絵師は何処だ?
ウィンダリア国では十五歳で社交界デビューを果たすが、ここでは顔見せ程度となる。夜遅くまで開かれる夜会では、成年である十八歳を迎えていなければ直ぐに退場しなければならない。なので、結局本格的な社交界デビューは十八歳と考えられていた。
ディルニアスは機嫌が良かった。
嘗てないほどに上機嫌だったと言えた。
婚約者の十八歳の誕生日と共に結婚式を挙げ、『最愛の妻』となったヴァイオレットをパートナーとして初めて夜会に出るのだ。自分色に着飾った妻をエスコート出来る喜びに、ディルニアスは打ち震えていた。
「ヴィ、凄く綺麗だよ! この会場の中で一番、いや、世界中で、違うな、夜空の星々よりも月よりも君が一番輝いているよ! ああ、長生きはしてみるものだね! こんな幸福な日が来るとは思わなかったよ! 私は間違いなくこの世で一番の幸福者だ!」
「ヴィオラ様、疲れたらすぐに仰ってくださいね」
「ありがとう、ダイ」
はしゃいでいるディルニアスには構わずに、ダイアナはヴァイオレットを気遣った。ライアンは他の側近たちに背中を押され……蹴り飛ばされて、渋々とディルニアスの傍に近づいた。
「この後の流れをご説明します。先ず、陛下が夜会の開始の挨拶、各国からの王太子殿下の婚姻のお祝いへの謝辞を申し上げます。その後に、中央にてお二人で踊って頂きます」
「二人の共同作業というものだね! ヴィの美しさを見せびらかしたいけど、独り占めをして誰にも見せたくないという想いもある。悩ましい。私はどうすれば良いのだろう?」
「だから、二人で踊ってください」
ライアンは同じ言葉を繰り返した。
「そして、ディルニアス殿下はその後に……パーラー国の女王と、ヘルゼン国の第二王女と踊って頂きます」
「……………………何だと?」
浮かべていた笑顔は嘘のように消え去り、何の感情も無い金色の瞳で見つめられ、ライアンはそっと視線を逸らせた。
「何故今日に限って? 私は今まで一度も踊らずにきたのに、何故、結婚後初の夜会でヴィ以外の人間と踊らなければならないんだ? そういった圧力に屈することがないように、私はこの国の外交に尽くしたし、国力に尽くしてきた筈なのに?」
そうか、他の女性と社交上で踊らなくてもいいように外交や国力を強化してきていたのか……そんな理由初めて知ったぞ、とライアンは思った。
「今回は、あくまでも『お祝い』に対する礼となりますので、外交とかは関係ないと言いますか、体面を立てると言いますか」
「そんな体面、潰せば良いんじゃないか?」
「善意なんだから、潰しちゃ駄目です」
「レイモンドに代わりに躍らせれば良いじゃないか」
「レイモンド殿下への祝いではないので、この場合は無理です」
使えないな、とディルニアスは舌打ちした。第二王子としての役割をレイモンドは頑張っているのだから、かなり気の毒な話である。
「本当に善意なら、礼を言うだけで済む筈だよね? 何故私が身体を売らないといけないのかな?」
「殿下、言い方!」
ディルニアスの言い方は悪いが、的を射ていた。ライアンが思う所、パーラー国の女王は、誰とも踊った事のない王太子殿下が、自分と踊った、という事実に価値を置きたいのだろうと見て取れた。ヘルゼン国の王女は、豊かな国なので、王女がディルニアスに夢を見ていてその夢を叶える為に祝い金を積み上げた可能性がある。
「結婚祝いと言われては、返す事も受け取りを拒否する事も出来ません」
ライアンが断言すると、ディルニアスは周囲を見回し始めた。
「今までのように、ウェイターにわざとぶつかって酒を全身に浴びて会場を出て行かないでくださいよ!」
「まあ、ディー、そんな事をしていたの?」
ヴァイオレットが驚きの声を上げると、ディルニアスは困ったように微笑んだ。
「どうしても仕方ない時だけだよ。私は、ヴィ以外とは踊りたくないからね」
だけど、とディルニアスは眉根を寄せ、ライアンはどう説得しようかと内心冷や冷やとしていた。
「そんなに嫌なら、わたしが代わりましょうか?」
「……は?」
ヴァイオレットはこてんと首を傾げて、ディルニアスを見上げ、ライアンに視線を移した。
「わたしももう王族になっているのだから、良いんじゃなくて? 相手の国の王配とか王子とか何方かと踊れば礼にはなるでしょう?」
「ああ、そうですね!」
「なっ…………!」
喜色満面となるライアンと代わって、ディルニアスは顔色を青褪めさせた。
「だ、駄目だ! そんな、ヴィが、わ、私以外の男の手を取って身体を密着させて動きを相手に合わせて同じリズムと時間を共有しいつしか視線が絡み合い」
「わたし、何をするのかしら?」
「単なる社交上のダンスです」
妄想を延々と口にしていたディルニアスは意を決したように、顔を上げた。
「ヴィにそんな事はさせられない! 私が……私が身体を売ろう!」
ディルニアスは、悲壮な顔で宣言した。
「ダンスを踊るだけです」
ライアンは丁寧に訂正をした。
そうして、夜会が始まり、ディルニアスとヴァイオレットは会場の中央でとても優雅に、綺麗に踊った。周囲からは溜息が漏れる程に二人は美しく、息もぴったりと合っていた。ディルニアスは蕩けるようにヴァイオレットに微笑みかけ、あれは誰だ? とざわめきが起こり、男女を問わず少なからずの人間が頬を染めた。ダンスが終わりに近づくと、ディルニアスは悲壮な表情となり、踊り終わった後にはヴァイオレットをライアンとダイアナの元へと送り、「決して誰も近寄らせるな」と厳命して、感情が抜け落ちた表情で先ずはパーラー国の女王の元へと赴いた。
