、当然のように膝の上に抱きかかえて、白金の髪の旋毛にぐりぐりと自分の頬を押し付けていた。周囲の使用人たちも、いつものことだと流している。
「……わたし、まだ街に行ったことがないわ」
「ごめんね。いつか」
「ディーとそのお店でデートをしたかったのに」
「よし、行こう!」
「さすが、息をするように手のひらを反す」
侍従のジェフリーが小声で突っ込んだ。
「明日行こうか?」
「いや、無理ですよ? 明日の予定とか警護の打ち合わせとかあるので無理ですよ!」
ライアンが堪らず突っ込んだ。
「ははは、私の予定でヴィよりも優先するようなことなどあったかい?」
「確かに」
思わず納得してしまったライアンである。何が何でも強引に、表面的には穏便に予定を捻じ曲げて婚約者を優先してきたのを、ライアンは見てきた。例えばそれが、ヴァイオレットのドレスのデザインの話し合いであっても、ディルニアスの中では最優先事項であった。
「ヴィ、ごめんね。君がダイアナと二人で街に行きたいのかと誤解していたよ。君からのデートのお誘い、勿論喜んで受けさせて貰うよ。護衛などなくても大丈夫。私は君を護る為だけに身体を鍛えて武芸を磨いてきたのだから」
「お待ちください」
ヴァイオレットの侍女である、ジェフリーの妹のジェインが勇敢にも待ったをかけた。
「明日は無理です。お時間を暫し頂かねば」
「何故?」
すっと目を細め、冷たい金色の目を向けられてもジェインは怯まなかった。
「ヴァイオレット様の、初めての街への訪問になります」
「そうだね」
ディルニアスは鷹揚に頷いた。
「平民に擬態する服がございません」
ディルニアスは、はっとしたように目を見開いた。
「記念すべき初めての外出でございます。既製服などで間に合わせるわけにはまいりません」
「確かに」
ディルニアスは大きく頷き、納得した。
「デザイナーを呼べ。私も揃いの服を作ろう!」
「平民の服装ならお任せください!」
ライアンの妹のダイアナが胸を張って宣言した。いや、一応うちは子爵家で貴族なんだが? とライアンは心中複雑になった。
ヴァイオレットは、「ケーキはいつ食べられるのかしら?」と考えていた。
「目立たないようにしてください!」
そうライアンが叫んだところで無駄であった。
まず、平民(富裕層)が着るデザインで作ったと言っても、よく見れば生地が違う。もっと遥かに上等な生地だ。平民(富裕層)と同じ生地は、「ヴィの柔肌が傷む!」とディルニアスが却下した。二人が醸し出す気配も、どう考えても平民(富裕層)のそれではない。しかしこの点に関しては、「貴族がお忍びで来ているんだな」と、ややこしいことに巻き込まれたくない街の人々が空気を読んでくれるだろう、と目を瞑ることにした。
なので、何よりも問題なのは、二人の顔だった。美形すぎて注目を集めてしまうというのもあるが、ディルニアスの金色の目と同じ色の人間は他にはいない。ヴァイオレットの紫水晶の目はこの国では珍しく、思い浮かべるのはヴァイオレット本人か、母親のマリーベル・オルトニー公爵夫人くらいだ。後はその夫人の家系にまれに生まれるという程度の珍しさである。
二人並んで歩いていれば、すぐにこの国の王太子と婚約者だとばれてしまうだろう。
「髪の色は染められますけど、目の色は変えられませんからね」
「目の色ねえ……」
呟き、ディルニアスは考え込むように目を閉じた。そうして、暫くして再び目を開けた時には、紫水晶色の瞳になっていた。
「これでどうだろう?」
「……どうやったんです?」
「ちょっと精霊にお願いしたのさ」
「どうせなら、もっと目立たない他の色にできないのですか?」
ライアンはもう、この人ならそういうことも出来るか、と驚かなかった。
「本来の色に戻しただけだからね。それに、ほら! この色だとヴィとお揃いだろ?」
滅多に見ることのない、子供のように嬉しそうに笑うディルニアスの笑顔に、ライアンは「本来の色とは?」と訊けずに、ただ頷いた。
