神はここに在る(2-2)
城の中は落ち着いている、とディルニアスは判断した。となると、優先事項はマリーベルの恋愛相手だった。色々と出会いのある場所に連れて行った方が良いのかと悩んだりもしたが、当のディルニアスがまだ幼いのでそういった出会いの場になりそうな場所への参加権を持っていなかった。
権力を使って王家でそういった場を設けることも出来なくはないが、その場合はディルニアスの年齢に近い子供の集まりになるので、マリーベルの相手に相応しい者と出会えるとは思えない。
ディルニアスが悩みながらもマリーベルとの定例のお茶の時間の時、マリーベルの左手の薬指から赤い糸が垂れていた。
「マリーベル嬢、その糸は……」
「糸? どこかほつれていますか?」
マリーベルは慌てたように、自分のドレスの袖や裾に視線を走らせていた。侍女が駆け寄り、リボンやドレスの背後を調べている。
誰も、マリーベルの指から垂れている赤い糸には注目しなかった。
「……すまない。見間違えたようだ」
ディルニアスは詫びて、誤魔化した。
どうやら、マリーベルの光と同じ自分にしか見えない物らしいと悟った。マリーベルと別れるときに確認したが、お腹は相変わらず小さく光っているし、指にも赤い糸が見えていた。
同じような物、と考えると、やはりこれも彼女が見せている物だろう、とディルニアスは考えた。恋愛小説を読んでいる身としては、思い浮かぶのは「運命の赤い糸」である。
「運命の赤い糸って小指だよね?」
「そう書かれている物が多いですけど、この間手首に繋がる赤い縄って読みましたよ」
ディルニアスに命じられて、同じように色々な恋愛小説を読まされているジェフリーはそう答えた。
「なるほど。実際には無い物なんだから、想像は自由か」
ディルニアスは納得した。では、あの赤い糸の先にマリーベルの相手がいるのかと思ったが、糸は途中で見えなくなっていて、相手が何処にいるのか誰なのか全く分からなかった。
さて困った、と周囲を見回したが、マリーベル以外からは誰も赤い糸など垂らしていなかった。
どうやって探せば良いのかと悩んでいた時に、東の島国に遊学していたという従兄が帰国した挨拶にやってきた。
彼は名君が持っているという琥珀色の瞳を持っているが、東の島国特有の黒髪であり、この国では複雑な立場となっていた。血統主義の少なからずの人間から、王家の血に他国の血が混じった穢れを具現している、と何かあるごとに攻撃されていた為、暫くの間この国を出ていたのだ。
「久しぶりだな、ディルニアス」
長い黒髪を頭の高い位置で一つに結んでいる髪型は、東の島国の騎士の髪型だ。かなり鍛えてきたようだな、と思いながら、ディルニアスは差し出された握手を求める手に応えようとして、目を丸くした。
「……マクシミリアンって、左利きだったのか」
「ああ、すまん。矯正していたんだが、剣は両方使えた方が良いからということで、つい」
差し出された左手の薬指からは、赤い糸が垂れていた。やはり先は途中で消えていて分からないが。
「マクシミリアン、特に今後の予定がないんだったら、暫く私の護衛騎士見習いになってくれないかな?」
そうして、マリーベルとマクシミリアンを会わせた時に、お互いの左手の薬指から垂れていた赤い糸がしっかりと繋がっているのを、ディルニアスは確認した。
注意深く観察していれば、二人が惹かれ合っていくのが分かった。マリーベルがディルニアスの婚約者候補であるからか、二人は決して積極的に話そうとしなかったし、視線も合わそうとしなかった。真面目な二人だなとディルニアスは感心したが、そうでなければディルニアスも困るので、人目に付かない場所や自分も仕方なく混じっての二人の会話に協力したりした。
マリーベルを恋愛結婚させる! という長年の目標が叶いかけていた。
思えば、こんな平和な目標を持って叶えようと努力したことは初めてかもしれない。生まれ変わる前の目標と言えば、誰それを失脚させるとか暗殺するとか隣の国を潰して領土を広げるとか、そんなことばかりだった気がする。
ディルニアスは浮かれていた。
全てを諦めて生きてきたディルニアスは、生まれて初めて、いや、前世を併せても彼女が死んでから初めて、ディルニアスは自覚なく浮かれていた。
