過去と後悔と
曳汐 煇羽
「ご馳走様でした」
オシャレな猫足テーブルの上に出された、試作品のデザートを一品食べ終えた曳汐は、両手を合わせながら言った
荒兎
「もう良いんですか?もしかして…お口に合いませんでした」
曳汐 煇羽
「いえ、茶色くて泥の様な液体が掛かったお菓子、ほろ苦くて、とても美味しかったです」
全く美味しさを感じさせない感想だったが、荒兎は嬉しそうに笑った
荒兎
「ふふっ、コーヒーショコラのパイ包みですよ。畔が考えたんです!凄いでしょ」
荒兎と畔は店でも有名な、大の親友だった。だからか、荒兎は畔の考案したデザートを褒められて、自分の事のように喜んだ
曳汐煇羽
「そろそろ雲行きが怪しくなって来たので、雨が降る前に帰ります。では…」
そう言うと曳汐は静かに席を立ち、振り返り紾の顔を見る
曳汐 煇羽
「蔡茌さん、また後ほど」
蔡茌 紾
「俺もそろそろ帰るよ、途中まで送ってーー」
曳汐 煇羽
「その必要はありません」
それだけ言うと、曳汐は扉を押し外へ出た
杉野千 杏果
「先輩、嫌われてたり!なんちゃって」
蔡茌 紾
「……やっぱり、そうなのか…」
杉野千の冗談すらまともに受け止めてしまう
杉野千 杏果
「やだなぁ、冗談ですってば。あっ!曳汐さん忘れ物してる、私届けに行ってきます」
急に立ち上がると、杉野千は後を追うように、店を出た
蔡茌 紾
「どうしたんだ、いきなり」
荒兎
「杏果さん、何も持ってなかったですけど…」
蔡茌 紾
「忘れ物を忘れたのか、全く杉野千らしいな」
言いながら、曳汐が座っていた場所を見るが、そこには何も無かった。不思議に思いながらも、地面に落ちているのかと、下を見るが何か落ちている形跡はない
蔡茌 紾
「ん?何を忘れたんだ?」
当たりをキョロキョロとしている紾に、荒兎は何かを思いつき声を上げた
荒兎
「あっ!分かっちゃいました私!」
蔡茌 紾
「な、なにを」
荒兎の勢いに気圧されてしまう
荒兎
「忘れ物は嘘で、きっと二人っきりでお話したかったんです!」
蔡茌 紾
「なる…ほど?と言っても、さっき会ったばかりだし、一体何を…連絡先の交換とか?」
自身の中で思いつく限りの可能性を口にした紾に、荒兎と試作品のデザートを運んで来た畔の二人は、同時にため息をついた
荒兎
「はぁ。そんな訳ないじゃ無いですか!もう、鈍過ぎますよ」
蔡茌 紾
「えぇ〜」
畔
「前同僚と今同僚が揃ったんだぞ、話の内容は一つしかないだろう」
蔡茌 紾
「前同僚と今同僚って…彼女じゃないんだから」
バンッ
蔡茌 紾
「うわっ?!」
いきなり、テーブルを叩いた荒兎に、紾は文字通り驚く
荒兎
「同じ事です!!きっと今頃、あなたの事で大揉めしてますよ!」
一体、その自信はどこから来るのかと思ったが、とてもじゃないが軽口を叩ける雰囲気じゃないのは、鈍感な紾でも分かった
ーーー ーーー ーーー ーーー
その頃
曳汐は杉野千に呼び止められていた
曳汐 煇羽
「はい?」
肩で息をしている杉野千に、どうして必死になって自分を追って来たのか分からず、曳汐は首を傾げる
杉野千はと言うと、そんな曳汐に構わず、彼女の目の前まで足を進め、二人の距離は拳一つ分となる
杉野千 杏果
「お話があるんです!お時間いただけませんでしょうか」
緊張している事を悟られない様に、口早に言う
曳汐 煇羽
「構いませんが、どう言ったご用件でしょう」
予想外の展開に曳汐は、取り敢えず話を聞く事に…
杉野千 杏果
「蔡茌先輩は、どんな感じでしょうか!そのっ、ちゃんと警察官として働けてますか?」
唐突に投げかけられた質問は、紾の事についての事で、曳汐は悩む事なく返事を返す
