通り道
私に愛が留まっている。与格構文。私は愛がどこから来たのかも知らないしどこへいくのかも知らない。何で出来ているかもどのように出来たのかも知らない。ただただ愛がどこかからかやってきてたまたま私の元に留まっている。やがてどこかへ行ってしまうだろうが、それまでは私の元に留まっている。だから私はそれを愛と呼ぶのだ。愛とは通り道のことだ。いつも通る道のことだ。そして自由気ままな寄り道のことだ。
いつもは何気なく通り過ぎる道。目的地へ急ぐ余り仔細に目を凝らすことなどしないだろう。私自身がそうである可能性など、これっぽっちも考慮せずに。ふらっと横道に逸れてみよう。普段は選ばないような。零れ落ちた風景。見落とされていた情景。これらはもともとあった訳ではない。今ここで、この瞬間に生まれたのだ。存在を認識されることによりその不在が顕著になる。逆説的なものだ。そしてこれらの寄り道がいつもの道を際立たせる。寄り道なくして本道の溶解に気づくことなど不可能なのだ。
私はどこかの通り道。
私は誰かの通り道。
別に私に限った話ではない。
いつかのだれかはどこかの誰かの通り道。
孤立した墓場などありはしないのだ。
空虚な行き止まりなど。
切断された二重螺旋など。
終わりも始まりもないのだから。
始まりも終わりもあるじゃないか。そんなもの明らかだろうと言いたくなるかもしれない。しかし、本当にあると言えるのだろうか。仮初の「か」の字にも装飾されてはならないのだ。サルが投げ落とす青い柿よりも速く、転がっていくおにぎりよりもゆっくりと。そんなリズムで踊れたらきっと痺れてしまうに違いない。良い意味でも悪い意味でも。それが本当に良かったかなんて分からないのだ。始まる前にも終わった後にもその最中にも。
みちみちと膨張する肉。通路をあっという間に塞いでしまった。隙間風がひゅーという弱々しい音を立てて吹き込んでいる。時折、砂がガラスに擦れるような耳障りな音が混じる。腹の底に響く嫌な音だ。いや、これは隙間風の音ではない。目の前の肉の音でも、肉と通路の摩擦から生じる音でもない。紛れもない私の呼吸音だ。どうやら呼吸の仕方を忘れてしまったみたいだ。不規則なリズム。パクパクと口を上下する。
愛と離別は同じことだ。私に愛が留まっている。私に離別が留まっている。どちらも同じ通り道。何気なく道端に咲いているたんぽぽがそれを教えてくれるだろう。