「まあ、金色よりはマシですかね。最悪何かを訊かれたら、グランドリア侯爵家の名前を使わせてもらいましょう」
ディルニアスは白シャツと黒いズボン、ヴァイオレットは白いワンピース、という恰好だけを見れば、確かに平民の服装ではあった。溢れ出る高貴な気配は隠しようがなく、辛うじて、侯爵家か公爵家の方がお忍びで街に来ているのかな? という雰囲気である。つまりは、何も隠せていない。
二人の髪を染めたところで、美男と美少女には変わらない。何よりもディルニアス自身が、「ヴィの髪を染めるなんて!」と許さなかったので、結局は帽子をかぶるだけで、二人は街へと出かけることになった。
ディルニアスは私服姿の護衛と、ライアンとジェフリーとジェインとダイアナに離れてついてくるように、と厳命した。誰も反論することなく、頷いた。ディルニアスは騎士よりも強いし、ヴァイオレットはディルニアスが何が何でも護るだろうから、その辺りは誰も心配していなかった。それよりも、万一何かがあった時、ディルニアスが一般人や街にどのような被害を与えるか、と考える方が恐ろしかった。
皆、二人から離れて歩きながら、さり気なく一般の人たちが二人にぶつかったりしないように誘導することにした。
彼らにとって守る対象は、王太子と婚約者ではなく、一般人たちであった。
「さあ、ヴィ」
街の入り口で、馬車から降りたヴァイオレットに、ディルニアスは手を差し出した。
「はぐれたら大変だからね。手を繋ごう」
「まあ、わたし、そんなに子供じゃないわ」
そう言いながらも、ヴァイオレットはそわそわと周囲を見回していた。行きかう人や街並みを、きらきらとした目で見つめている。
「違うよ、ヴィ。これは、愛しい婚約者殿と手を繋ぐための方便なんだよ? こうやって一生懸命に理由をつけて、君と手を繋ぎたいと考えている男の下心さ」
そう言って、お辞儀をするように腰を曲げて手を差し出し、ヴァイオレットを見上げて片目を瞑って見せた。
「下心?」
ヴァイオレットは笑って、手を乗せた。
「家では、当たり前のように手を握って来るし、膝に乗せるのに?」
「だって、これは僕と君との初めての街デートだからね」
ディルニアスは、指を絡めてヴァイオレットの手を握った。
「僕は、君とこうやって手を繋いで君と街を歩くのが夢だった……」
ディルニアスは屈んで、握ったヴァイオレットの手の甲に、愛し気に口付け、立ち上がった。
「じゃあ、どうしてもっと早く街に連れてきてくれなかったの?」
珍しく少し拗ねたように、ヴァイオレットはディルニアスを見上げた。
「君がもう少し大きくなってから、と思っていたんだ。あまり小さいと、手を繋いでいても人の流れに巻き込まれれば直ぐに離れ離れになってしまう」
すれ違う人の多さに、ヴァイオレットは頷いた。思わず、握っている手に力がこもってしまう。
「ずっと君を抱き上げて街を歩くことも出来るけど、ヴィと手を繋いで街を歩きたかったんだ」
「……そう、ね。わたしも、抱っこされるよりも、一緒に手を繋いで歩きたいわ。恋愛小説でもよく書かれているでしょう? 憧れていたのよ」
「他にも憧れていることがあるなら、全部言って欲しい。一緒に叶えていこう」
「直ぐには思いつかないわ」
二人は笑いながら、歩き出した。
「カフェの予約まで時間があるから、何処か見たい所があるなら行こう」
そう言われても、ヴァイオレットには街のことなど何も分からない。
「じゃあ、今は隣国のユーステリア国から来た商人たちが市を立てているから、少し覗いてみようか」
「ユーステリア国? あの貿易国の?」
「ああ。平民相手の小売りだけど、珍しい物が売られている場合もあるから、時間潰しには良いんじゃないかな」
市は中央の噴水のある広場を中心に立てられていた。まだ王宮の夜会にデビューしていないヴァイオレットは、密集した人の多さに目を丸くした。
「絶対に手を離しちゃ駄目だよ?」
「ええ、絶対に離さないわ」