曳汐 煇羽
「はい。問題なく、日々責務を全うしてるかと」
返された言葉に安心したのか、杉野千はホッと胸を撫で下ろす
杉野千 杏果
「良かったぁ〜先輩疲れた顔してたから、てっきり何かあったって思って…ほら、すっごく真面目で優しいから、完全に良い人でしょ。それで恨みを持たれたりとか、人間関係こじれちゃってるのかと…」
曳汐 煇羽
(当たらずも遠からずって所かも)
異常調査部内では、一般的過ぎて浮いてるし、この間の一件以来、警察内での恨みを買っているしで、人間関係がこじれた所ではないだろう
杉野千 杏果
「それに…警察辞めちゃうのかもって、怖くて…」
曳汐 煇羽
「蔡茌さんがですか?」
辞めるとしても、部署を去るだけで警察官という職まで辞めるとは思えない。と、言うのが今の曳汐の正直な感想だった
曳汐 煇羽
「それは、蔡茌さん次第だと思いますが…どうしてまたその様な考えになったんでしょうか」
過去の事を思い出し、杉野千は泣きそうになるのを必死に堪えた
杉野千 杏果
「私の所為なの…先輩が移動しちゃったの、私が先輩から警察の全てを奪ったから…」
彼女の悲しみに同調するかのように、ポツリポツリと雨が降ってくる
杉野千は、自分の懺悔を聞いてもらうかのように、ゆっくりと話しだした…
ーーー6年前ーーー
蔡茌 紾交番勤務時代
警察学校を卒業し、配属された小さな町の交番勤務での仕事も慣れて来た頃、夜道に出る変質者の噂が流れていた
その噂と言うのが、男女関係なく若い子を狙い近づくと、その子の靴を脱がし奪い去る…と言うものだった
なんの冗談だと、先輩警官が笑い飛ばす中、1つの被害届により、噂はただの噂ではなくなった
1ヶ月前に配属されて来た杉野千は、奇妙な事件に前のめりで調査をしていた
杉野千 杏果
「妙ですね、被害者は沢山いる筈なのに…被害届は一件しかないなんて、先輩達はどう思います?」
仕事帰り、張り切っている杉野千を労う為に馴染みの居酒屋へと寄った。
頼んだ料理が運ばれてくる中、彼女は仕事の話を切り出した
蔡茌 紾
「俺も同じ事を考えていたよ。被害者の話だと、あまりにも一瞬で犯人の顔や姿も覚えてないって、恐怖のせいもあるだろうけど、それにしても何か一つぐらい覚えていてもいい気もするな」
杉野千 杏果
「そうなんですよねー、襲われた場所も夜は人通りが少ないけど街灯はあったし、靴を脱がせるのだって一瞬じゃ出来ない筈なんです」
蔡茌 紾
「姿を隠す為に覆面をしていた。とかなら納得なんだけどな」
杉野千 杏果
「勿論、私も考えましたよ。全身黒ずくめだとか…だとしたら、被害者もそう言う筈なんです!でも実際は"覚えてない"の一点張り…むむー、分かりません。どう言う事なのー」
キャパシティがオーバーした杉野千は、頭を抱えながら唸り叫ぶ
世瀬 芯也
「もういいだろ、迷宮入りの話はその辺で終わらせて、思いっきり呑もうぜ。ったく、仕事人間はこれだから困るな、新人もっと肩の力抜け」
今まで黙って2人の会話を聞いていた世瀬が口を挟む。そんな彼に対して、杉野千は口をへの字に曲げた
杉野千 杏果
「世瀬先輩!まだ、迷宮入りしてませんから!こんな小さな平和な町に巣食う変態は、懲らしめないと気がすみません!」
世瀬 芯也
「いや〜、新人特有の熱血ぶりだ。よっ!新人名物!」
1人でにお酒を飲んでいた所為か、世瀬は頬を赤く染めている
杉野千 杏果
「嘘っ、もう酔っ払ってる…ちょっと蔡茌先輩も、この能天気に何か言って下さい!」
世瀬 芯也
「能天気って、はははっ、お前よく俺に向かって言えたな。能天気担当はこっちの堅物だよ!なっ!」
紾の肩を軽く叩いたが、反応が返ってこない事に、言い争っていた2人は顔を見合わせた