浮かれていたディルニアスは、大々的に学園の卒業パーティーで流行りの「婚約解消」劇までやってのけた。
ディルニアスにとってマリーベル嬢は婚約者候補の一人であっただけで、婚約者ではなかった。だから、マクシミリアンとマリーベルの二人の婚約は後ろ暗いものではない、という事を人目の多い場所で周知したかった、という理由もあった。
聡い者たちは、きちんとディルニアスの意図を理解して、二人を祝福した。王弟の嫡男と宰相の娘であり、王太子の祝福も受けているのだ。祝った方が得である。
だが、それでも面白おかしく二人を傷つけようとする者たちもいた。そういう愚かな者たちは、国にとっても益のない人物だし家だろうと、ディルニアスは記憶し、人に構っていられない状態に陥れるようにしてそれぞれの口を黙らせた。
二人の結婚式でも、ディルニアスは最前列で祝福をした。
ここまで、来た。
後は、彼女が生まれて来るのを待つだけの筈である。
ディルニアスは、十二歳になっていた。
十二歳になったディルニアスに、王家の教育が行われた。
現在の国王からの知識の伝授に、王はとてもやりにくそうだったから、ディルニアスは慰めるつもりで言った。
「大丈夫です。私は王家の中のことを殆ど知りません」
「知らない?」
「ええ、誰も私に教えてくれませんでしたから」
なので、普通に教えてくれれば良いと言いたかったのだが、王は痛みを堪える様な顔をしたので、ディルニアスは不思議に思った。
いざという時の城の抜け道などディルニアスは初めて知ったし、代々の王や王妃の日記の存在も初めて知った。自分が存在していた時代の王の日記にも「金髪金目」の人物については何も書かれていないらしく、自分はいない者として扱われてきたのだなと改めて悟った。
「……ここに、賢君たちが書いたと言われる書物があるが」
出しにくそうにしながら、王は書物や紙の束が入った箱を机の上に置いた。
「失われた古代の言葉で書かれているので、今では誰も読むことができない」
手近の箱を開けて見た。古く、黄ばんだ紙は一番最初の王の言葉を何度か書き写した物であるらしい。
目を通してみると、恐らく書き写した者が間違えたのであろう箇所が幾つかあったが、ディルニアスには難なく読めた。
ふっと、短く息を吐き出し、口角が上がった。
「……読めるのか?」
「ええ、読めますね」
初めて、見た。
まさか、こんな物が置いておかれているとは、思わなかった。
自分の存在を無視するのなら、別に捨ててくれて構わなかったのに。
「……なんと、書いてあるのだ?」
恐る恐ると訊いてくる王に、ディルニアスは肩を竦めた。
「別に。何と言うことは無い……ただの彼女への恋文です」
恋文……と呟く王を他所に、ディルニアスはいくつか文章を読んだ。
この頃、一番最初の頃、彼女の敵を討ち、彼女が生まれてきてくれた時の為に国を創ろうと頑張っていた時。
毎晩、毎晩。
日記のように、彼女に話しかけるように書いていた。今日はこんなことがあった、こんなことをした、あなたに会いたい、触れたい、褒めて欲しい、喜んで欲しい、早くあなたに会いたい。
生まれ変わっても、生まれ変わっても。
彼女に向って書いていた。会いたい、と。早くあなたに会いたい、と。どうすれば会えるのか、どうすれば生まれてきてくれるのか、いつ生まれてきてくれるのか。
何冊かの書物は、そんな内容ばかりであった。段々と字が乱れていっている。よく覚えていた。本当にいつか会えるのだろうかと不安になっていったことを、ディルニアスは覚えていた。
そうして、一番最後の書物には。
書き殴りのように、一つの言葉だけで頁が黒くなるほどに埋め尽くされていた。
今はもうない言葉だ。
強いて言えば、「怨む」とか「憎む」とかの言葉を合わせたような意味の言葉だ。
こんな書物を書いた覚えはディルニアスにはなかった。多分、殆ど狂った後に書いたのだろうと推察した。
乱れた字を指でなぞる。
彼女を怨んだのだろうか? 憎んだのだろうか? 狂っていた時の、自分の思考が分からない。だけど、狂っていたからこそ、心の底の想いを正直に書いたのではないか、とディルニアスは考えた。
自分は、彼女を憎んでいたのだろうか?
