32 髪を切るつもりはなかった
「リコ、気分はどう? お腹の子、順調だろうか」
ノーシェが尋ねると圜子は顔を凄ませ、俺をひと睨みする。
そのあとでノーシェに素っ気なく答えた。
「別に」
そんな一言のみを残し、歩き去っていった。
ノーシェが苦笑する。
「きょうのリコは機嫌が悪かったようだ」
あの態度の悪さは決して『きょう』とかの問題ではない。『俺』がいたからだ。それに、もしかして俺と結衣姫の拘束が解かれたのを、耳にしていたのかもしれない。仮にそうだとしたら、さぞかし腸が煮えくり返っていたことだろう。
「あのだな……。颯太はリコのこと、いまどう思っている?」
不意に圜子について問われた。
「うーん。横柄、不遜、居丈高、傲慢、高慢ちき……だろうか」
「そうではなく、一人の女性としてだ」
「はあ? えーと、女性として?」
ノーシェは首をすくめた。
「す、すまん。無神経だった」
「いや別に。まあ、彼女についてはなんとも思っちゃいないさ」
穿つような視線でこっちをじっと見る。
「本当に? 未練とか、その……まだ心の中に恋しさ……とか……。わっ、わたしは何を。何度もすまん。忘れてくれ」
未練なんてあるものか。あるとすれば、慰謝料に関する未練かな。
「ああ、そんなもん(慰謝料以外は)微塵もないからな」
「ならば恋人時代のことは良き思い出として、完全に吹っ切れたのだな」
逆に夫婦時代のことは最悪の思い出として、完全に後悔しかない。
「そうだな」
と言っておいた。
「そうか」
◇ ◇ ◇
「すみません……。お話がございまして」
テントに移った晩、隣のテントから結衣姫がやってきた。
何やら深刻そうな顔だ。どうしたのだろう。
「まさか、また圜子が?」
結衣姫は大きく頭を振った。
「いいえ。彼女のことではありません」
「じゃあなんだ?」
「わたしは何日も何日もじゅうぶんすぎるくらい、月輝姫と雪綺姫の二人に守られてきました……」
「やめなさい」
月輝姫もやってきて、結衣姫の言葉を遮った。
それでも俺は結衣姫の話を聞きたかった。
「話、続けてくれないか」
「はい。わたしはいつ誰に殺されても不思議はありません。そのため月輝姫と雪綺姫は昼夜を問わず、わたしを護衛してくださっています。ですが、お二人は過労状態が続き、疲弊しきっています。夜間は交代で睡眠をとられているようですが、おそらくもう限界だと思います」
確かに月輝姫の顔に疲れのようなものが見えなくもない。
「月輝姫も雪綺姫もそこまでやってくれていたのか……」
夜間も交代でとか、そこまで大変な依頼を押し付けたつもりはなかった。なのに月輝姫と雪綺姫は結衣姫を守ることに尽力してくれたのだ。
「どこが限界だと言うのかしら。舐めないでほしいわね」
という月輝姫の手を、敬意を込めて握った。
「友人を守るために頑張ってくれて有難う。でもここまででいい。あとは俺の役目だ。月輝姫にはゆっくり休んでもらいたい」
万一のことを考えて、結衣姫に提案する。
「俺のテントに移ってくれないか。以前もテントは一緒だったことだしさ」
「お邪魔だとは思いますが、そうさせてもらえますとありがたいです」
雪綺姫を呼びにいった。事情を説明し、心から礼を述べた。そして安心して休んでほしいと告げた。
「本当によろしいのでしょうか。いま瞼を閉じましたら、わたくしも月輝姫も深い眠りに入ることでしょう。きっと何日も昏睡したままになるかと思いますが?」
「それでいい。月輝姫とともに当分の間、ゆっくり眠っててくれ」
両者は首肯すると、動かぬ人形と化した。
おやすみ。月輝姫、雪綺姫。
◇ ◇ ◇
翌々日の朝――。
