神などいない ー前世編ー(4-2)
「どうして、助けてくれたの?」
返事があるとは、思っていなかった。
だが。
「……かわいそう、だったから」
可愛らしい、少女のような声だった。
子供は驚いた。返事があったことにも驚いたし、内容にも驚いた。
「かわいそう? 僕が? 知り合いじゃないよね?」
道端に子供が蹲っていたって、怪我をしていたって、大人たちは見向きもしない。そういう世の中だ。教会だって、そうだ。自分を引き取ってくれたのは「神」と思われている空色の髪の生き物が連れてきたから、何か奇跡を見せることができるのではないか、そうすれば王家よりもこちらの方が正当だと言える、という打算が教会にあったからだ。
「ひとが、おおけがをしていたら、しんぱいするのは、あたりまえでしょう?」
当たり前なんだ、とやはり子供は驚いた。そして、自分は心配してもらったのかと、何だか胸がむずむずとした。
「ねえ、どうしてそこに居るの? こっちに出て来られないの?」
「……みんな、こわいって、いう」
「僕、もう前に見てるから大丈夫!」
だから出てきてよ、とお願いすると、暫くしてから森の中からのっそりと現れ出てきた。
言葉だけ聞いていれば、おどおどとした声音であったが、現れた姿はやはり四つん這いのように背中を丸め、頭から生えているたくさんの蛇たちがあちらこちらに向かってシャーシャーと威嚇している。
昔見た、と言っても、ほとんど意識のない状態であったから、意識がはっきりとあり、明るい陽の光の下で見ると、腰から下も蛇のような形態で、途中か地面に埋もれていることに、今回初めて気が付いた。両手首から下はやはり地面に埋もれている状態で、土の中なのに水の中に居るような、泳ぐように子供の目の前まで進んできた。
子供は、我知らずごくりと唾を飲み込んだ。
やはり大きかった。立ち上がると山より大きいのではないかと思った。頭から生えている大量の蛇が、こちらに向かって威嚇している。腰から上、頭以外は人間と同じ身体であったが、あちこちが鱗で覆われていた。
「……こわい、なら」
無表情のままに見下ろして来るのに、言葉と声だけが別人が発しているのかと思うほどに気弱であった。
「大丈夫! そのうち慣れるから!」
咄嗟に叫んだ後で、しまった! と思ったが、
「なれて、くれるの?」
嬉しそうな声に、子供は戸惑った。
「怒らないの?」
自分は、過去に助けてもらっているのだから、恩知らずだと怒られても不思議ではないのに、と恐る恐ると訊いてみた。
「おこる? どうして? みんな、こわがるのに」
当然だと言う言葉に、子供は何と言えば良いのか分からなくなった。助けてもらったのに、恐怖を覚える自分がとても恥知らずな人間に思えて、情けなく思った。
「僕は、怖がらない! 僕を助けてくれたんだから、怖くないって知ってる! ちょっと待ってて! ここで一緒に暮らせば、きっとそのうち怖くなくなるから!」
咄嗟に口から出てきた言葉だったが、子供にはとても良い考えだと思われた。自分は怖くない、と証明してみせることが、恩返しになるように思えたのだ。
「ここで、くらす?」
「うん! 僕はもう、教会には戻らないから!」
ずっと、一緒だよ。
その言葉は、子供が深く考えて口にした言葉ではなかった。教会に戻る気もなければ、何処かに行く目的もない。町で子供が一人で暮らしていける筈もなく、ここでなら生活できるかという打算があった。
────うれしい。
相変わらず、顔は無表情のままに子供を見下ろしていた。だが、その声は、小さく、歓びに満ち溢れていた。泣くのではないかと思えるほどに、声が震えていた。
「ほんとうに? うれしい。だれかが、そばに、いて、くれるなんて、うれしい」
歓喜の声を聞きながら、子供は自分が恥ずかしくなった。軽い気持ちで口にしたことを、住む場所が欲しくて打算で口にしたことを、とても申し訳なく思った。そして、蛇たちがシャーシャーと音を出して牙を剥いている姿に恐怖を覚えてしまう自分に、本当に慣れることが出来るのだろうかと不安になった。
けれども、足がカタカタと震えても、ここから逃げ出そうとは思わなかった。
金色に輝く乳白色の飲み物は、身体に力が満ちる感じではあったが、腹が膨れる訳ではなかったので、それには頼らずに森で木の実や茸を採取した。木の洞穴を寝床にすると、そこから少し離れた場所で金の目の生き物も寝起きをしてくれた。
