神などいない ―前世編ー(4-1)
暴力シーンがございます。苦手な方はご注意ください。前世の話なので、無理に読まなくても大丈夫です。
その子供の一番古い記憶は、母親に手首を掴まれて歩いていたことだった。
細く、節くれだった指に強く掴まれて、とても痛かったことをよく憶えていた。険しい山道を登り、ここで待っているように、と言って母親は去って行った。見えなくなるまで後ろ姿を見送ったが、母親は一度も振り返ることはなかった。
陽が沈み、昇っても、誰も迎えに来なかったから、子供は一人で山を下りて家に帰った。道は憶えていた。何度も転びながらも帰宅した子供を、父親も母親もとても驚いた表情で迎えた。
どちらも、喜んではいなかった。
翌日、今度は父親が幼い子供を連れて家を出た。嫌な予感がした子供は逃げようとしたがどうしても逃げられず、山の頂上まで連れてこられた。父親は、徐に子供を担ぎ上げ、そのまま崖下に広がる森に向かって放り投げた。
子供は、表情が変わらない父親の顔をじっと見つめながら、落下していった。
生い茂った木々がある程度の緩衝にはなったが、子供の身体は容赦なく枝に切り裂かれながら落ちていった。地面に叩きつけられた時には、血だらけになっていた。いっそ、途中で太い枝に刺し貫かれていれば、楽に呼吸は止まっていただろう。身体中の骨も折れているのに、死んでいないことが不運と言えた。とは言え、その不運ももうすぐ終わろうとしている状態であった。
ぼんやりと目を開けても何も視えない状態だったが、何かの生き物らしき、シャーシャーと威嚇するような音が聞こえていた。全く身動きが出来ない状態に、子供は恐怖を覚えたが、どうすることも出来ず、そのまま意識を失った。
そうして、次に目が覚めた時。
金色の目が自分を見下ろしていた。
目と鼻と口はあるが、それはどう見ても人間ではなかった。
まず、大きかった。四つん這いのような姿勢で子供を見下ろしているが、手首から先は地面に埋まっているように見えた。手首だけでも、子供の頭よりも大きく、真っ直ぐに立ったならどれだけ大きいのだろうと子供には想像がつかなかった。
頭からは、髪の毛ではなく大量に蛇が生えて蠢いていた。色や大きさはまちまちだったが、大蛇のように長く大きな蛇も腰元や胸の辺りで蠢いている。子供など、一飲み出来る様な大きさであった。
子供は、喉が硬直して叫び声を上げることも出来なかった。口が開いたまま閉じることも出来ず、視線を外すことも出来ず、ただ見上げ、凝視することしか出来なかった。
どの位そうしていたのか。
それは、子供から視線を逸らし、俯くようにしてそのまま後退って行った。地面から手首より先を出すことは無く、僅かに地を振動させながら、やがて、子供の視界から消えた。
子供は、気配を消そうとするように暫く息を止めていた自分に気が付いた。そうして、ようやく、ほぅっと息を吐き出した時、目の前に椀を差し出された。
女性なのか、男性なのか分からない、とても綺麗な顔をしていたが、その人の髪の色は晴れた空のような青色だった。腕もあり、椀を持っていたが、腰から下が透けて向こうの景色が見えていた。
────人間ではない。
子供は、何か見えない手に背中を押されるように上半身を起こした。すると、口元に椀を押し当てられた。中身は乳白色の液体のようであったが、心なしかキラキラと輝いているように見えた。
一体何なのか、と戸惑ったが、空色の髪の生き物はぐいぐいと椀を口元に押し当ててきたので、堪らず口を開けて中身を一口飲み込んだ。
トロリとした甘い味に、子供は目を見開いた。一気に椀の中身を啜り、空になってしまった椀の中をじっと見つめた。
子供は何日もまともに食べていなかった。いつからかなんて、分からない。家族皆、食べる物が無く飢えていた。満腹なんて経験したことはない。こんな小さな椀の飲み物でお腹が膨れる筈もないのだが、子供はとても満ち足りた気分になって、そのまままた眠りに落ちた。
そんなことを何日か繰り返すと、子供はすっかり元気になっていた。傷は全て塞がり、折れた骨も元通りになったようで、普通に動けるようになっていた。
空色の髪の生き物はその様を観察し、或る日、子供の手を取り何処かに連れて行こうとした。
子供は、思わずと言うように渾身の力で手を払い除け、自分の手を抱えるようにじっと睨み上げた。手を繋がれるのは嫌だった。母に捨てられた記憶を思い出すからだ。
空色の髪の生き物は、別に怒ることも無く、表情は何も変わらないまま、子供の背中を再び見えない手で押すように歩かせた。
何も話してくれないので、子供は訳が分からなかった。分からないが、ここから去らなければならないのだろうと分かった。
どれだけ歩いただろう。
大きな建物に連れて行かれた。子供はこんなに大きな建物を初めて見た、と茫然として見上げた。空色の髪の生き物が暫く佇んでいると、綺麗な白い服を着た大人たちが中から転がり出てきて、皆、一斉に地面にひれ伏した様に子供は驚いた。とん、と見えない手に背中を押され、一歩よろめいて前に進んでから振り返ると、空色の髪の生き物はもう居なくなっていた。
子供はその後、建物の中に迎え入れられた。温かい水の風呂というものに入れられて、ゴシゴシと洗われた。「まあ、金色の髪だったのね」と言われて、子供は自分の髪の色を知った。白い綺麗な服を与えられ、温かい食事も提供された。
君の名前は?
