1 プロローグ(異世界転移前)
電車に揺られながら、なんとなく窓外を眺めていた。
忘れていた懐かしい景色に、幼少時の記憶が蘇ってきた……。
脳裏に浮かんだのは、ある少女の顔。
あのころ俺は十歳。たぶん彼女も同じぐらいだったのではなろうか。真っ直ぐな長い髪、白い肌、大きな目が特徴で、片手にはいつも人形を抱いていた。しかしウチの学校で、彼女を見かけることはなかった。
俺たちの出会った場所は、樹木に囲まれた小川の畔。その下流にある公園の池が、二人の主な遊び場だった。
ある日、池の前で彼女に「コイン投げやってみない?」と誘った。
池にはちょっとした言い伝えがあった。二人で池にコインを投げ入れれば、生涯一緒に暮らすことになる、というものだ。
言い伝えを知ったのは前日だった。学校帰りの女子中学生たちが、そんな話で盛りあがっているのを偶然耳にしたのだ。帰宅後、母にそれとなく尋ねてみると、言い伝えは確かに昔からあったそうだ。母からは「好きな子でもできた?」なんて冷やかされた。俺は全力で否定した。
言い伝えのことは、少女に黙っていた。
彼女はコイン投げを誘われると、小首をかしげた。
「わたしと結婚したいの?」
ハッとした。
彼女は言い伝えを知っていたのだ。
しまった。どうしよう。顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。頭の中は大パニック。全身から噴きだす汗を感じた。
慌てて首を横に振った。
「違うっ。ただ、コインを投げたかっただけだよ。結婚ってなんのこと?」
「この池の伝説よ。一緒にコインを投げた二人は、生涯の伴侶となるって」
「へえ、伝説? そんな話があったの? 知らなかったなあ」
とぼけてやり過ごすしかなかった。
彼女が俺の顔を覗く。
「二人で投げてみる?」
思わぬ返しがきた。
俺は心臓をバクバクさせながら、今度も首を左右させた。
「な、投げない……」
「それがいいわ。あなたのためにはね」
このあと逃げるように帰った。用事を思い出したと言って。
翌日、公園の池には行かなかった。というよりも行けなかった。少女の前でシラを切ってみせたものの、コイン投げの意図がバレていたのではないか、という不安でいっぱいだったからだ。少女と顔を合わすのが怖かった。
公園の池へ遊びにいく気になったのは、一週間も経ってのことだった。
それから間もなくして、父の転勤で引っ越すことになった。
成長するにつれ、少女のことを思い出さなくなった。
彼女の名前も覚えていない。
俺は成人し、就職し、職場の同僚と結婚した。
~~ 昨晩のこと ~~
「今回の件だけど、百五十万でいいかしら?」
妻が不満そうに口角をぎゅっと下げている。実際、不満があるのは俺の方だ。離婚は決定事項だが、不倫の慰謝料として足りるものか。そんな金額では納得できない。
結婚生活を約二十年も続けているからという訳でもないが、妻のことはよく知っている。あの仏頂面は彼女なりの作戦だ。怒りを顔に出していれば、俺が大人しくすると思い込んでいる。
今回もそうだとは思うなよ。
いままでは娘のために妻の浮気を許してきた。
だが娘はもう子供じゃない。これ以上我慢なんてするものか。
「百五十万じゃ少なすぎる。それに慰謝料はこれまでの分も合わせてもらう」
俺の把握している限りで、妻の不倫は四回。
一回を二百万として、八百万は取ってやろう。
「何を言ってるの? 不倫は発覚してから三年で時効よ」
な……なんと。
本当なのか?
「それについては、のちほど確認するとしよう。あと苺香の親権のことだが」
「親権? 馬鹿じゃないの。苺香は二十一歳だし、昨年社会人になったでしょ」
そうだった。頭の中が混乱していた。
「言葉を間違えた。この家で苺香と二人で暮らす。お前は一人で出ていけ」
すると居間の戸が開いた。娘の苺香が顔を出す。
「イヤよ。あたし、お母さんと暮らす。お母さんの子だもん」
まあ、そう言うだろうとは思っていた。
苺香は中学のときまでは俺にベッタリだったが、高校の途中くらいからすっかり『お父さん嫌い』に変わってしまったのだ。娘というものは、年頃になるとそんなものなのかもしれない。
だが家庭を壊したのは、母・圜子の方だぞ?