ここで逸れたらどうやって家に戻ればよいのか分からない、とヴァイオレットは緊張と共に真剣に頷いた。
だが、緊張は直ぐに解れてしまった。家にやってくる商会の人たちからは決して見せられることのない品物で市は溢れていたからだ。
公爵家に持ってこられる商品は、平民が見ることも出来ない独自のルートで運ばれてくる最高級の品質で、最高額の値段の物であったが、ここに並べられている物は、平民の手に届く、お手頃な値段の物が多かった。つまり、ヴァイオレットが見たことのない物だらけなのは、当然である。
ヴァイオレットは、色々なアクセサリーが並べられている店の前で足を止めた。
「硝子だね」
「そうなの? 人が作ったものだっていうこと? 凄いわね!」
ヴァイオレットの言葉に、まだ若い店主は気を良くした。隠しきれない高貴な気配がありながら、硝子なのかと馬鹿にすることなく、熱心に商品を見つめてくれることに好感を持った。
「その辺りは加工した物ですが、こちらは加工前の物ですよ。お好きなアクセサリーに加工できます」
殆どは宝石の裸石のように同じ色、同じ大きさの物が揃って箱に収められていた。その中で、飴玉のような丸い大きさの硝子が二つ、収められた箱があった。
「あら、ディーの目の色と同じね」
ヴァイオレットはディルニアスを振り返った。二人とも、今は同じ紫水晶色の目をしているが、ディルニアスの方がヴィよりも少し色が薄かった。
「……店主、これを貰えるかな」
「本当ですか!」
「このまま貰うよ。加工は、後日お願いしても大丈夫かい?」
「市が終われば国に帰りますが、国の住所をお伝えしますよ」
ディルニアスは頷き、背後に向かって手を上げると、ジェフリーが慌てたように近づいてきた。
「あいつに住所教えておいてくれる? で、いくら?」
「えー、銀貨八十枚、です」
言いにくそうな店主の言葉に、ディルニアスは片眉を上げた。
「こんなに見事な球体を作っているのだから、もっと自信を持ったらどうだ?」
ディルニアスは目の前の若い男が制作した本人であると見抜いた上で、金貨を二枚渡してその場を去った。
「は? え? あ、ありがとうございます!」
背後から店主の声を受けながら、ヴァイオレットはディルニアスを見上げると、とても機嫌よさそうに口角を上げていた。
「良かったわね」
ヴァイオレットはよく分からなかったが、ディルニアスがとても喜んでいるのは分かった。
「うん、良い買い物が出来た。……昔、似たような物を持っていたんだけど、いつの間にか失くしてしまってね。この色は、なかなか見つからなくて」
ディルニアスは大切そうに、箱を懐にしまいこんだ。
「これで、ヴィと揃いの何かを作りたいんだ。受け取って貰えるかな?」
「嬉しい! とても素敵ね! ディーのもう一つの瞳の色だもの!」
ヴァイオレットが、今現在のディルニアスの瞳の色を指していることはよく分かっていた。それでも、自分が紫水晶色の目であった頃の彼女が喜んでくれているようで、ディルニアスは嬉しかった。
「硝子は、可愛らしいデザインのアクセサリーが多いのね」
「あ、ごめん。何か欲しいものがあった?」
「欲しい、とかじゃないの。見ていて楽しかったから、今度ゆっくり見てみたいわ」
「じゃあ、いつかユーステリア国に行って見てみよう」
「それは良いわね!」
いつか、と自分で言った後に、ディルニアスは急に不安になった。いつか、そのうち、と言いながら結局はお互いに名前を付けることが出来なかった過去を思い出し、胸が締め付けられるように苦しくなった。
「ねえ、ディー? お菓子を売っているところはあるかしら? 家のみんなにお土産を買って帰りたいの。何だか、良い匂いがするのだけれども、これはお菓子の匂いかしら?」
「お菓子と言うか、甘い物ではあるけど……」
ディルニアスはその匂いの元へとヴァイオレットを連れて行った。大量の油の中にぽんぽんと生地から千切った白い球を入れていき、こんがりときつね色になった球体に何かをまぶして並んでいる客に渡していた。