ディルニアスには、分からなかった。
準備は整っている。
後は、彼女が生まれて来るのを待つだけだ。
ここまで、もう後少しで彼女と会えるかもしれない、というところまで来たのは初めてだった。
溢れそうになる感情と、失望するのが怖くて感情に蓋をする自分とを繰り返している。
彼女が生まれて来る時、自分は何歳になっているのだろう? 余り歳が離れていると彼女は嫌がるだろうか? ああでも、年上だった彼女が今生では年下になるのか。彼女が育っていく様を見ることが出来るのはとても嬉しい、等とディルニアスは考えて過ごしていた。
そうして。
マリーベルが懐妊したという知らせを受けて、ディルニアスは混乱した。
「殿下?」
訝し気にジェフリーに声を掛けられ、ディルニアスは我に返った。
「あ、ああ、そうだな。祝いを私の名で贈っておいて欲しい」
「……畏まりました」
ジェフリーは、普通の命令に驚いた。マクシミリアンとマリーベルの二人には随分世話を焼いていたから、自らが選んで祝いに行くだろうと思っていたのだ。
しかし、ディルニアスはそれどころではなかった。
自分は死んでしまうのではないかと思うほどに、心臓が早鐘のように脈打ち、苦しかった。とうとう彼女に会えるのか? という緊張と、いや生まれてきて会うまでは彼女かどうか分からない、と冷静になる自分もいる。
今までと比較にならない程に、情緒が激しく乱高下していた。
でも、もし、彼女に会ったら。
何を話したいだろう? 何て言いたいだろう? やはり、まず、文句を言いたい。自分がどんなに大変だったか、どうして早く生まれ変わって来てくれなかったのか、どうして、自分を、人間を、国を彼女が滅ぼしてくれなかったのか……。
彼は、人間を憎んでいた。
彼女を殺した人間を憎んでいた。
彼女を生贄として人の世界に残し、天界に帰っていった他の神々を憎んでいた。
自分を助けてくれた彼女と、彼女に従う四大精霊だけを信頼していた。他の何も信用していなかったし、どうでも良かった。
彼女が世界を壊すと言うのなら、喜んで一緒に壊されただろう。
彼にとっての絶対な存在は、彼女だけだった。
神とは彼女であった。
彼女が、人を慈しむから。
いつか、自分も人間に生まれて恋愛をして結婚をするのだと夢見ていたから。
生まれ変わった自分を見つけてね、と約束をねだったから。
ただ、その為だけに、彼は、生きた。
彼にとっての絶対な存在の言葉に従い、生きた。
彼女が人として生きる為に、争いのない平和な世界を目指した。
彼女が飢えないように、貧しく生活に困らないように、豊かな国を創ろうと努力した。
全ては、彼女が人として生きるための場所を用意する為だ。
なのに、何故。
彼女を殺したお前たちが権利を貪り、義務を果たせと要求し、要望を押しつけて来るのか。
お前たちじゃない。
俺は、お前たちの為に頑張っているんじゃない。
彼女の為に創っている美しい場所を、横から侵し、奪い、貪り汚す。
彼女が生み出した世界に集る害虫ども。
何故、彼女を殺したお前らに、好き勝手に言われなければならないのか。
苛立ちが、憎しみが、人間に対して募っていく。
ただ、彼女との約束だけが俺を止める。
だけど。
次第に、ゆっくりと。
彼女との約束がなければ、こいつらを殺せるのに、という想いが積もっていった。
神は、いない。
俺にとっての、絶対的な存在はもういない。
なのに何故、俺はいつまでも神に支配されているのだろう。
この支配がなければ、人間を滅ぼすことが出来るのに。
ディルニアスは、彼女に出会えるかもしれない、という直前まで来て初めて自覚した。
自分の心の底に、彼女を怨み憎んでいる感情があるということを。
一番最後に同じ言葉だけを書いた書物を思い出し、狂ったから書いたという言葉ではなく、確かにあれは自分の感情なのだとディルニアスは納得した。
ディルニアスは、彼女に会うのが怖くなった。
彼女に会った時、自分がどう思うのか、どうするのか、全く想像が出来なくなって怖くなった。
彼女が生まれて来るかはまだ分からない、と自分に言い聞かせ、マクシミリアンは従兄でもあるので、懐妊のお祝いにも一度訪れた。マリーベルの膨らんだお腹は淡く輝いており、ああ彼女がこの中にいるのだとディルニアスは確信した。
彼女と会うことは、自分が何をするか、どう思うか分からなくて怖かったが、彼女と会わない、という選択を取ることは出来なかった。
彼女がとうとうこの世界に来てくれるのだと思うと落ち着かず、ディルニアスはマリーベルに陣痛が来た時から、公爵家に駆け込んだ。どうして分かったのだと恐れられたが、何と言うことは無い。四大精霊たちがくるくると回ってディルニアスを導いたのだった。
四大精霊たちが動くということは、やはり彼女が生まれて来るのだとディルニアスは緊張した。
何時間も、何時間も。
赤ん坊が生まれて来るのに、こんなに時間がかかるのかと、こんなに女性は大変なのかと、ディルニアスは初めて知った。
彼女が生まれてきたら……。
そう考えていたが、いつの間にかディルニアスは、ただただ彼女が、母子ともに無事であるようにと祈っている自分に気が付いた。
気が付き、ふと可笑しくなった。
神などいない自分が、一体何に祈っているのだろう?