「苺香はお父さんの子でもあるじゃないか」
苺香は眉根を寄せた。母の圜子を一瞥する。
「お母さん、まだ言ってなかったの? あたしがお父さんの子じゃないって」
はあ? 意味がわからない。
俺の子じゃないとは、どういうことだ。
「こんなときに、なんの冗談だ」
「あたしの血液型はA。お父さんはO型でしょ」
「それがどうした」
別に矛盾はないし、珍しいことでもあるまい。
苺香は腰に手を当て、こっちに顔を突き出した。
「ありえると思う? O型同士の親からA型の子は生まれないの」
「おいおい、何を言うか。お母さんはAだぞ」
大きく首を横に振る苺香。
「まだ知らなかったみたいね。いい? お母さんはO型なの。あたしの実のお父さんがA型」
どういうことだ? 実のってなんだ。
それに圜子はA型だろ。俺はそう聞かされてきたぞ。
あっ、そうか。つまり……。
圜子はずっと嘘をついてきたのか。
なるほど。苺香が不倫でできた子なのを隠すため、自分の血液型を相手の男のA型だと偽っていた、というわけか。いままで俺は疑いもしなかった。
俺は騙され続けてきたわけか。最悪だ。違う男の子供ために、カネを出し、時間を割き、愛情を注ぎ、自分を犠牲にし、人生を捧げていた。本当に馬鹿みたいじゃないか。俺は単なる金づるだった。
ああ、俗に言う托卵とはこのことか。
妻の浮気については、いまさら感すらある。かなり前から夫婦としては冷え切っていた。だからそんなものは、もはや大した問題ではない。
ただ、苺香と血が繋がっていなかったというのは……。
さながら後頭部を巨大なハンマーで殴られたような気分だ。
落ち込むとか、そんな生易しいものではない。絶望を遥かに超えている。
たとえ仮に本当に嫌われようと、可愛い可愛い可愛い娘のはずだった。
どれだけ仕事がキツかろうが、どれだけ病気や怪我で苦しもうが、どれだけ圜子に悩まされようが、どれだけ心が疲弊していようが、娘のためならばとことん頑張れてこれたのだ。
この先、何を励みに生きていけばいいんだよ。
泣きたい気分だ。
トイレに行く。
一人、頭を抱えた。
俺は圜子に人生をボロボロにさせられた。
どうしてどうしてこうなった。
俺の人生を返せ。返してくれ。
せめて圜子に一矢報いてやりたい。
トイレから出た。
不倫は発覚してから三年経てば時効だったよな。
しかし苺香の実父については、いま知ったばかりだ。
どうだ。これなら時効にはなるまい。
「あなた本当に無知ね。不倫を知らなかったとしても、二十年経てば時効なのよ」
圜子の一言に絶句した。
~~ ふたたび今日に戻る ~~
こんな状況でも会社には行かなければならなかった。
だが出社してみるとミスや失敗の連続。仕事にならなかった。
午後は一時間程度仕事したのち、半休を取らせてもらった。
職場から自宅までの間に、十歳まで過ごした町があった。
まさしく、この駅からすぐのところだ。
ふと気づけば、電車を途中下車していた。
向かった場所は公園の池だった。
池で遊ぶ水鳥。小さなアーチ橋。おしゃれな欄干。
ぜんぶ昔のままだ。なんて懐かしいのだろう。
もしあのとき、この池にコインを投げていたら……。
馬鹿馬鹿しい。何を考えているんだ、俺は。
池畔のベンチに腰を掛ける。
溜息をつき、うなだれた。
「おひさしぶり」
「!?」
誰かが声をかけてきたようだ。
頭をあげてみる。
正面には人形を持った少女がいた。
まさか。嘘……だろ?
子供の頃によく一緒に遊んだ子。
記憶の中の彼女と瓜二つだ。
しかし彼女であるわけがない。
なぜなら眼前にいるのは、あの頃のままの少女だからだ。
彼女は俺と同じく四十代後半になっているはず。
そう。この少女は単に似ているだけだ。
しかしどういうことだ。おひさしぶりって。
「キミはいったい……」
少女の視線が俺の左手薬指に。
「幸せになれたのね」
離婚はもう確定していた。
しかしまだ指輪をはめたままだった。
「もうすぐ外すんだ」
何故、俺は見知らぬ少女に正直に答えたのだろう。
見知らぬ少女……だよな? どう考えても。
「外すって、わたしと結ばれたいから?」
少女も少女だ。いきなり何を言い出すのだ。
「ハハハ。もう結婚なんて懲り懲りだ」
またもや正直に答えてしまった。
少女は微笑を浮かべた瞬間、逆に表情を強張らせた。
「……来る!」
彼女はどうしたのだ? 何が来るのだ?
公園の鳥は鳴きながら、いっせいに飛び立った。
池の魚がピチャピチャと水面を跳ねる。
地面はゴゴゴと音を立てて揺れた。
これまで経験したことのないような強風が吹き荒れた。
不思議なことに、突如として空が暗くなった。
ここから異世界へと転移していきます。