死神が頻出するのは四箇所。そのうちの一箇所へ行くことになっている。実力トップ層の異世界人が九人も同行する予定だったが、きのうの会議で俺が断った。同行者は結衣姫のみだ。
だが目的地まで歩いていくわけにはいかず、軍馬車に乗らなくてはならなかった。結局、軍馬車の御者として兵士一人を帯同させる必要があった。
「えっ、ノーシェ? どうしてここに」
軍馬車を御するのはノーシェだった。
「担当兵士に代わってもらった」
「聖騎士が一兵士と交代したのか」
ノーシェが屈託のない笑みを浮かべる。
「本来、実力トップの特殊技能者が十人で行くものだったではないか。颯太と結衣姫だけでは無茶すぎる。だからグリガン聖騎士団長を数時間かけて説得した。わたしが颯太のサポートを行なう」
数時間かけて説得って。
グリガンもいい迷惑だっただろうな。
「それはそうと……」
俺はノーシェのちょっとした変化に気づいていた。
いいや、ちょっとどころではない。
彼女が小首をかしげる。
「なんだ?」
「髪、切ったんだな」
「あっ。その……似合うだろうか?」
「さっぱりしてて似合うと思うぞ」
「そうか。切るつもりはなかったが……切ってよかった」
軍馬車が走る。
目的地は大きな川の畔の小さな村。
ノーシェが馬車を操りながら問う。
「いつもの人形たちがいないようだけれど?」
「小さな人形に戻って、いまはリュックの中だ」
おそらく目を覚ますことはないと思ったが、一応持ってきておいた。
「うっとりするほど美しい二人だが、颯太はどう思っている?」
「否定はしない。俺も美しい人形だと思う」
「では、その……恋慕の情の意味では……?」
「おいおい、何言ってる。月輝姫も雪綺姫も人形だぞ」
ノーシェはぎこちなく笑うのだった。
「ハハハ。そうだろう。二人はいくら美しかろうと人形だ」
今度は後部座席の結衣姫をチラチラと気にしている。
「後ろがどうかしたか?」
「なんでもない。と、ところで颯太は結衣姫のことを、ずいぶん気にかけているようだが」
「彼女は俺が城に連れてきてしまったんだ。そりゃ責任は持つべきだろ」
「ふむ、なるほど責任感か」
俺は何気なくノーシェに横目を送った。
「そういうことだ、ノーシェ。現在、常に結衣姫は危険にさらされている。憎しみを抱いている聖騎士が多いからな」
ノーシェが落ち着きを失う。
「わ、わたしは結衣姫に危害を加えようだなんて思っていないぞ」
「冗談だ。悪かった。彼女が拘束されていたとき、待遇が悪くならないよう努めてくれたんだよな。心底感謝してる。ノーシェが彼女を襲うなんて思ってない」
「わかれば……よろしい……」
軍馬車は目的地の村に辿り着いた。
まずは聞き込みから始めた。
村の住人たちによれば、確かに赤髪の死神をよく見かけるらしい。
場所は川辺だという。さっそくそこへ向かった。
川辺の一面に白い花が咲いていた。
おやっ、これは……。
白竜草ではないか。
西の国で見た花だ。
それがこんなところにも咲いているなんて。
川岸を見おろせる土手の上で、死神の出現を待った。
ときおり吹く心地よい風に、ウトウトしそうになった。
しかし夕方になっても死神は姿を見せなかった。
初日から死神に出くわすとは思っていなかったし。
ルウェット城に戻り、一日のことを報告した。
この日、死神は四箇所のどこにも現れなかったらしい。
翌日もそれぞれの部隊が同じ場所へ行くことになった。
俺と結衣姫はきょうもノーシェの操る軍馬車で、きのうの村へ赴いた。
白竜草の咲く川辺を見おろしながら、土手の上で死神の出現を待った。
それは川下からやってきた。