ヴァイオレットは、並びながら油の中の球体をくるくると掻き混ぜている手さばきを、じっと飽くことなく眺めていた。
「お嬢ちゃん、熱心に見てくれたからおまけだよ」
どん、と安定感のある大きな中年の女性から渡された物を、ヴァイオレットは反射的に受け取った。新聞紙を筒状に何重にも巻いた中に、先ほどのきつね色の球体がいくつか入っていて、上から茶色い粒がまぶされていた。
「この茶色い粒は何?」
「砂糖だよ」
砂糖が茶色いの? と驚くヴァイオレットにディルニアスは笑いながら、小さな串を刺した球体を、ふうふうと息を吹きかけて冷ました後に、ヴァイオレットの口元へと運んだ。
「熱いかも? 気を付けて、いきなり頬張っては駄目だよ」
お菓子を食べるのにそんなに注意事項が? とヴァイオレットは混乱しながらも、恐る恐ると小さく噛り付いた。
「熱くないなら、この一個の半分くらいは齧ってみたら良いよ」
そう言われて、思い切って噛り付いてみた。熱い。でも、飲み込める。
「甘いわ! 熱いわ! ふかふかだわ!」
初めての食感と味と熱さを、ヴァイオレットは何と言えば良いのか分からなかった。
「油ものだから、後一つだけにしておこう。カフェでケーキが食べられなかったら嫌だろう?」
そう言って、残りはディルニアスが全部平らげた。一つずつ口に入れるのではなく、いくつかを同時に頬張る姿に、ヴァイオレットは驚いた。
「ディーって、口の中が大きいのね」
「そりゃあ、ヴィよりもね」
ディルニアスは、ヴァイオレットの感想に面白そうに笑った。
他にも、果物に飴をかけたものや、白い丸い球体を三つ串刺しにして甘辛いたれをつけたもの。これらはヴァイオレットは一口だけ貰って残りは全部ディルニアスに食べてもらったが、ディルニアスは焼いた肉を挟んだパンも「美味しそうだ」と購入して数口でぺろりと食べてしまっていた。
並んでベンチに座りながら、ヴァイオレットはぽかんとディルニアスを見つめていた。
「ディーって、よく食べるのね……」
一緒にお茶をしたり食事をしたりすることもあるが、ディルニアスがよく食べると思ったことはなかったので、ヴァイオレットは驚いた。
「ん-、そうかな? 普段から、出された分だけを食べてるんだ。お腹いっぱいになるほどは食べないから、自分がどれだけ食べるかよく分からないんだよね」
「どうして、お腹いっぱい食べないの?」
「どうしてだっけ……? ああ、最低限の生命維持が出来る程度食べておけば良いか、と思っていたんだったかな?」
食べることにも、眠ることにも興味がなかった。だから、動けなくなったら手近にある物を掴んで食べて飲み、限界が来たら倒れて失神するように眠っていた。
今生は、城の者たちがちゃんとディルニアスの食事の管理をしてくれているので、出された食事は食べるようになっていた。赤ん坊だったヴィを抱いて眠ったことによって、ベッドで眠るということも覚えた。
手先や口元をハンカチで拭いながら、美味しそうだと思って自分から食べ物を買って食べたことに、今更ながらディルニアスは自身に驚いた。ヴァイオレットが幸福そうに頬張る姿を見ていたら、自分も周囲にある食べ物が美味しそうに見えてきたのだ。
「わたしは、今日ほどもっと沢山食べられるようになりたい、と思ったことはないわ……」
「別にヴィが食べきれない分は、僕が食べるから良いじゃないか」
「じゃあ、もっと味わって、美味しそうに食べて!」
「ご、ごめん。気を付けます……」
もっと味わいたいのに食べられない、という悔しさを向けられて、ディルニアスは謝りながらもそんなヴィも可愛い、と内心では喜んだ。
「でも、ディー、街に詳しいわよね? お金の使い方も店の場所もよく分かっていたし。昔からよく来ているんでしょ?」
「来ていたけど、ヴィが生まれる前だよ? ヴィが生まれてからは、年に一度か二度くらいかな?」
かなりの回数街に来ていることになる。
「どうしてそんなに街に来ていたの?」