杉野千 杏果
「先輩?…蔡茌先輩!蔡茌紾先輩!」
難しい顔をしたまま固まっていた、紾の耳元で、杉野千は名前を呼ぶ
蔡茌 紾
「?!、いきなりどうした」
流石に気づいた紾が、ビクッと驚く中、世瀬はある可能性に気がつく
杉野千 杏果
「どうしたじゃありませんよ、先輩こそいきなりボーっとしちゃって、どうかしたんですか?」
蔡茌 紾
「いや、さっき杉野千が言ったことが気になって…」
杉野千 杏果
「私、何か言いましたっけ?」
蔡茌 紾
「ほら、小さな平和な町って…なんだか引っかかるんだよ…もう少しで分かる気がするんだけど…」
何度も唸る紾に、世瀬は彼の背中に氷を1つ入れた
蔡茌 紾
「つっ?!冷たっ!世瀬、何したんだ!」
ゾクリとした感触に、紾の思考は中断されてしまう
杉野千 杏果
「もう、なに子供みたいな事してるんですか」
世瀬 芯也
「はははっ、いつまでも辛気臭い顔してるお前らが悪い、いいから呑め呑め!」
話を逸らす様に世瀬は、2人のジョッキに瓶の中身を注いだ
杉野千 杏果
「まぁ、確かに…分かんない事は仕方ないですもんね!よし、明日の仕事に備えて呑みましょう」
蔡茌 紾
「杉野千、その言葉少し変じゃないか?」
杉野千 杏果
「先輩細かいことはいいの、いいの!ほら、呑んで呑んで」
いつもの様に、騒がしく呑む2人に内心ホッとする
世瀬はこの事件の犯人を知っていた。もちろん、交番内でも何人か勘づいている者もいるだろう…杉野千は新人だから気づかなくて当然だが、紾に何の情報もないのは、彼が真面目すぎるが故、世瀬があえてそう仕向けていた
小さな町で起こった不可解な事件…町の住人ならいざ知らず、ずっと町を守っている警察官なら犯人像は直ぐに浮かんでもおかしくはない…
そう。この町の住人の事をだいたい把握している筈の、警察官が何も分からないこの状況自体が、おかしいのだ。紾もさっき、この事に気づきかけた
世瀬 芯也
(犯人は市長の馬鹿息子…しかも、無駄にモテ囃されてるな。そんな奴捕まえたって、どうにもならねんだよ)
逮捕した所で直ぐに、釈放されるのは目に見えている。きっと被害者達もそう思ったんだろう、調べてみると全員が息子と関連性を持っていた。正体が分かってしまえば、誰もが靴の一足や二足諦めて当然だった
最悪の場合、逮捕した事で市長の怒りを買いかねない…そんな綱渡り、世瀬を含む誰もがしたくはないのが本音だろう
世瀬 芯也
(お前らは、汚い大人の正義なんて知らなくて良い)
結局、その日は世瀬の邪魔もあり、事件に関して、何一つ掴めないままだった
だが、本当の事件はここから起こる…
その日、杉野千と紾は夜勤と言う事もあり、いつも以上に警戒を強めていた
丁度、紾が夜道に不審者が居ないか見回っていた頃、交番に残っていた杉野千の元に見知った顔の青年が訪問してきた
杉野千 杏果
「高田君、また来たの」
高田
「うん…どうしても、取られた靴が気になって」
彼は被害者の中で唯一、被害届を出した人物…高田だった
杉野千 杏果
「気持ちは分かるけど、狙われた時間帯にウロウロするのは感心しないよ!送って行くから、帰ろう…大丈夫私が必ず取り返してあげるから!」
杉野千がこの事件に肩入れするのは、彼の存在が大きかった。お小遣いを貯めて買った新品の靴を取られ、高田はとても悔しがっていた
犯人なんてどうでも良いから、彼の願いは靴を返して欲しい…それだけだ
杉野千 杏果
(私の親もお金にはシビアだったからなぁ、必死に貯めて欲しいもの買った時の喜びは今でも覚えてるよ…なんとしても取り返してあげないと)
痛いほど高田の気持ちが分かる杉野千だったが、彼女は人間の残酷さを理解していなかった
