2種類の痣
魔王とエレナリーゼを中心に、辺り一帯に突風が吹き荒れた。
エレナリーゼは目に当たる強い風に耐えられず反射的に目を閉じた。
しばらく目を閉じ続けていると肌に当たる風が弱くなった。目を開けるとそこはすでにエレナリーゼの知る街ではなくなっていた。
知らないものはそれだけではなかった。
嗅ぎ慣れない、鼻を覆いたくなるような臭いが辺りを漂っている。鉄のような臭い。おそらく血の臭いだ。
もしかすると魔王が転移魔法と呼ばれるものを使い、人間に襲われたという魔物達のいる場所に連れてこられたのかもしれない。
吐きたくなる臭いに耐えていると、魔王が掴んでいたエレナリーゼの腕を解放した。
「きゃっ!」
あまりにも突然だったため、吊られていたエレナリーゼは上手く着地できず勢いよくしりもちを着いた。
打ち付けたところが強く痛み、エレナリーゼの自分をみじめに思う気持ちも強まっていく。
そんなエレナリーゼの気持ちなど知らない、気に留めようともしない魔王は目の前に広がる光景を指差した。
「この者たちを治してみせよ」
魔王の言葉にエレナリーゼは顔を上げた。
周りにはエレナリーゼよりも体の小さい魔物達が虫の息になって床に横たわっている。
あまりの惨劇にエレナリーゼは手で思わず口を押えた。
「ひどい……」
「あの街の連中は攻撃の意思など持ち合わせていないこの者達を襲い、2体の命を奪った。報告ではやつらは狩りを楽しんでいるかのようだった、と。」
「そんな」
「この状況を見て貴様は俺が嘘を言っていると思うか?」
傷を負った魔物はどれも小さく、人間に襲い掛かることのできるような見た目はしていない。
しかも意識のある魔物の側にエレナリーゼが立つと、その魔物は威嚇することはなく、むしろ怯えはじめてしまった。
「いえ、思わないです」
エレナリーゼは近くにいる一番ひどく傷ついた魔物の側に寄った。魔物は苦痛でエレナリーゼの存在には気がついていないようだ。
か弱そうな生き物のこんな傷ついた姿を見せられて、心が痛まないはずはない。
「本当に貴様はこの者達の傷を癒せるのか?」
「たぶん……いえ、治せます。治して見せます!」
エレナリーゼは傷ついた魔物へ向き直ると、祈るように胸の前で手を組んだ。
するとエレナリーゼの体から白く輝く光が溢れ出し、その光は魔物の体を優しく包み込んだ。
魔王は目を見開いた。
「これは……」
魔王がぼそりと呟いたが、真剣に治そうとしているエレナリーゼの耳にその声は届いていなかった。
光りが魔物を包み込むとすぐに傷は治り始め、苦しそうだった魔物の呼吸は徐々に穏やかな呼吸へと変化した。
「驚いたな。まさか本当に実在するとは。お前、“天使の祝福”を受けた者だったのか」
全く聞き覚えのない言葉を聞き、エレナリーゼは訝し気に魔王の事を見上げた。
「“天使の祝福”?」
「お前、体のどこかに白い羽の痣があるだろう」
「はい……けど、それは“天使の祝福”なんてものじゃないと思います。これは“堕天使の呪い”と呼ばれるものです」
その言葉を聞いた瞬間、魔王は鼻で笑った。
「お前に対するあの者達の態度はそういう事か。お前達人間は大きな勘違いをしている。“堕天使の呪い”は白ではなく黒の羽の痣だ」
魔王が何を言っているのか、エレナリーゼには意味がわからなかった。
今まで自分と母親を苦しめてきたこの痣はただの勘違いだったというのか。けれど、勘違いではないという事は実際にあの街で証明されている。
街に降りかかる不幸事。自分の両親すらも連続する不幸事で失ってしまったのだ。
「で、でも実際に私が生まれてからはあの街に災いが。魔物に畑を荒らされたり、山崩れが頻繁に起こったり……」
「それはあの街に本当の“堕天使の呪い”を受けた者がいたからだ。それらの痣を持つ者同士は近くに生まれる。その程度で済んでいたのは“天使の祝福”を受けたお前があの街にいたからだ。そうでなければもっと大きな災いが降りかかっていただろう」
魔王は淡々と語った。
始めは魔王が嘘を語っていると思った。けれど、考えてみればこれから死にゆく相手に嘘を教える必要はないということに気付き、エレナリーゼの戸惑いは一層増していった。
「そんな……他に痣のある人が生まれたなんて話は一度も……それに黒い痣なんて聞いたことない」
