2 妻の顔を見ずに済むのならば、転移先の世界は天国だ
ふたたび空が明るさを取り戻した。
眼前の景色は様変わりしていた。
ここは公園の池畔だったはずだ。
なのに……この町並みはなんだ?
この風景、日本のものではない。まるで遠い昔の外国。
行き交う人々の服装も、かなり変わっている。
ところで、さっきの少女の姿が見えない。
どこへ行ったんだ。無事でいるだろうか。
足元に人形が落ちていた。彼女が持っていたものに間違いない。
それを拾いあげ、土の汚れを払った。
町の人々が視線を向けてくる。ジロジロと物珍しそうに。
そのうちの一人が俺を指差した。
「イセーカイジーン!」
えっ、なんだ? イセカイ……ジン?
メチャクチャ訛っていたが『異世界人』と言ったのか?
彼の一言が皮切りとなり、多くの者が声をかけてきた。
「コニーチワ」
「ゴキゲン イカーガ」
「アヤシー モーノ デワ アリーマセン」
「ミナ トモダチー」
わっ、こっちに寄ってくる。
来るな。気味が悪いぞ。
俺はその場から走って逃げたが、彼らも駆け足で追ってくるのだった。
大通りに出ると、そこでも人々に騒がれた。別の道へと曲がっていき、さらに細い路地へと入り、身を隠した。
そういえばこれ……。
拾った人形を握ったままだった。
あの不思議な少女の人形だ。
今度会ったら返さなけりゃだな。
でもまた会えるのか?
彼女、どこに消えたのだろう。
そもそも、ここはどこなんだ?
なあ、俺、どうしたらいいんだ。
小さな人形の鼻先を、指でちょこんと弾いた。
えっ! 思わず人形を落としそうになった。
突然人形が強い光を発したからだ。
驚くのはまだ早かった。
眩しい光の中で人形が大きくなっていく。
やがて人形は人間の姿と化した。
コイツ、子供……女の子……になりやがった。
いま、信じられない光景を目の当たりにした。
この少女……。
俺はこの子の顔を知っている。ほんの五分か十分くらい前に見たばかりだ。そう、人形を抱えていた女の子に間違いない。
早くもまた会えてしまった。
「さっきの人形の正体、キミだったってことだよな?」
でもどうなっている。俺にはさっぱり理解できない。
「逆よ。わたしの正体が、さっきの人形」
ワケのわからないことを言いやがった。
余計に頭の中が混乱してきた。
ただ、彼女はどう見ても人間だ。人間そのものだ。
しかもガキの頃、池畔でよくいっしょに遊んだ子とそっくり。
「キミが人形……?」
小さな首肯が返ってきた。
「そうよ。だけど、いまはあなたと同じ人間」
「ああ、駄目だ。理解が追いつかない」
少女は長い黒髪を掻き払った。
「そうね。人間になったり人形になったり、わたし自身もきちんと理解できたわけではないわ。ただ、わかっていることもある。わたしの意思でどちらにもなれるってこと。昔は人間としてのわたしと、たくさん遊んだのよね」
どこからか声が聞こえてくる。
「イセカーイジン トモダチ」
「イセカーイジン ヨーコソ」
俺を探し続けているようだ。
「くそ、アイツらめ。俺をどうするつもりだ」
「逃げ切れるものではないと思うわ。だいたい、逃げたところで住む場所も食べ物もないのでしょ? 彼らに悪意は感じられないことだし、捕まってみるのもいいのではないかしら」
「かもな。どうせ逃げたって、いつかは捕まるだろう。無駄に疲れるだけだ」
「ならば決まりね。もし危険な目に遭いそうになったら、わたしが守ってあげるから、あなたは安心していいわ」
「守るって。小さな子供に何ができるんだよ」
「だったらこれで安心できるかしら?」
またもや不可解なことが起きた。
いったい、これ、どうなってる!?
ふたたび少女は光に包みこまれた。
彼女の体は大きくなり、成長した姿となる。
見た目として齢十代後半……高校生くらいか。
しかし彼女はふらりとよろけるのだった。おでこに指を添えた。
「いたたた。能力を一気に使い過ぎたみたい。いったん人形に戻ることにするわ。またあとで」
「お、おい?」
彼女の姿はふたたび人形と化した。
俺一人が取り残された気分だ。
冷静になろうと深呼吸した。
彼女が提案したように、捕まってみようじゃないか。
細い路地から出た。
人々が俺を見つける。
「イセカイジーン!!」
たちまち取り囲まれた。
その中から一人の若い女が出てきた。
キリッとした眉に、引き締まった口元。いかにも生真面目そうな感じだ。
鎧のようなもので身を包み、腰には剣をぶらさげている。
女兵士といったところか。
その立派な装備を見て、小さな不安がよぎった。
もしや……俺を抹殺にきたなんてことはないよな?
