発端
警視庁・捜査一課長である隅田は、娘の交通事故をきっかけに、その人生を歪めてしまった
幼い頃に失った家族に、生まれてくる事すら許されなかった子供…その絶望的な悲しみの連鎖が隅田の心を少しずつ蝕んでいったのだろう
茂望含め、捜査一課の仲間たちも薄々と彼の闇に気づいていた。だが、誰一人として止める者は居なかったーーいや、彼が失ったものを考えれば、止められるはずもなかったのかもしれない
隅田の生きる希望とも言える娘が、彼が最も忌み嫌う不良によって、奪われたのだから…
皐月 周
「……」
先程痛めた足を手当てした皐月は、出されたお茶を飲みながら、今回の事件について考えていた。それは紾も同じで、二人の間に物悲しい空気が漂っている
もし、何かが違えば隅田は道を違えなかったかもしれないと、考えても仕方がない事ばかり思い浮かんでしまう
蔡茌 紾
(皐月君は、辛いだろうな。信じていた人が犯人側になってしまったんだから)
紾が寝ている間に、立てこもりについては、世間に報道されており現在、隅田は事件について取り調べを受けているる最中だった
詳細が分かり次第、記者会見を開き報道されるだろう。その準備で警視庁内は殺伐としている
今回の事件が警視庁にとって、どれほどの影響を及ぼすかはまだ分からないが、少なくともいい影響を及ぼす事はまず無いだろう
皐月 周
「これから、どうなるんでしょうか」
"誰が"とは聞かなくても、その表情から読み取れてしまう
蔡茌 紾
「きっと大丈夫だよ。罪を償ってちゃんと前へと進んでくれる」
本音とは言え、なんの根拠もない気休め程度の言葉しか掛けられず、それでも紾は少しでも落ち込む皐月の気が晴れてくれたらと思った
皐月 周
「えぇ、そうですね」
まだ心に引っ掛かりがあるものの、皐月も落ち込んでばかりもいられないと、紾の言葉に頷いた
そんな二人の様子を横目で見ていた黎ヰは、暗い空気を壊すように口を開いた
黎ヰ
「その話なんだけど、重要な部分が欠けてんだよな〜」
蔡茌 紾
「何の事だ?」
隅田が逮捕されたいま、全てが終わったと思っていた紾は、唐突に発せられた黎ヰの言葉に反応した
黎ヰ
「この事件で警察に出来る事はもう無いが、関わった以上知っときたい事実ってのは、あんだろぉ?」
蔡茌 紾
「事実って、一体…」
皐月 周
「まだ、何かあるんですか」
一日で充分すぎるほどの悲劇を、目の当たりにした二人は、この他に何があるのかと内心身構えた
黎ヰ
「そもそも論。今回の事件の始まりは?」
そう聞かれ、ふと思い返した紾が、真っ先に浮かんできたのは、穢佇達と初めて会った時だった
蔡茌 紾
「穢佇君達の逮捕だよな」
皐月 周
「僕もそう思います。偶然に居合わせた彼らを、補導しようとしたところに、隅田さん達が来て逮捕を…」
穢佇と隅田は、お互いが目的の為に協力しているだけに過ぎず、もし穢佇側の落ち度でこの協力関係が露見するような事があれば、逮捕するように計画していた
黎ヰ
「いーや、穢佇達が捕まるきっかけになったのは?誰が最初に逮捕された?」
皐月 周
「えっと…」
蔡茌 紾
「確か」
彼らが答えを導き出す前に、部屋のドアから二人の人間が入ってきた。彼女は話が聞こえていたのか、歩きながら黎ヰの質問に答えた
曳汐 煇羽
「影上さん。私と蔡茌さんが捕まえた方ですよね」
黎ヰ
「正解♪」
ニヤリと笑いながら、曳汐の方を見た黎ヰは、昨日見た事がある人物がいる事に気づく
曳汐 煇羽