何かあれば、一番長い蛇が伸びて届く範囲だから、と言われても、子供は上手く喜べなかった。
森の中には、何故か剣や弓や矢が落ちていたので、それらを拾って狩猟を始めた。とは言っても、本で読んだ程度の知識しかないので上手くいく筈もない。驚いたことに、淡い緑色の髪の生き物が、空中で子供の手足を固定したり動かしたりして、剣や弓の使い方を教えてくれた。
金の目の生き物が酷く武器を恐れていたので、見えない所で練習を続けるうちに、子供は一人で狩りが出来るようになっていった。
本で読んだ知識で動物の解体は出来たので、こっそりと町に売りに行き、買い物が出来るようになったので、暮らしはどんどん快適になった。
「あなたの名前はなんて言うの?」
「繧上◆縺�の、なまえは、蜀咲函縺ィ荳肴ュサ縺ョ逾�」
名前を訊いたが、子供には聞き取れない言葉であった。金色の目の生き物も、上手く発音できないことに落胆しているようだった。
「僕もねえ、家に居た時は、チビとか邪魔とか呼ばれてた。これって、名前じゃないよね。教会では、御使い様って呼ばれてたし、名前ないんだよね」
ここに来て初めて、子供は自分に名前がないことに気が付いた。名前が無くても困ったことなどなかったから、今まで気にしたことはなかったのだ。
「ねえ! 名前を考えようよ! お互いに!」
「おたがい……?」
「そう! 僕があなたの名前を考えて、あなたが僕の名前を考えるの」
良いことを思いついた、と声を上げれば、金色の目の生き物も歓びの声を上げた。
「すてき」
うん、素敵だ! と子供は嬉しくなった。頭の蛇たちが好き勝手に動いて威嚇をしてくるから怖いけど、声は可愛らしく感情に溢れているので、会話をすることはとても楽しかった。教会に居た時は誰とも喋らなかったのに、ここでは毎日会話をしていた。
「あの人たちの名前は?」
傍に佇んでいる、青い空色の髪、淡い緑色の髪、深い赤色の髪、明るい茶色の髪の四人は、大精霊であるらしい。やはり神ではなかったかという思いと、考えていたよりも凄い存在だった、という思いで子供は混乱した。
「あのこたちは、なまえがあるもの」
拗ねたような声に、子供は首を傾げた。水、風、火、土、というらしいが、それは名前になるのだろうか? だが、子供と大精霊たちはお互いに言葉が通じなかったので、名前を呼び合うことはなかった。大精霊たちは容赦なく頭を叩き、突き飛ばしてくるので、子供にとっては腹の立つ存在であり、言葉が交わせなくても寂しいとは思わなかった。
「僕だけあなたたちの言葉が分からない……」
「おしえて、あげるよ」
土の大精霊が地面に字を書き、金色の目の生き物が意味を教えてくれた。発音はどうしても出来ないし、聞き取ることは出来なかったけれども、字だけでも仲間に入れたような気がして嬉しかった。
だけどよくよく聞いてみれば、大精霊たちと金色の目の生き物は言葉を交わしている訳ではなく、心というか頭で意思の疎通をしているらしい。子供は説明を聞いたけれどもよく分からなかったが、自分には出来ないことだけは理解した。大精霊も意味が分からないまま、腕を動かすことができない金色の目の生き物に代わって文字を書いてくれているだけらしい。やはり、自分には入れない絆に、子供は羨ましく思った。
大精霊たちに対抗するという訳ではないが、金色の目の生き物に綺麗な名前を付けてあげたかった。自分だけが呼ぶ名前だ。絶対に喜んでもらえる名前を考えなければならない。考えれば考える程、なんだか違うような気がして、決められない。時間だけがどんどんと過ぎていった。
「ねえ、僕の名前決まった?」
「まだよ。じっくり、ゆっくりかんがえたいの」
残念なような気もしたが、そうだよなと納得もした。やはり自分もゆっくりと考えよう、と思ったが、時間の感覚が違うということを、この時はまだ分かっていなかった。
それから、六年経ったがお互いにまだ名前は決まっていなかった。
「まだなの?」
いい加減すぎるんじゃないかと怒っても、
「まだよ。だって、だいじな、あなたのなまえ、だもの」
楽しそうに、嬉しそうに、夢見る様な声でそう言われては、不貞腐れるのも馬鹿馬鹿しくなった。