しかし彼女は硬かった表情を緩ませるのだった。
「お兄さん、安心してください」
決して流暢ではないが、きちんと日本語になっていた。
だが……お兄さんだと? そうか。コイツは客引きか!!
ほぼ強引に馬車に乗せられた。
客引きっぽい女兵士が、ぴったり隣に座る。
おい。ちょっと、近すぎるって。
どこへ連れていくつもりだ。
やはり……。いかがわしい店か。
カネならば持ってないぞ?
「これをどうぞ」
輪っかを差し出してきた。
「それをどうしろと?」
「腕輪です。はめてください」
はめたらどうなる? まさか取り返しのつかないことに?
輪っかには、不吉な感じが漂っていた。
そのデザインが俺の結婚指輪に似ていたのだ。
圜子にはひどい地獄を見せられたからな……。
そういえば、俺の左手薬指から結婚指輪が消えている。
指輪だけじゃない。この服だって、俺が着ていたものとは違う。
きょうも普段どおりスーツで通勤していたはずなのだ。
だけど、この服には見覚えがある。
そうだ。若い頃、こんな感じのを着てたっけ。
差し出された腕輪について、受け取る前に一応訊いておく。
「その腕輪、なんのためのものだ?」
女兵士は自分の左腕を見せた。そこには同じ腕輪がはめられていた。
ペアリング……いや、ペア腕輪ってことか。それを俺と?
コイツ、やはり『思わせぶり商売』の女だったのか。
「魔道具です。知らない言語でも会話できます。この世界の言葉で話すとこうなります。%#-?!/@~ +&$-#?……」
彼女は奇妙な言葉を話し始めた。初めて聞くような言語だった。もちろん言葉の意味は理解できない。
だとしても嘘くさい。
まあ、実際に試してみるしかないか。
腕輪を受け取り、腕にはめてみる。途端に彼女の話す言葉の内容が、すらすらと頭に入ってきた。
すごいぞ! この腕輪、翻訳機じゃん。
驚きの感想を彼女に伝えたいと思った。するとどうだろう。彼女の言語と思われる文章や発音が、頭に浮かんでくるではないか。それを辿々しいながらも声に出していく。
彼女が微笑んだ。
意味が通じたらしい。
「未知の世界から来たお兄さんと話ができて嬉しいです」
またお兄さんと言った。
やはりこの女が怪しいことには変わらない。
俺、四十七のオッサンだぞ。
「お兄さんなどと呼ぶな。不快過ぎる」
「すみません」
女兵士はシュンとなった。
ところが……。
腕輪に俺の顔が映る。
ハッとした。嘘だろ?
腕輪に映った自分を見ながら、てのひらで顔に触れてみた。
「ええと……鏡が必要ですか? でしたらこれをどうぞ」
彼女から鏡を渡され、あらためて衝撃を受けた。
これはいったいどうしたんだ!!!
鏡に映った俺の顔が若返っていた。おおよそ高校生くらいにまで。
彼女が『お兄さん』と呼んだことも理解できた。
「さっきは突然怒って悪かった」
「いいえ、馴れ馴れしくお兄さんと呼んでしまったコチラが悪いのです」
別に馴れ馴れしかったから怒ったわけではない。
だが、そういうことにしておいた。
馴れ馴れしいといえば……。
町の人々がまさしくそれだった。
彼らは『コニーチワ』などと下手な日本語で呼びかけてきた。彼女の話によれば、最近、俺以外にも日本人が現れるようになったらしい。日本語の簡単なフレーズを面白がり、いくつか覚えた人も少なくないのだとか。
この町の住人は気さくで親切な人が多く、見なれない服装の日本人を見つけたら、手を差し伸べたがるのだという。
ちなみにここでは日本人を【異世界人】と呼び、自分たちを【大地人】と呼んでいるそうだ。
立派な城壁が見えてきた。
城壁の門が開く。
馬車はそのまま門を潜っていった。
広大な庭が遠くまで広がっている。
「こんなところに連れてきて、俺をどうするつもりなんだ」
「毎日おいしい食事が与えられます。快適な寝床も提供されます」
彼女の言葉、そのまま信じていいのだろうか。
「ここが異世界人収容所なんてことは?」
「ありえません。むしろ天国のようなところだと思います」
天国のような? まあ、圜子のいない世界ならば、それだけでじゅうぶん天国かもしれないな。
城壁内の広大な庭を馬車が進む。
人々の姿が見えてきた。
「本日さまよっていたところを救助されてきた異世界人の皆さんです」
日本人っぽい容姿の者たちがたくさんいた。
皆、日本人だろうか? もしそうなら仲間ができたようで心強い。
そうであってくれ……。
異世界での生活が始まります。
悪妻は後ほど再登場します。