第二話:死神卿の手
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冥婚、という伝承がある。
この国を含めた大陸の多くの地方で信じられている、古い古い、言い伝えだ。
成人した女性が結婚しないまま、誰にも身を委ねぬままに命を落とすと、心残りからか魂がさ迷いい出て、永遠にこの世に囚われるのだと言う。
それを防ぐ為に、亡くなった女性との形だけの婚姻を結ぶ風習──それを、冥婚と呼んだ。
身分の低い農民や町民達の場合は、親族や近隣の者から相手を選び、葬儀の際についでのように式を挙げて貰うのが慣例となっていた。死者の夫となった相手も、これは冥婚だから、と軽く割り切って役をこなし、後の実際の婚姻には何ら影響しないというのが通例だった。
しかしながら、身分の高い者達──貴族ともなってくるとそういう訳にはいかなかった。建前と体面で生きている人種であるところの貴族の令嬢を、形だけとは言え誰とでも簡単に結婚させるのは如何なものか、と考えたのだろう。
或いは、死んでもなお娘には幸せになって貰いたい、という親の願望も起因していたのかも知れない。
かくして、娘を亡くした、或いは不治の病を患った娘を持つ貴族達は、例外無くとある貴族家を頼ることとなる。
『死神卿』──それが彼らの最後の頼みの綱であった。
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屋敷を出てから、もうどれくらいの夜明けを数えただろうか。
目指したのは領地から遠く遠く離れた北の土地。国の南端にほど近い温暖な実家から、ほぼ国を縦断する形での移動である。
目的の侯爵の城は、北の大山脈の麓に存在するとても大きな湖の傍に立っているのだ、と出立前にばあやが教えてくれた。まるで物語の中の如き美しい光景にきっとお嬢様も気に入る筈──と笑顔にうっすら涙を浮かべてばあやは私の手を名残り惜しげに握った。
旅の友は、私と最も親しかった同い年の使用人の少女、快活な御者の青年、そしてせめて旅が快適であるようにとお父様が手配してくれた頑丈な馬車と馬、それだけだ。
死出の旅は秘めやかに、という習わし通りに夜明けぬ前に屋敷を立ち、途中の街へも最小限しか立ち寄らず、しかし私の体調を気遣って速度を出せぬ為にか、旅路は長い長いものとなった。
そして季節すら変わろうという頃、御者の青年が声を上げた。お嬢様、あれを──そんな呼び掛けに使用人に支えられながら窓から前方を見た私は、その光景に感嘆の息を漏らす。
ここ数日の重く澱んだ低い雲が強い風で取り払われ、高く蒼く澄んだ空の下、白と紺が彩る大山脈が遠く、はっきりと横たわっていた。
涙を滲ませる私の肩を抱きながら、ああ、もう少しのご辛抱でございます、お嬢様──使用人の少女も鼻声で喜んだ。余りにも長く険しい旅路に潰れてしまいそうだった私の心からも、幾ばくかの勇気が湧いたのだった。
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──そしてようやく、絶望を押し退けて旅の終わりを目指す私の前に、それは訪れた。
最後の街を出てからずっと続く不毛の荒れ地、それが突然途切れていた。比喩ではない、物理的に『途切れて』いるのだ。
それは巨大な、とても幅の広い谷だった。大陸そのものを分断するかの如き大きな大地の裂け目が眼前に横たわっていたのだ。夕焼けに照らし出された峡谷は、朱く朱く血のような色に染まり、あたかも地獄の淵の様相を呈していた。そのこの世のものか疑わしき光景におののき、御者は馬車の速度を緩め、私と使用人は緊張に手を握り合った。
ゆっくりと近付くと、峡谷の向こう側、大橋のたもとに黒い人影が見える。
この谷を越えれば侯爵の私有地と聞く。出迎えだろうか──夕暮れの中に浮かび上がる影は、馬に乗った人物と、その馬を引く者のようだった。
谷に掛けられた橋の手前で一度馬車を停止させた。相手方は歩みを止めず、真っ直ぐにこちらへ向かって橋を渡る。全てが朱に染まる光景の中、馬も、馬をひく者も、そして馬上の人影も、全てが赤に染められつつも尚、それを超えて闇の色を纏っていた。
「──報せは受け取っている。南方よりの長旅、さぞやご苦労なされたであろう」
近付いてきた馬上の人影が、低く艶のあるまろやかな声でそう告げつつ、優雅な仕草で鞍を降りる。私はその声を聞き、衝動的に窓から身を乗り出そうとした。
その響きは余りにも麗しく、甘美な抑揚で私の鼓膜を揺らした。耳から流れ込んだ響きは潤いとなり雫となり、干上がりかけていた私の心を満たし、沁み込み、蕩かせる。
見上げた私の瞳と、その方の視線が、一瞬で絡み合った。
月の影より尚黒く艶やかな長髪は柔らかに風に靡き、精緻な刺繍と黒真珠を散りばめた異国風の詰め襟服は黒いながらも上質な光沢を帯びている。雪よりも白い肌と黒い滑らかな仮面が退廃的な美しさを醸し出し、そして、紅玉よりも石榴石よりも紅く深く輝く瞳に、疲弊していた筈の私の胸は生き返ったかのように鼓動を高鳴らせた。
「──よくぞいらした、我が花嫁」
その言葉と共に柔らかな微笑で差し出された手を取る事も忘れ、私はただただ、初めての恋に落ちたのだった。
最初で、最後の、恋に──。
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この作品中の冥婚という習わしは同名の伝承をモデルとしておりますが、飽くまでヒントとさせていただいただけで、実際のものとは大きく違う点もありますし、直接の関係はございません。
また、その伝承には差別的とも取られかねない表現や内容も含まれておりますが、時代設定が昔であること、異世界であることを踏まえ、ファンタジー創作物であることから御理解ご容赦頂ければと思います
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