「こちらは、蔡茌さんの後輩さんで杉野千さんです。なんでも蔡茌さんに伝えたい事があったらしく、警視庁の前にいらっしゃったところを、お連れしました」
杉野千 杏果
「えっと、いきなりすみません」
遠慮がちに、曳汐の背から出てくる彼女に、紾と皐月は驚いた
蔡茌 紾
「杉野千?!一体、どうして」
杉野千 杏果
「先輩!無事だったんですね、良かった!」
紾の顔を見るなり、杉野千は慌てて駆け寄ると、口早に喋り出した
杉野千 杏果
「電話しても全然繋がらないって思ったら、双葉医院で立てこもり事件ってテレビで見て、もしかしたら先輩も巻き込まれてるんじゃって思ったんですよ!」
蔡茌 紾
「わ、分かったから、落ち着いてくれ」
勢いのままに喋る杉野千を、紾は落ち着かせようとする
杉野千 杏果
「落ち着いてられません!すっごく心配したんですから……本当に、無事で良かった」
涙ぐむ杉野千を見て、身を案じてくれていたのだと、申し訳ない気持ちになった
咄嗟に紾は、謝罪の言葉を口にしそうになったが、黎ヰと目が合い言葉を変えた
蔡茌 紾
「心配してくれて、ありがとう」
杉野千 杏果
「はい!」
無邪気に笑う杉野千に、少し恥ずかしくなった紾は、苦笑しながら頭を掻いた
その様子を眺めながら、黎ヰは数時間前の皐月とのやり取りを、頭によぎらせていた
黎ヰ
(紾ちゃんが倒れた後、引くぐらい取り乱してたからなぁ〜)
紾が倒れた直ぐ後に、現場に到着したSATが突撃して来た
その時には、既に隅田は黎ヰによって拘束されており、彼の身柄を抑えた後、安否確認をするSAT達に皐月は、まともに答えず紾が死んだと大慌てで、彼を止めるのにも一苦労だった
黎ヰ
(紾ちゃんの周りは、紾ちゃんを大切に思う事が出来る人間ばっかで、ちょっと安心した)
黎ヰは、どんなに苦しい状態だとしても、大切に思ってくれる彼らが居てくれるなら、紾は大丈夫だろうと思った
曳汐 煇羽
「黎ヰさんの仰る通りでした」
曳汐の声で、黎ヰは事件の話だと、直ぐに思考を切り替えた
黎ヰ
「って事は、写真に映ってた所持品の全部は、隅田冬葵の物だったんだな」
曳汐 煇羽
「はい。奥様に確認してきたので、まず間違いないかと」
曳汐に頼んでいた調査の結果が、思った通りで黎ヰはニヤリと笑った
黎ヰ
「調査あんがと」
二人の会話が聞こえていた、紾達は息を呑んだ
蔡茌 紾
「ちょ、ちょっと待ってくれ、何の話をしてるんだ」
杉野千 杏果
「冬葵さんの所持品って、何の事なんですか!」
皐月 周
「貴方達は、何を知ってるんですか」
一斉に質問を投げかけられた黎ヰは、似たような反応をする三人が面白く、笑いながら答えた
黎ヰ
「クククク…三者三様ってよりは、三者同様の反応だねぇ〜。さっき曳汐が言ってたろ、穢佇達が逮捕されるきっかけになり、今回の事件が始まった発端は影上だって」
答えをもらったはずなのに、まったく話が結び付かない三人は、黎ヰの話の続きを、黙って聞くしかなかった
黎ヰ
「紾ちゃん達も調査してて、疑問に思ってんじゃねーの。穢佇とグルになってた影上って、生徒の不可解な行動に」
昨日、隅田家から冬葵の私物を持ち去った影上は、その帰りに白昼堂々とナイフを振り回し、現場に居合わせた紾と曳汐によって、捕獲された
その事を黎ヰに説明され、顔を真っ青にした杉野千は、声を震わせた
杉野千 杏果
「嘘…昨日の、影上君だったの…そんな…」
杉野千もその場に居合わせていたが、影上が深く被った帽子で顔を隠していたのと、一瞬の事すぎて犯人が彼だという事に気づいていなかった