ヴァイオレットは、ディルニアスが単に街に遊びに来ていたとは思えなかった。これだけ食に対して関心が薄いのに、食べ歩きに来ていたとも思えない。
「え? 街の様子を見に来ていただけだよ? 街の雰囲気、行きかう人の表情、服装、物価などを見ないと国の状態が分かりにくいだろう?」
何故そんな当たり前なことを聞くのか、という表情で、ディルニアスは答えた。
「……ディーは、本当に、完璧な王太子ね」
わたしさえいなければ、と心の中でヴァイオレットは呟いた。ディルニアスが冷静な判断力を失うのは、自分のことに対してだけだ、とヴァイオレットはよく分かっていた。
「それは違う」
ディルニアスはきっぱりと否定した。そうして、護衛たちがある程度人を遠ざけてくれているが、そっとヴァイオレットの耳元に口を寄せた。
「僕がこの国をより良くしようとしているのは、ヴィが生まれてきた時の為、そして今、ヴィがこの国で生きているからだ。君が飢えないように、暖かい寝床で眠れるように、何の不安もなく美味しいお菓子が食べられるように。その為に、都合が良いからこの地位にいるだけだ。ヴィの為にしていることが、何故だか『完璧な王太子』と言われているだけで、君がいなければ、この地位に意味はないのにね」
ヴァイオレットは、ゆっくりとディルニアスに顔を向けた。国など、民などどうでも良いのだと、ディルニアスの紫水晶色の目が語っていた。
ヴァイオレットは、ディルニアスの金色の目が好きだった。何を考えているのか分からない冷たい目だという人もいたが、お日様のように暖かい目だとヴァイオレットは思っている。
だけど、何故だか、この初めて見る筈の紫水晶色の目も、懐かしく思えるほどに愛しい、という感情が心の底から湧き上がった。
ヴァイオレットは、そっとディルニアスの耳元に顔を寄せた。
「ねえ、ディー。わたしも王太子妃失格ね。だって、嬉しいもの。あなたの働きが、全てわたしの為だということが、とても嬉しいの」
ディルニアスは、ヴァイオレットに、子供のような笑顔を向けた。無邪気な、得意気な、褒められたそうな笑顔だ。
思わず、手を延ばして頭を撫でようとしたが、帽子をかぶっているので頭を撫でることができず、ヴァイオレットはそのままディルニアスを抱き寄せた。
背中を撫でれば、ディルニアスは甘えるようにヴァイオレットの頬に、自分の頬を摺りつけた。
それから二人は、本日の目的であるカフェに向かった。
「お待ちしておりました、ヴァイオレット様!」
「あら。ダイアナ?」
店のドアを開けたダイアナは、そのまま二人を中へと導いた。かぶっていた帽子を取られ、代わりに目元まで隠れる白いヴェールをかぶせられた。その上に、白詰草の花冠を乗せられて、小さな野草の花束を渡された。
「ねえ、これって……」
「さあ、ヴィ」
ディルニアスに肘を差し出され、ヴァイオレットは腕を組んだ。
そのまま店の中を奥へと歩いていくと、
「おめでとうございまーす!」
「お嬢様、おめでとうございます!」
ヴァイオレットの家の使用人たちが花びらを振りまきながら、拍手をして迎えてくれた。
「姉さま」
「エイドリアン?」
他国に留学している筈の三歳下の弟の姿に、ヴァイオレットは驚いた。
「僕たちは、各家の代表だよ」
エイドリアンの肩に手を置きながら、ディルニアスの弟のレイモンドがにっこりと笑った。
どうして第二王子までいるのだと、ヴァイオレットは訳が分からないまま、奥へと進んだ。
そのまま、カフェのテラス席へと出ることになった。往来に面しているそこには、大きなケーキや軽食が用意されていた。
「ねえ、ディー、これって」
「まあ、結婚式?」
通りを歩いていた人たちが、こちらに注目していた。
「素敵ねえ」
「お幸せに!」
「おめでとう!」
パチパチと拍手があちらこちらから起こっているのを、ヴァイオレットは唖然と眺めた。
結婚式……? わたしは白いワンピースで、ディーは白いシャツに黒いズボン姿なだけなのに? これでも結婚式になるの?