本当に、自分を大事に想ってくれているということが、よく分かるからだ。
親からも殺されたようなものだ。自分が助かったのは、ただただこの金色の目の生き物のお陰だった。教会からも追い出された。自分を喜んで迎え入れてくれたのは、この金色の目の生き物だけだった。
憐みも、慈しみも、優しさも全て、子供は目の前の金色の目の生き物からしか受けたことがないのだと理解する年齢になっていた。
教会を追い出され、森で暮らすようになって六年、子供は十四歳になり少年となっていた。
いつものように獲物を金や食料と交換する為に町に降り、いつもよりも金や食料の少なさに眉を顰めた。
「なんだよ、これ。少なすぎだろう」
「仕方ないさね。儀式の前なんだから」
「儀式?」
思わず訊き返せば、投げやりに答えていた店主の老婆が目を見開いた。
「豊穣の儀式だよ!」
知らない筈がないだろう、というその圧に、「ああ」と少年は思い当たった。確か教会で習った、王が神と名乗る所以の儀式だったなと思い出す。
「今年なんだ?」
「十年に一度の儀式だよ!」
やはり責められるように言われて、余計な事を言ったなと少年は後悔した。
「だって、十年前なんか、小さすぎて憶えてないよ」
「そりゃそうか……。親に御馳走を食べさせてもらった記憶とかないのかい?」
「親、いないもん」
答えながら、十年前であれば教会に居た頃だから、そりゃあ王の儀式なんて耳に入って来なかったよな、と少年は納得した。
「ああ、そりゃあ、よくある話だね」
謝らない老婆に、少年は好感を持った。
「ああ、よくある話だよね」
町中に溢れる痩せ細った子供たちを一瞬見回しながら、少年は同調した。
「……王は本当に神なのかな」
「滅多なことを口にするもんじゃない」
老婆は即座に咎めたが、否定はしなかった。
「教会は、何年も前に神の声を聴きに行った御使い様を探しているらしいよ」
「そうなんだ」
さり気なく、少年はフードを目深に被り直した。金色の髪は珍しいので、町に降りるときはマントを被ってなるべく隠すように気を付けている。
「……誰でもいいから、何とかして欲しいもんだねえ」
ぽつりと小さく呟く老婆の声を、少年は黙って聞いていた。
少年自身は、余り深く考えたことはなかった。森で平和に暮らしているので、町のというか人間の世界に興味はなかった。
自分が、自分たちが平和に暮らせているならば、他はどうでも良かったのだ。
なのに。
それは、突然やって来た。
その日、いつも自分を見下ろしている金色の目が、背後を振り返った。そんな仕草を見るのは、ここで暮らし始めて初めてだったので、少年は驚いた。
「どうしたの?」
「縺昴�蟄舌髫�縺励※!」
何を言っているのか、分からなかった。だが、四大精霊が少年を取り囲んだ。
「え? 何だよ?」
四大精霊は身体が透けているから、外の景色は見ることが出来た。金色の目の生き物に矢が雨のように降り注ぎ、蛇たちが薙ぎ払うように蠢いていたが、幾らかの矢が当たり、刺さることなく地面へと落ちていっていた。何処からか出てきた兵士たちから槍が投げられ、剣で切りつけられている。
「何? 何で! あれ!」
自分を囲っている四大精霊を見上げても、皆、いつも通りの無表情であった。
少年は、何が起こっているのか分からなかった。ここに来て、初めて自分以外の人間を見た。自分以外の人間は、ここに来ることは出来ないのだと根拠もなく思っていた。
槍も剣も身体には刺さらず弾かれ、折れていたが、武器を怖がる金色の目の生き物は、身体を丸めるように耐えていて、蛇たちだけが蠢き、薙ぎ払うように奮闘していた。だが、蛇たちも威嚇をし、武器を薙ぎ払っても兵士たちを攻撃してはいなかった。
「どうして……」
蛇の大きさは大小様々だったが、兵士を丸呑み出来る様な大きさの蛇は何体もいる。なのに、蛇はどれも兵士を傷つけてはいない。
「ねえ! そんな奴ら吹き飛ばせるでしょう!」
叫んでも、金色の目の生き物は身を丸めているだけだった。
「はーはっはっはっ! 無駄よ無駄無駄っ! 汝等の武器ではその怪物に一筋も傷をつけることは出来ぬだろう!」
宝石や金銀の飾りで飾り立てた白馬に乗った壮年の男が、高笑いをしながら現れた。焦げ茶色の髪を後ろに撫で付け、小さな冠のような物を頭に載せて、金色に輝く鎧を身に着けていた。