被害者が居なかった事と、捜査一課が身柄を直ぐに送検させてしまった事で、まだ細かい情報は一般には伏せられている
それは、隅田が自身との関係性を誤魔化す為、後から手を回し彼らの罪を偽装しようとしていたからだが、黎ヰの横槍が入った事で、その事もじきに明になってくるだろう
杉野千 杏果
「もしかして、影上君…ずっと辛かったのかも」
皐月 周
「確か、隅田さんの娘さん…冬葵ちゃんと仲が良いって、言ってましたね」
城音高校でした話を、覚えていた皐月に、杉野千は当初の目的を思い出す
杉野千 杏果
「そうだ…私、その事を伝えたくて来たんです」
紾との約束を守る為、杉野千はさりげなく生徒達から話を聞いていった
普段からの彼女への信頼が厚いお陰か、穢佇達が逮捕された事で不安になったせいもあってか、杉野千の知らない隅田冬葵を知る事が出来た
杉野千 杏果
「冬葵さんは、他校の新田君って男子生徒と付き合ってたらしいんです。新田君って言うのは、冬葵さんと交通事故にあってしまった子です」
蔡茌 紾
「それじゃあ、やっぱり二人は知り合いだったのか」
紾達が推理したように、新田は冬葵を深夜に無理矢理、車に連れ込んだ訳ではなかった
杉野千 杏果
「それが、冬葵さんは影上君とも仲が良くて…生徒達の話によれば、明るいうちはお父さんや教師達の目があるから、暗くなった時間帯でしか会えなかったって…」
杉野千はそのまま、生徒達から聞いた話を紾達へと伝える
冬葵は、そんな隠れたやり方を好まなかったが、半年前…新田が、動物を虐めていた大学生を殴り、学校を退学になった
その裏には、娘から遠ざけたい父の…隅田弦次郎の影があり、自分のせいで退学に追い込んでしまったと嘆いた
もし、真剣に交際しているとバレてしまえば、今度はどうなってしまうか分からない…きっと、少年院へ送るか街から追い出しかねない
そう思った冬葵は、大事な人を巻き込まない為に、自分の感情を押し殺すしかなかった。それでも彼女が、新田と別れなかったのは、きっといつかは父に認めてもらえると、信じていたからだ
杉野千 杏果
「影上君、昔は授業も受けてなくて、ほとんど不登校だったそうなんです。それが、冬葵さんと出会ってから、毎日学校に来るようになったって…変わったって生徒達が…」
冬葵は、施設育ちや前科がある人間に対して、偏見を持たずに接していた。そこには少し執念めいた…周りの大人達に対する反抗心のようなものがあった
「誰も私の事を見てない。皆んなが見てるのは、私の父の捜査一課長という肩書きだけ…私は、そんな大人にはなりたくない。人を肩書きや見た目で判断するようには…絶対ならない」と、冬葵がよく言っていた言葉だ
クラスの子達も、そんな冬葵だからこそ信頼し、彼女の不利になるような事は決して言わなかった
蔡茌 紾
「そうだったのか、隅田さんの娘さんは皆んなから慕われていたんだな」
杉野千 杏果
「もちろんです。そんな冬葵さんだったから…きっと影上君は…辛くて…忘れたくなかったんです…」
影上が冬葵に対し、恋愛感情を抱いていたかは不明だが、大切に思っていた事は確かだろうと、皐月は杉野千の言葉に同意した
皐月 周
「僕もそう思います。きっと彼は、現実を受け入れられなかったんじゃないでしょうか。思い出にしがみつきたくて、盗んでしまった」
杉野千 杏果
「でも、間違った事をしてるって、頭では分かってた筈なんです!だからこそ、自分の中にある矛盾に耐えられなくて…昨日、あんな事を…」
影上の行動について、話し合う三人に今まで黙っていた黎ヰが、首を振りながら言い放った