高田はこの時、心の底から笑っていたに違いないだろう。簡単に騙され、思い通りに動く人間を見て、自分が神にでもなったかのように、錯覚していたのかもしれない…
でなければ、同級生の市長の息子…永谷と共謀し警察を騙ます遊びなど考えつく筈もない
被害届を出した事で、警察がどこまで権力者に立ち向かうのか…そんな実験めいた遊びを思いついた高田達は、事件が一向に進展しない事に苛立っていた
自分達は誰にも相手にされていない。町の住人や警察からそう言われている様な気がして、2人はターゲットを警察から、親身になってくれる杉野千へと変更したのだった
彼らの計画は、杉野千に被害者になってもらう事。市長の息子の犯行だと知った彼女は、警察官として逮捕するのか、それとも市長の息子と言う肩書きに負け、見逃すのか…
好奇心だけの動機を持ち、高田は送ってもらう振りをしながら、予め永谷と予定していた場所まで、杉野千を誘い込んだ
背後から気づかれない様に、そっと近づく永谷…杉野千の靴を奪おうとした、その時だった
蔡茌 紾
「杉野千?!後ろに誰かいるぞ」
たまたま見回りで通りかかった紾が叫び、直ぐに永谷を取り押さえた
永谷
「は、はなせっ、くそ!」
予想だにしていなかった展開に2人は混乱し、上着を上手く脱いだ事で、紾の拘束から逃れた永谷は捕まらないよう逃げた
杉野千は、何が何だか分からないまま高田を庇う様に立っており、案の定逃げるのに必死な永谷に突き飛ばされてしまう
蔡茌 紾
「杉野千!大丈夫か」
直ぐに彼女の側に寄る紾に、杉野千は言う
杉野千 杏果
「先輩!何してるんですか、早く追って下さい!私は大丈夫ですから!ね!」
蔡茌 紾
「分かった、彼を頼んだ」
力強く言われ、紾は永谷の後を追いかけた。暗がりとは言え、町の地理が完璧に頭の中に入っている紾は、どう言った場所へ逃げ込むのか簡単に予想できる
彼が永谷を捕まえるのには、そう時間は掛からないだろう…
残された杉野千は、明らかに動揺し混乱している高田を落ち着かせようとしたが、突き飛ばされた衝撃で足を挫いてしまい、上手く立ち上がれなかった
杉野千 杏果
「いたた…ツイてないなぁ、私。でも、高田君が無事で良かった、安心して蔡茌先輩が直ぐに捕まえてくれるから!頼りになる先輩なんだよ」
高田
「こんな、筈じゃ…ど、どうしよう」
杉野千 杏果
「高田君?どうしたの?怖くないから安心して」
まさか高田と永谷が共犯だとは、夢にも思っていない杉野千は逆効果だとは知らず、全力で彼に優しい言葉を投げかける
だが、高田の頭の中は、逮捕されてしまう事への焦りだけしかない…もし、自分が共犯だとバレてしまえば、永谷は釈放されるが、自分はどうだろう…そんな負の感情が彼を支配していた
高田
「に、逃げなきゃ」
1秒でも速く、ここから逃げ出したい高田は震える足を動かした。だが、気が動転したのだと勘違いした杉野千が、痛む足を引きづりながら彼を追いかけ肩を掴んだ
杉野千 杏果
「落ち着いて、ほら!深呼吸しよ」
高田
「は、は、離せっ!」
精一杯の力で高田は杉野千を突き飛ばした…
杉野千 杏果
「え…」
暗がりのせいで、どちらも気づけなかった。突き飛ばした先に地面がない事に…杉野千は、そのまま川に落下してしまった
バシャンと、生々しく人が落ちる音だけが辺りを包んだ
高田
「あ、あぁ…あ、あぁあぁあぁ」
高田は誰かを傷つける気なんてなかった。ただ、退屈な日常に刺激が欲しかっただけだ
子供に目を向けない寂しい家庭で育ち、同じ境遇の永谷と出会った
高田も永谷も、まさか自分達の遊びが、こんな結果を招くとは思っていなかった