ヴァイオレットは驚いた。結婚式というのは、何年も前からドレスのデザインを考え、生地を取り寄せ、招待客を厳選し、パーティーのメニューを考え、という膨大な仕事量の末に行われる、とてもお金と時間と労力がかかるものだと思っていたのだ。
「ありがとうございます」
ディルニアスは、にこにことお礼を言っていた。とても珍しいことだ。帽子で目元が隠れているとはいえ、スタイルや雰囲気で分かるのか、きゃあきゃあと黄色い声があちこちから上がっている。
「平民の結婚式はこんな感じなんだよ」
ディルニアスに囁かれて、そうなのね、とヴァイオレットは頷いた。
目の前の知らない人たちが、にこにこと笑いながら拍手をしてくれている。
王太子妃じゃなくても。
公爵令嬢なじゃなくても。
誰とも分からない自分を、通りすがりの人たちが祝福してくれている。
嬉しかった。
こんなに嬉しいものなのか、と初めて知った。
何だか、仲間に入れてもらえたような気分だった。
そして、通りすがりの自分たちを祝福してくれる、という行為は、彼らに余裕があるからだ、ということをヴァイオレットは理解していた。
先ほどディルニアスも言っていたではないか。国の状態を判断するために街を見に来ていたと。こうして、見ず知らずの人間を祝福してくれるのは、つまりは国が安定しているということだ。
「ディー、あのね。あなたは、わたしの為に国を作ってね。わたしは、あなたが作ってくれた国を、維持するように頑張るから」
今、目の前で拍手をしている人たちが、いつまでもこのまま他人を祝福できる人たちでいて欲しい、とヴァイオレットは思った。
「ヴィの為なら、頑張るよ」
ディルニアスは、当たり前のように頷いた。
「ねえ、ディーはどうしてこんな結婚式を?」
「予行演習」
訝しく見上げれば、ディルニアスはにっこりと笑った。
「ごめん。単なる僕の我儘だ。街の人間に祝福される、という結婚式をやってみたかったんだ」
どうしてディルニアスがそんなことを思ったのだろう? と不思議に思ったが、ヴァイオレットはそれ以上は問わなかった。
「そうなの? 満足した?」
「ああ。こんな感じなんだな、と思った。何を考えているか分からない貴族たちに祝福されるよりは、通りすがりの無責任な祝福の方が受ける方も楽で良いよね」
ディルニアスの言い方に、ヴァイオレットは苦笑した。
「ああ、早く本当に君と式を挙げたいよ」
冗談じみた口調であったが、目は真剣にヴァイオレットを見つめていた。
そうね、とヴァイオレットも頷いた。後四年が長いのか、直ぐなのか、ヴァイオレットには分からなかった。でもきっと、こうして日々を一緒に過ごしていけば、あっという間にやってくる予感がした。
「あのね、じゃあ、次はわたしが我儘を言っても良いかしら?」
室内に戻りながら、ヴァイオレットはディルニアスを見上げた。
「何だい? 僕は絶対に君の願い事は叶えてみせるよ」
何がなんでも、ね。
「いやだ、分かっているわよ。あなたは、いつもわたしの願いを叶えてくれる」
ヴァイオレットは微笑んだ。
「あなたと、わたし。歳をとって、お爺さんとお婆さんになっても、今日のように街にこっそりと遊びに来ましょうね」
「……ああ、それは、勿論」
「新婚旅行でユーステリア国に行くのはどうかしら? あら、それだとまだ四年も先ね。その前に外遊で行くのも良いかも? アクセサリーの加工を頼みに行かないとね。色んな街に行きたいわ。この国の中でも、行ったことのない街が沢山あるもの」
ヴァイオレットはディルニアスの手を取り、そっと手の甲に口付けて、悪戯っぽく笑った。
「約束よ? いつかじゃ駄目よ? いつかいつかと言って、何もしないで終わってしまうのは嫌なの」
ディルニアスは言葉に詰まった。
嘗て、「いつか」とお互いに言い続けたまま、名前を付けることが出来ず、名前を呼ぶことも出来ないままに死に別れてしまった彼女を思い出した。
憶えているのだろうか、と疑問が、期待が湧き起こった。
だが。
記憶があろうとなかろうと、それはどうでも良いことだと軽く首を振った。
「勿論だ。そうだ。お互いに、君と僕でやりたいことを書き出そう。そうして、終わったら一緒に消していこう」
「素敵だわ! いつまでも終わらない、増え続けるリストを作りましょう」
二人は顔を見合わせて笑いあった。
「殿下、乾杯の前に一言をお願いします」
ライアンが二人に飲み物を渡しながら、促した。
乾杯と言っても、昼間のカフェなので飲み物はジュースであった。
「そうだな……では」
ディルニアスはジュースが入ったコップを掲げた。
「四年後の私たちの結婚式に向けて、皆、一丸となって頑張ろう! ヴィと出会えた幸福に」
「ディーと出会えた幸福に」
乾杯!
一旦、本編完結話とさせていただきます。ここまでお読みいただき本当にありがとうございました! 二人の前世も書ききったと思います。伏線は全部回収したかなと思いますので、一旦完結です。前半ギャグで、後半シリアス? になってしまったので、どれだけの方が最後まで読んでくださったのか不安ですが、ここまで読んでくださった方本当にありがとうございます! ヴィの弟も出す隙がない! と出せないままここまできたくらいですので……。とりあえず、今回は二人が前世でやりたかったことをさせよう、と思ったら長くなりました。分けなくてすみません。