黎ヰ
「誰も"盗んだ"なんて言ってねーだろ?」
蔡茌 紾
「?でも、あれは盗品だったんじゃ…」
紾は確かに昨日、窃盗犯である影上を捕まえ、警察へと引き渡した
黎ヰ
「窃盗に関して言うなら、隅田冬葵の私物はそれに当てはまらない。今出揃った話を合わせれば、自ずとある事実が浮かび上がってくんだろぉ」
冬葵の私物を、影上が持っている事に重大な意味がある… なんとなく紾は、黎ヰにそう言われている気がした
蔡茌 紾
「盗んでないんだとしたら、誰かに渡された…とかか?いや、だとしたらどうなるんだ?」
黎ヰは手元でハサミをくるくる回しながら喋り出す
黎ヰ
「正直、ナイフを振り回してた事については、俺も不可解としか言いようがないが、どうして影上が隅田冬葵の私物を、持っていたかについては想像がつく」
穢佇の話と、曳汐が調べてくれた事により、黎ヰは一つの可能性を導き出していた
黎ヰ
「隅田冬葵は、とっくに目覚めてる」
その言葉は、紾達を驚愕させるには充分すぎた
ーーー ーーー ーーー ーーー
全ての発端は、冬葵と新田の交通事故…ではなく、父と娘との確執にあった
冬葵は、父である弦次郎が闇を抱えている事に気づいていた。過保護なまでの娘への執着に、親子を超えた過干渉…
父が普通ではないと思い始めたのは、高校に入ってからだった。中学までは父に心配を掛けないよう、真面目で素直な娘を演じてきた
その様に、同級生は憧れ大人は褒め称えた。冬葵自身、父の言う通りにしておけば、間違いも危険もないのだと思っていたーーいや、そう思い込んだ方が楽だったのかもしれない
父がかつて、失ってしまった家族と生まれて来れなかった子供…自分は、その代わりなんだと冬葵は自身に言い聞かせていた
そんな彼女が、城音高校に入学して数日、ある異変に気づく…それは、教師や保護者による生徒の優劣だった
もしそれが単に、成績や運動神経など個人の努力や歳月で培われていくものだったなら、冬葵も気にしていなかっただろう
だが、大人達の差別めいた偏見は、決して子供が選べない生まれや生い立ちに向いていた
それが、どうしても理解出来なかった冬葵は、父に相談し返ってきた言葉が「お前は、そんな連中と関わるな」だったのだ
血の繋がった親子だとしても、冬葵には父の言っている意味が分からなかった。だって、いくら考えても彼らと自分の違いが、何一つ見つからなかったから…
最初は関わるなと言った父への反発心から、不良達へと近づいていった。だけど彼女が、後ろ指をさされても自由に生きる彼らに、憧れを抱くのにそう時間は掛からなかった
不良と仲良くするにつれ、父が異常なまでの嫌悪感をぶつけてくる事に、彼女は耐えきれず苦しんだ。自分が間違ってるんだと、父を異常にしたのは自分なんだと心を閉ざそうとした
そんな時だった…雨の中、車に轢かれた子犬を抱きかかえながら、閉まってる動物病院のドアを叩く新田と出会ったのは…
もし、新田と出会わなければ、きっと冬葵は今も父の理想通りの子供を演じていたかもしれない
隅田 冬葵
(お父さん…ごめんなさい…)
新田と出会う前の夢を見ていた冬葵は、涙を流しながらそっと目を開けた
彼女は道の端に停めてある車の中に居た。大きめの毛布を被っていて、隣の運転席には新田が寝息をたてていた
隅田 冬葵
(私、なんで生きてるんだろう)
あの日、いつもの様に深夜に新田と車で出掛けていた。行き先なんて決めていなくても、ただ誰にも邪魔されない場所へ行ければ、何処でも良かった