君は何歳なのか?
何処から来たのか?
何を訊かれても子供は答えられなかった。自分の名前も、年齢も、あの場所が何処にあるのかも知らなかったからだ。
何処で神と出会ったのか。
君は、神の御使いなのか。
神は何か仰っていたか。
子供はやはり答えられなかった。あの空色の髪の生き物は神というのか? 神とは何なのか? 知らないので答えられなかった。
何も答えない、声を出さない子供に、「この子は口がきけないようだ」と大人たちは判断した。年齢は三歳位らしい、と決められ、名前に関しては揉めていたようだが「御使い様」と呼ばれるようになった。
それから、子供の生活は一変した。
毎朝決まった時間に起き、お祈りをして、三度の食事が貰えて、服の着替えも貰えた。世話をしてくれる大人が傍に付き、色々な物事を教えて貰えた。
子供は、この建物が「教会」と呼ばれるものであることを知った。「神」に祈り、拝み、敬って生きる大人たちが「聖職者」と呼ばれていることを知った。
あの空色の髪の生き物は、昔からごく偶にここに現れて人を連れてきていたらしい。ただし、言い伝えでは髪の色は様々であったようだった。連れてこられた人たちも、皆、瀕死の重傷でそのまま亡くなっていったらしく、生きて元気な状態で「神」が人を連れてきたのは初めてのことであったらしかった。
子供は、知識を得ることが面白かった。字を覚えると、一人でどんどんと書物を読んでいった。「天才だ、さすが御使い様!」と言われたが、そんなことはどうでも良かった。
ただ、世界を知りたいだけだった。
何故、親から殺されなければならなかったのかを知りたいだけだった。
成長するにつれ、教会では禁忌の知識として、「神」が別に存在することを知った。この国の王は神を名乗っていた。王は十年ごとに儀式を行っていた。その儀式を行った年は、作物が豊作になり、魚も大漁であり、家畜もよく子を産んで繁殖した。その儀式が出来る力があることが、神としての証明である、と王は言っていた。
それ故に、王家と教会は対立していた。
王家には、王を神とする別の宗教を抱えており、王家の婚姻や儀式などはそちらの教会で行っているようだった。
そういった関係の中、「神」を崇める協会は、「御使い様」が現れたことを歓び、王家に対抗する切り札にしようとしていた。だからこそ、子供は大事にされ、奇跡の力を望まれた。
だが、子供は単なる人間だった。ここに何故連れて来られたのかも分からない、普通の人間だった。「天才だ!」と周囲に言われていたが、教会はそんなことよりも「奇跡の力」を望んでいた。そんな力などある筈もなく、子供は成長するにつれて居心地が悪くなっていった。
神とは、何なのか?
教会に来て五年、子供はそう考えるようになっていた。大人に訊いたところで、「我々を憐み、慈悲を与えてくださる唯一絶対な存在の方です」という抽象的な答えしか返って来なかった。
おかしいではないか?
本当に慈悲を与える神が居るのなら、何故人を飢えさせる? 親に殺される? 親が子を殺す? 何もしてくれない神を、何故こちらだけが大事にしなければならない? それなら、十年毎でも豊作にする王の方がマシに思えた。だが、王だって、豊作に出来るなら、何故毎年豊作にしないのだ? 何故、自分たちは潤沢に暮らし、民を飢えさせるのだ?