「申し訳ございません、ヴァイオレット様」
「あら、何が?」
ライアンに謝られて、ダイアナに渡された飲み物を一口飲んでから、ヴァイオレットは不思議そうに訊き返した。
「何と言いますか……、ディルニアス殿下が必死でご自分の身を守ってきた事は理解していますので、選りにも選って、今日この日に他の女性と踊って頂かねばならないなどという事実が……」
確かに、今の三十歳を越えたディルニアスであれば、外交や国力など自分が積み上げてきた実績で断ることは出来るようになっている。だが、まだ幼い、今ほどに実績を積み上げていない時期からその絶世の美貌で注目を浴びていたディルニアスが、社交上の交流を逃げるのは容易ではなかったであろう、とライアンは理解していた。
「確かに、ディーは潔癖なところがありますものね」
潔癖、という一言では済まない気がしたが、ライアンは頷いた。
「でもね、ライアン」
ヴァイオレットは困ったように眉根を寄せた。
「それ、普通よ?」
「はい?」
ライアンは、何と言われたのか分からなかった。
「だから、この国の三十一歳の王太子殿下が社交上でダンスをするのは、当たり前なことじゃない?」
「…………あ」
確かに、とライアンは納得してしまった。ディルニアスとして考えると申し訳ないと思っていたが、もし他国の三十一歳の王太子が社交上でダンスをするのを嫌がる、と聞くと、その国の将来は大丈夫なのか? と思ってしまう。
自分の思考が毒されていたことに、ライアンは気が付いてしまった。
「ふふふ。でも、それだけディーの事を思ってくれているって事よね。ありがとう」
ヴァイオレットは嬉しそうに笑いかけてくれるが、ライアンは複雑だ。
「ヴァイオレット様は、殿下が他の方と踊られて嫌じゃないんですか?」
何となく、他人事のように笑っているヴァイオレットに意趣返しをしたくて、ライアンは訊ねてみた。
「……そうね。面白くはないけど、仕方のないことだと思っているわ。それにね、見て」
ヴァイオレットが示す方向を見れば、今正にパーラー国の女王と踊っているディルニアスの姿があった。ディルニアスは白い礼服に白金の刺繍と縁取り、アクセサリー類は全て紫水晶というヴィの色に染め上がった姿だった。
ディルニアスは、とても不機嫌そうに踊っていた。よくある貼り付けた笑顔や無表情ではなく、微かに眉根を寄せて不機嫌が顔に出ていた。踊っているが、出来るだけ身体を離し、手も相手の身体に触れていないのが分かる位置に置かれているし、リード何それ? と相手の事は考えずに自分のペースだけで踊っているのが分かる。はっきり言って、めちゃくちゃだ。
「ああいう姿を見ていると、嫉妬心も起こらないわね。どうやって機嫌を直してもらおうかしら? としか思わないわ」
確かに、とライアンは苦笑を浮かべた。
そうして。
「実は、ディルニアス殿下の機嫌を直して頂く為にプレゼントを用意しているのですが、ヴァイオレット様にもご協力を頂いて宜しいでしょうか?」
ライアンの話を聞いたヴァイオレットは、「任せて頂戴!」と嬉しそうに笑った。
パーラー国の女王とディルニアスのダンスが余りにも悲惨だったからか、ヘルゼン国の王女は体調が優れないとダンスを辞退したので、ディルニアスは内心喜びながらも疲れ果ててヴァイオレットの元に戻った。
「ヴィ、お待たせ!」
「待ってたわ! さあ、わたしと踊りましょう!」
ヴァイオレットは、淡い黄色の布地に黄金の刺繍を施されたスカートをふわりと翻して、ディルニアスの腕を取ってくるりと回って見せた。
「え?」
ディルニアスは、ぱちりと目を見開いた。
「あのね、さっき、ディーったら凄く不機嫌そうに、詰まらなそうに踊っていたのよ。だからね」
悪戯を思いついた子供のようにヴァイオレットは、微笑んだ。
「ディーは、わたしとだったら、とても幸福そうに、嬉しそうに、楽しそうに踊るのよ、ってみんなに見せびらかしたいの!」
だって、わたしたち新婚だもの!
そう笑うヴァイオレットを、ディルニアスは眩しそうに見つめ──笑った。
「そうだね! みんなにいかに私たちが幸福か見せびらかそう!」
ディルニアスは喜んで、ヴァイオレットを会場中央まで導いた。
静かに音楽が始まり、動き出す二人。
ディルニアスとヴァイオレットが笑いながら踊るのを、ライアンとダイアナの兄妹は並んで見つめた。
「……絵師は何処だ?」
「あそこの隅に……あら、近づいて行ってるわね」
言われて見れば、小さなスケッチブックを片手に二人に近づいている怪しい人物がいる。
「あれは大丈夫なのか?」
「護衛騎士には話しているけど……。掴まって絵が描けませんでしたでは困るわよね」
そういう問題だろうか? と思ったが、ライアンは何も突っ込まなかった。確かに、絵が描けなかったと言われては困るからだ。
────絵を贈りたいので、どうか、二人で思いっきり笑ってください。
ライアンが頼んだ事を、ヴァイオレットは忠実に守ってくれている。零れるように、蕩けるように、二人は見つめ、笑いながら踊っている。
「わたしたちからの結婚プレゼント、喜んでくれると良いわね」
「……そうだな」
ディルニアスの笑顔を見ながら、本当に良かったな、とライアンは思った。