冬葵は、新田が居てくれるだけで良かった。だから、あの時も新田が突然飛び出してきた猫を避ける為に、大きくハンドルを切りガードレールに衝突しても、恨んだりなんてしなかった
薄れゆく記憶の中、あぁ新田がやりそうな事だなっと思いながら、彼女は死を受け入れるかのように、目を閉じた
だが死は訪れず、仲違いしていた父の声で目覚めた。一生懸命に、自分に呼びかける父に「大丈夫だよ」と、安心させる為に精一杯笑った
そこで初めて、冬葵は父に恋人の事を理解して貰おうと、父なら絶対に分かってくれると心を改めたーーなのに、その期待は僅か数秒で裏切られてしまう
冬葵の側で、隅田は意識が朦朧としている新田に向かって、暴言の数々を吐いたのだ
彼女は決して、父とは分かり合えないんだと、絶望感に蝕まれた。何を言っても無駄だと…そう思わせるには充分過ぎる程の暴言を、隅田は浴びせたのだ
自分に近づいただけで、退学にまで追い込んだ父なら、どんな手を使ってでも引き離すに違いない。そうなれば一生、新田と離れ離れになってしまう
この時の冬葵は、それが何よりも怖かった。単に、恋人を想う気持ちだけではなく、このままずっと父の思い描く娘として、生きていかなければならない事への恐怖に、耐えられなかった
結ばれないなら、自由を失って生きていくなら、死んだも同然だ…なら、死んだ方がマシだ
だから……冬葵は、あの日病院で恋人と共に、命を絶とうと決断した
その方法として、真っ先に思い浮かんだのは、白石から奪い取った安楽死の薬だった。友達の自殺を止める為に奪った薬を、まさか飲む事になるとは思ってもみなかっただろう
薬を半分ずつに分けると、冬葵と新田は手を繋ぎながら、薬を飲み干した
隅田 冬葵
(心音が止まっていく感覚、今でも覚えてる)
冬葵は、心臓に手を当てて動いているのかを確かめた
隅田 冬葵
「やっぱり動いてる」
新田
「一度は止まった筈なのにさ、不思議なもんだよな」
いつの間にか目覚めていた新田は、不安そうにする冬葵の手をそっと握った
隅田 冬葵
「起きてたの」
新田
「まぁな。冬葵さ…昨日目覚めた時、最初に何て思った?」
薬を飲んで自殺をした筈なのに、二人は昨日、突然目を覚ました
状況が飲み込めないままだったが、生きているならと二人は病院を抜け出し、影上の協力で車を手に入れ、人通りのない場所へと移動した
新田
「俺はさ、あの猫元気にしてるかって、ぼんやり思った」
隅田 冬葵
「思いそうだね。私は……因果応報って思った。白石ちゃんには偉そうな事ばっかり言ってたのに…私が自殺を選んじゃったから、だから因果応報。神様が自由になる事を、許してくれなかったんだよ」
表情を暗くする冬葵に新田は、わざと明るく喋る
新田
「また、そうやって思いつめる。影上も言ってただろ、俺達は二人揃って植物状態だったって、なら最初から自殺は失敗だったって事だろ。因果応報でも神様のお告げでもないだろ」
彼のように楽観的に考えられない冬葵は、小さく頷きを返しただけだった
新田は意識が戻ってから、冬葵が一度も笑っていないのを知っていた。きっと色んな事が不安でたまらないのだろう
新田
「大丈夫だ、何とかなる」
言いながら、彼は優しく頭を撫でる
隅田 冬葵
「うん、そうだね。ありがとう」
いま、冬葵の心のよりどころは、間違いなく新田だ。この先、どんな困難な道だとしても、唯一恋人の存在だけが彼女を支えていた
しばらく、どちらも喋らないままに時間が過ぎていく
隅田 冬葵
「……そういえば、いま何時なんだろ」