子供は、神に、教会に、王に、不信感を抱いた。そんな疑念が態度に出ていたのか、教会も必死になっていたのか、「神の声を聞いてこい」と子供は教会を追い出された。
ずっと、喋れないふりをしていたので、今更文句を言う気にもなれなかったし、ここに残りたいとも思えなかった。そもそも、自分があの空色の髪の生き物に連れて来られていなければ、追い払われていただろう。そういう場所だ、とこの五年でよく理解出来ていたので、すんなりと教会を後にした。
しかし、さて何処に行こうと思っても、行きたい場所も、行くべき場所も思いつかなかった。
ただ、思い浮かんだのは────あの、金色の目だった。
あの時、倒れている自分を見下ろしている目が、とても印象に残っていた。怖かったけれども、恐怖とは違う何かも感じた。
自分は何を感じたのだろう?
何度もあの目を思い返してみても、分からなかった。だけど、その「何か」が何であるのかを知りたい、という想いがあった。
だから、奇しくも教会に言われた通りに「空色の髪の生き物」と会った場所を目指して、子供は歩き出した。
昔から記憶力は良いので、どのように連れて来られたかはよく憶えていた。だが、五年も経てば倒木で道が塞がっていたり、草木が生い茂って道が消えていたりと、方角を考えながら回り道をして進まなければならない箇所が多々あった。子供の身体なので、僅かな隙間をくぐり抜けて進むことができたが、それでも想定していたよりも、長い道のりを歩くことになった。
ようやく、自分が倒れて寝ていた場所に辿り着いた時には、疲れ果ててそのままその場所に寝転んだ。
鬱蒼と生い茂った木々の中、そこだけぽっかりと空間が広がっている場所だった。頭上にも空が広がっている。
こんな場所だったのか、と周囲を見回し、青い空を見上げた。
そうして、気が付いた。
自分が父親から落とされた山が見えないということに。
気が付いたらここに居たので、自分はこの場所に落ちてきたのだと思っていたのだが、本当は別の場所に落ちたのだろうか? そうすると、誰かがここに運んできたということか? ここに運んだ意味は?
ぐるぐると考え込んでいると、空色の髪の生き物が傍に立っていることに気が付いた。
「……さ、しぶ……」
久しぶりと挨拶をしようとして、声が上手く発声できなかった。
「ごめ……。こ……だ、のさしぶ……で」
ごめん、声を出すのが久しぶりでと言おうとしても、やはり声が出てこない。もう教会ではないのだし、暫くは独り言でも話しながら声を出す練習をしないとなと思っていると、空色の髪の生き物が消え、暫くすると椀を持って再び現れた。
金色に輝く乳白色の液体が入った椀を押し付けられ、懐かしいなと躊躇いもなく椀の中身を飲み干すと、お腹の底からぽかぽかと温かくなり、身体中にその熱が巡るように感じた。
「ありがとう」
声がすんなりと出て、驚いた。自分の手の中の空の椀を、じっと見下ろす。死にかけの大怪我をしたあの時も、毎日、この椀を渡されて飲んでいた。
「ねえ、この飲み物って何?」
今更ながらに気が付いた。自分は、あの時、死ぬほどの怪我をしていたのに、何故、たった数日で傷が塞がったのだろうか、と。医者にかかった訳でもないし、医者にかかったとしても、数日であの怪我を治せたとは思えない。どう考えても、この飲み物のお陰であった。
だが、空色の髪の生き物は、面のように何の表情もない顔で子供を見下ろすだけだった。
「じゃあ、何で僕を助けてくれたの?」
どうせ返事はないだろうと思いつつも訊いてみた。
返事はなかったが、空色の髪の生き物は、背後の森の中を振り返り、子供もつられて視線を移した。
暗がりから、金色の目がこちらを見ていた。
ぎくりと身体が強張り、暫く睨み合うような形になったが、金色の目の生き物は森から出てこようとしなかった。
危険ではないみたいだ、と子供は判断した。
「ねえ、あなたが僕を助けてくれたの?」
なので、子供は訊ねてみた。じっと見ていると、僅かに目が動いたように見えたので、頷いた、と子供は思った。