祈るしかない時があるのだと、ディルニアスは初めて知った。自分は化け物だと、大概のことは何でも出来ると思っていたが、自分はこんなにも無力なのだと久しぶりに痛感した。
そうして、夜が明ける頃。
小さく、赤ん坊の泣き声が響き渡った。
「女の子ですよ。母子共に無事です」
侍女の声に、ディルニアスはほぅっと息を吐いた。
無事ならば良い、と思えた。何故だか、それだけで満足できている自分が不思議だった。
とりあえず一度城に戻るか、と考えていたら「どうぞこちらに」とぐったりと横たわったマリーベルがいる部屋に案内された。マリーベルは疲れ果てた顔をしていたが、とても誇らし気にディルニアスに微笑んだ。
「さあ、抱いてやってくださいな」
別室から現れた侍女から、そっと赤ん坊を渡された。恐る恐ると手を伸ばし、ぎこちないながらも指示通りに抱っこをして顔を覗き込んだ途端に、赤ん坊が激しく泣き出した。
ぶわりと、ディルニアスの身体の底から感情が溢れ出た。
彼女に会ったらどう思うのかと悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しい程に、奥からこんこんと溢れ出て来る感情は、ただ一つだけ。
────愛しい、と。
ただ、愛しい、と。
その感情だけが、溢れ出た。
「…………ああ、やっと、会えた」
愛しい貴方と、会えた。
約束を、果たす事ができた。
感情と共に、涙が溢れ出た。
彼女が死んで以来、初めて流す涙だった。
絶対的な存在などいないと思っていた。
だけど、絶対的な存在はここに在る。
この腕の中に、何よりも尊い存在が、在る。
ディルニアスは、赤ん坊と共にわんわんと泣いた。
それから、蓋が外れたように、ディルニアスの感情は溢れ出るようになった。
「私と彼女との婚約を認めてください!」
まず真っ先に、自分の両親へと願い出た。
今度こそ、今回こそはどんな手を使っても、この国を滅ぼしてでも彼女と添い遂げるつもりでいた。
けれども。
「……ようやく出会えたのね。おめでとう」
祝福の言葉を王妃から贈られ、ディルニアスは素直に「嬉しい」と思った。
全てを諦め、拒絶していた時と違い、両親が、弟が、自分を気にかけてくれていることが理解できたし、嬉しいと思えるようになった。
思い返してみれば、自分が生まれ変わりながらも一人の女性を探していると信じて、気遣ってくれたことが、決して小さくはないディルニアスの支えになっていた。そんなことを言ってくれた親は初めてで、自分は頭がおかしい訳ではない、と安堵出来たのだ。
だからと言って、これから息子として兄として、家族にどう接すれば良いのかディルニアスには分からなかった。
「逆に言えば、このくらいのことも出来ずに担ぎ上げられる無能な弟なら、今後の私の邪魔になるからこちらも色々と考えないといけないしね」
ディルニアスにしてみれば、信頼しているとレイモンドに言いたかったのだが、大層怯えた目で「頑張ります!」と返事をされた。何か言い方を間違えたらしい。
家族への対応は手探りだったが、ヴィへの想いは溢れ出るままに素直に口に出していた。最初は周囲からドン引きされていたが、今では皆当たり前なことだと聞き流していたし、ヴィは産まれた時から普通に浴びている言葉なので、何がおかしいのか分からないのだけど? と成長していった。
「ヴィ、私の唯一、私の女神。貴方より尊いものは、他には何もない。貴方だけを敬い、貴方だけを拝み、貴方だけを私は信じる」
跪き、ヴィの手の甲に口づければ、ヴィは紫水晶の瞳を細めて微笑んだ。
「では、貴方の唯一の神から、託宣を授けましょう」
ヴィは、ディルニアスに向かって両手を広げた。こほん、と咳ばらいをして厳かな声を作り宣言した。
「貴方は、これから幸福な一生を送ります。わたしが絶対に貴方を幸福にします」
神からの有難い託宣よ、と片目を瞑って笑いかけるヴィを、ディルニアスは思いっきり抱きしめた。
「とっくに幸福なんだけど?」
「じゃあ、それが死ぬまで毎日続くのよ。間違いないわ」
大丈夫よ、とヴィに頭を何度も何度も撫でられ、ディルニアスは何故だかとても泣きたい気分になったのを誤魔化すように、ヴィを抱く腕に力を込めたのだった。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました! ギャグの辺りだけで済ませるつもりだったので、ここまで書くことになるとは思いませんでした。詐欺だと怒られたらどうしようと思いながら書きました。大丈夫でしょうか…?