病院から抜け出し、影上に荷物と銀行からお金を下ろして貰うよう頼んだ後、まだ体調が万全ではない二人は、そのまま眠ってしまっていた
新田も気になり、時間を確かめる為に車のエンジンを付けた
新田
「10時13分…って事は、一日経ってんのか」
隅田 冬葵
「ねぇ、影上君大丈夫かな。遅いよね」
今まで寝ていた二人が、世間のニュースなど知るよしもなく、確かめる術を持たない冬葵は、窓から外を見る
一瞬、人影らしきものが視界に入った
隅田 冬葵
「新田、誰かいる。多分だけど影上君じゃないと思う」
もしかしたら、父かその関係者が自分達を捕まえに来たのかもしれないと、冬葵は怯えた
慌てて、新田はバックミラーを傾け人影を探す。もし、見つかったとしてもエンジンをかけているのだから、最悪すぐに逃げれるだろう。そう思いながら、誰なのかを確認する
すると、冬葵の言う通り人影が確かに映った。距離があり顔までは分からないが、雰囲気は幼くオレンジ色の髪がやけに印象的だと、新田は思った
新田
「ガキか?迷子かなんかか?」
独り言として呟いたつもりだったが、急に車内で音がしたかと思ったらラジオが勝手につく。驚く前に、新田の疑問に対して返答が返ってくる
葩永 夏氷
「残念。オレは子供でも迷子でもないよ」
新田
「なっ?!ど、どうなってる」
新田は、直ぐにさっき見た人影を確認すると、位置は変わっていないが、口元に何か近づけて喋っているように見えた
新田
「なんで、ラジオから話しかけてくんだよ!」
隅田 冬葵
「わ、わかんないよ。でも捕まえに来たのかも」
情報屋として活躍する夏氷なら、車の回線をイジり無線代わりにするくらいは簡単だが、彼を知らない二人からすれば、どんなカラクリがあるのか見つけられないだろう
軽いパニックを起こす二人をよそに、夏氷は関係なく喋り出す
葩永 夏氷
「オレの事は、村人Nって認識が最適且つ無難。だから安心していいよ。これ以上距離を縮める気もないしね」
隅田 冬葵
「なに、あなたなんなの。お父さんの知り合いで、私達を捕まえに来たんじゃないの……?」
警戒はしつつも、言葉から滲み出る独特の雰囲気のせいだろうか、冬葵も新田も直ぐに逃げようとは思えなかった
葩永 夏氷
「その権利も権限も持たない、だから村人N。オレはただ伝言を伝えに来ただけ」
新田
「伝言って、俺たちにか?誰から、なんのだよ」
葩永 夏氷
「お節介な警察官から"他人を信じる勇気がある隅田冬葵なら、きっと身内も信じる事ができる"だってさ」
警察官と言う言葉が出てきた事で、新田は慌ててハンドルを握り、アクセルに足を掛けた
新田
「やっぱり、冬葵の親父に言われて捕まえに来たのかよっ」
隅田 冬葵
「待って!」
直ぐにでも、車を動かそうとする新田を、顔を青くした冬葵が慌てて止める
隅田 冬葵
「身内も信じる事が出来るって、私の…お父さんやお母さんに何かあったの?!」
妙な胸騒ぎに襲われる中、夏氷は自分から説明をするよりも、実際のニュースを聴かせた方が早いと思い、通常のラジオへと切り替えた
流れてきたのは、世間の話題の的になっているニュース【警視庁・捜査一課長の立てこもり事件】だった
警視庁の記者会見が開かれるまで、事件の詳細は曖昧だが、実行犯が隅田弦次郎ただ一人なのと、立てこもった場所が双葉医院だと知ると、冬葵には記者会見などなくとも、その目的が手に取るように分かった
隅田 冬葵
「…私達が飲んだ薬の出所を掴んで…白石ちゃんの方に…そんなっ、まさか…こんな事になるなんて」
新田