「黒い羽の痣は生まれたときには発現していない。となると、これまでに先に生まれた“天使の祝福”を受けし者達は生まれてすぐに殺められ、“堕天使の呪い“を受けし者達は、呪いを相殺してくれる者がいないせいで、日に日に強まる自身にかけられた呪いに蝕まれ、痣が発言する前に命を落としてきたといったところだろう」
エレナリーゼの顔は真っ青になった。
もし魔王が言っていることが本当だとすると、本当の“呪い”を持つ人間があの街に残っているという事になる。それも呪いを弱体化させる相手がいなくなった状態でという事になる。
「それじゃあ、あの街は!」
走り出そうとしたところで、エレナリーゼは魔王に腕を掴まれた。
「どこへ行く気だ?」
「その話が本当なら私がいないと街の人達が!」
「行かせるわけがないだろう。これはお前自身も望んだことだ。死んだ魔物の報復対象は自分がなると」
「けど!」
言い返そうとしたところで魔王に冷ややかな瞳でにらまれ、出そうとしていた言葉は行き場を失った。
魔王は冷たい声で追い打ちをかけるように続けた。
「お前が一瞬あの街に行ったところで何にもならない。相殺できるのはお前がいる間だけ。差し出されたお前の命はすでに魔王である俺の物だ」
エレナリーゼは後悔した。
あの時無理にでもあの街に残れるように懇願していれば、もしかしたらこれから起こる災いから街を守れたかもしれない。
しかし、魔王と約束をしてしまった今となってはもうどうしようもない。もし逃げようものなら、この王はきっとあの街をすぐにでも破壊しつくしてしまうだろう。
もうあの街はエレナリーゼが戻ろうと戻るまいと、向かう先には破滅しか待っていないのだ。
少なくとも本当の“堕天使の呪い”の痣を持つ人間が生きている限り。
エレナリーゼが青ざめていると、魔王は突然耳を疑いたくなるようなことを言い始めた。
「フッ。気が変わった。お前には死の代わりに、命を与えることにしよう。これからお前はこの国に留まり、この国を豊かにするよう尽力せよ」
「な、なんでいきなりそんな心変わりを……」
「お前が“天使の祝福”を受けし者だからだ。“天使の祝福”は痣を持つ者を幸福に導き、あふれ返った分だけ周りに幸福を与える。我ら魔の間ではそう語られ続けている。つまりお前をここで生かし続ければ、この国はその影響を受け、豊かになれる可能性があるという事だ」
「なんで私が魔物のためなんかに」
約束をしたからには傷ついた魔物の治療は行う。
けれど魔物は魔物。これまでの人間としての価値観から、魔物の味方をするようにという命令に「はい、わかりました」と簡単に頷くことはできない。
魔王はエレナリーゼに問い続けた。
「ではお前はあの街で幸せだったのか?」
「なんですか、いきなり」
「あの街はお前が祝福を与えるに値するような街だったのか?」
「それは……」
あの街が好きかどうかなんてことはよくわからない。
痣の事がバレないように極力人とのかかわりを避けるように生活してきたのだから好きかどうかという判断材料が無い。
ただ、ここ最近はいい思い出が無いのは確かだ。むしろ辛い思いしかしていなかったような気がした。
エレナリーゼの暗い表情で魔王は答えを悟ったらしい。「だろうな」とでも言いたげに口角を上げている。
「ならば迷う必要はないはずだ。ここの魔物はお前を歓迎するだろう。ただお前は自身の幸せを願いながらこの国に留まればいい。ただそれだけだ」
魔王の言葉を聞いてエレナリーゼはこれまで時折考えていた疑問を聞いてみたくなった。
周りに迷惑をかけ続けていると思い込んでいた自分に何度も問いかけていた言葉を。
「あの、魔王様……」
「なんだ」
「私は、存在してもいいんですか?」
すると魔王は鼻で笑った。
「何を馬鹿なことを言っている。存在してはならない者などこの世にいるわけはないだろう。何者かにとっての悪は何者かにとっての善。その逆も然り。お前があの街にとっての悪だったとしても、この国にとってお前は善なのだから」
問いはもしかしたら困らせるだけなのではないか、存在を否定されるのではないかと思い両親にすら怖くて問いかけられなかった質問だった。
まさかそれを魔王に問いかけ、存在を肯定してもらえるなどエレナリーゼはこの瞬間まで思ってもみなかった。
お読みいただきありがとうございます。
物語の出だしを書くのはいいですね。書いてて一番楽しいところです。わりとスラスラ進みます。
という事で次回更新は近いうちに、という事にしておきますね。
でわ、また次回!