「落ち着け。大丈夫だ、幸い被害者は居ないってラジオでも言ってんだし」
自分が寝ている間に、父が人を殺そうとした。突きつけられた事実に冬葵は、新田の言葉を否定するように、首を横に振るった
隅田 冬葵
「そんな問題じゃないって、新田も分かってるでしょ!」
一体、どこで…どこから間違えてしまったのか。いくら考えても冬葵は、答えを出す事が出来なかった
父に追い詰められて、自殺を図った。でも何故か生きていて、父から逃れるように病院を抜け出した…彼女からすれば、ただそれだけの事だった
それが、まさか父が全てを捨て、人を…しかも自分の友達を殺そうとしたなんて、考えもしなかった
隅田 冬葵
「もう、取り返しがつかないんだよ。お父さんだけじゃなくて、私達も…」
新田
「だったら、このまま落ち着くまで身を隠せばいいだろ。元々、そうしようって決めてたんだ」
隅田 冬葵
「…あら、た…」
新田
「別に逃避行って訳じゃないだろ、お前のお袋さんだって、その方がいいって言ってくれてたろ」
影ながらに冬葵達の、味方をしてくれていた彼女の母親は、全てを知っていた。どうして冬葵達が自殺を図り生きていたのかも…
だが、その事については説明をしている時間がなく、とりあえず影上に、車の鍵と彼女の荷物を渡したのだった
だとしても、今の冬葵は素直にうなづけなかった。かと言って、今さら自分達が表に出て行っても、出来る事があるとは思えない
きっと、マスコミに追われるだろうし、学校だってどうなるか分からない。しばらくは辛い日々が続くかもしれない
いや、冬葵の中にある、一番の引き返せない理由は、自分のせいで罪を犯した父を見るのが怖かったからだ
新田もそれが分かるから、大切な彼女を守る為に世間の目から隠そうと、必死に説得をするのだろう
そんな二人のやり取りが、容易に想像できてしまう夏氷は、木を背にして立ち、車を見つめていた
葩永 夏氷
「オレが出来るのは、ここまで。あとは本人達の自由だしね」
ラジオのニュースに切り替えた時点で、車内の音はシャットアウトしている。だから夏氷がこれ以上、二人に関わる事はないだろう
元々彼は、黎ヰに頼まれた伝言を伝えに来ただけだ
一連の事件の内容を理解し、尚且つ二人の居場所を突き止め、無駄な介入をしない人物……となれば、きっと夏氷ぐらいしか居ないだろう
立てこもり事件の事情聴取のせいで、黎ヰも自由に行動出来ず、仕方なく夏氷に頼んだのだ。もちろん、その見返りもすでに約束している
このまま帰ってもいいのだが、二人の選択が気になった夏氷は、しばらくその場に留まる事に決めた
数分後、決断を下した冬葵達の車が真っ直ぐ走り出した
葩永 夏氷
(進行方向)
自宅へと帰るならUターンしないと戻れない。その事から、夏氷は二人の行き先を理解するーー帰らないと決断した事を
葩永 夏氷
(ロミオとジュリエットのように、愛と死を選んでも悲劇。かと言って、生きて肉親との縁を切るのも、ある種の悲劇だと、オレは思うけどね)
冬葵と新田をロミオとジュリエットに見立てた夏氷は、ふとそんな風に思った
もちろん、肉親に二度と会えない訳ではなないだろうが、少なくとも当たり前の日常とは、かけ離れてしまうだろう。もちろん、それが良いか悪いかは夏氷には分からない
来た道を戻ろうと、背を向けた時だった
キキーッ
背後から、ブレーキ音が鳴り響くと、歩く夏氷の横を車が通り過ぎた
一瞬だけ助手席に座っている冬葵が、頭を下げた様に見えた夏氷は、去りゆく車体へ向けて、少し顔を綻ばせたのだった




