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指が覚えていた②

 プレートに書かれているのは『理事長室』。その戸の先に黒く巨大な物体が見えた。

 グランドピアノだ。

 改めて嫌だな、と思いながらも同級生の前でボンヤリしているわけにもいかず、ノロノロと入室する。


 理事長室の内部を見回してみると、沢山のトロフィーや、額に入ったモノクロ写真、各地の土産物等があり、実に爺さんぽい部屋だ。

 こういった混沌は割と好きで、ピアノを見た瞬間の抵抗感が若干緩和される。

 

「さぁさぁ、腕前を披露してもらおうか!」

「ピアノの?」

「そうだよ。約束でしょ」


 約束したのは合唱部への入部であり、今日ピアノを弾いて聞かせることではない。

 そう言いたかったのだが、馬鹿らしくなり、やめる。

 彼女の頭の中では、もう俺は合唱部員の一人であり、意のままに演奏させられると思っていそうだから。


 一つ嘆息し、ピアノのカバーを剥ぎ取る。

 姿を見せたのは、スタインウェイのグランドピアノだった。

 学校にあるピアノといったらヤマハだと決め付けていたので、意外な感じがする。これを買った人物は音に拘りを持っていたんだろうか。


 鍵盤蓋を開け、真紅の布を外し、試しに一音押してみる。


 澄んだ音に心臓が高鳴った。

 久し振りに鳴らしたピアノの音は、感動的な程に良いものだ。

 低音域から高音域に向かって鍵盤をドンドン弾いていく。どこにも音の粗が無い。たぶん定期的に調律師を呼んでメンテナンスしているんだろう。


――凄いな。これで弾いたら、技量以上に聴こえそうだ。


 状態の良いピアノにウッカリわくわくしてしまっているのに気が付き、慌てて頭を振る。

 いつの間にか隣に来ていた江上が、譜面台に楽譜を乗せた。


「これ弾ける?」

「メンデルスゾーンの歌曲『歌の翼に』?」


 楽譜の一番上に印字されたタイトルを読むと、江上の大きな瞳がいっそう輝いた。


「うん! 思い出の曲なんだ。弾けそうかな?」


 俺はこの曲を弾いた事をあるとも無いとも言い難い。

 というのも、正確にはこの曲の編曲版を弾いた経験があるためであり、この譜面通りではないからだ。

 でもまぁ、それを弾くでもいいかと思う。

 江上に言われた通りに弾くのはつまらない。

 

 それよりも気がかりなのは、自分の指が動くかどうかという事と、ちゃんと曲を覚えているかどうかという事。

 錆び付いた演奏技術を聴き、彼女は幻滅するかもしれない。

 『入部させようと思ったけど、期待したより下手だからいらなーい』とか言われそうだ。

 こちらとしても進んで入部したいと頼んだわけではないし、願ったりなんだけどな。


 俺は両指をバキボキといわせた後、無造作に鍵盤の上に並べた。


 約一年前に北園に言われた言葉が耳の奥にこだまする。


 ダサイ


 江上もそう言うだろうか。

 好きでもなんでもない奴に言われたってノーダメージなはずだが、心が重く沈む。


「クラシック音楽好きだよ。特にピアノの演奏は聞き入っちゃう」


 ハッとして江上を見ると、愛おしげにピアノを撫でていた。嘘は、ないんだろう。


――人の評価なんて、どうでもいい。ただ、今の俺の音を出すだけだ。


 両手は自然に動いた。

 ごく軽い感じにアルペジオを弾く。一年ぶりだというのに、思ったより、指の力加減が出来る。

 そこまで劣化していないことにホッとしながら、主旋律を紡いでみると、ちゃんと美しい曲になった。


「わぁ……」


 江上の嬉しそうな声に、若干気を良くする。

 これは、リストが編曲した『歌の翼に』なのだが、彼女のお気にめすものだったようだ。


 シンプルでありながらも美しい旋律を、なるべく際立たせる。

 アルペジオの一番高い音を、耳に良く残るよう響かせる。

 

 描き出したい情景を、きちんと表現できているだろうか。

 要所要所でぎこちなくなる手が歯痒い。


 なんとか最後まで弾き切ると、江上は惜しみない拍手をしてくれた。


「凄い良かった! 伴奏部分がフンワリとしてて、まるで夢の中を旅してる気分になったよ!」

「そ、そうなんだ。……ちゃんと弾けてホッとした」


 つい本音が零れてしまい、顔が暑くなる。

 

「なんでこの曲を選んだんだよ?」

「死んだおばあちゃんが、この歌を好んでたんだ。私とお姉ちゃんは小さい頃良く、おばあちゃんに預けられていて、子守唄代りにこの曲を歌ってもらってた」

「子守唄にしてはかなり高音を出さなきゃならない気がするけど」

「歌が上手い人だったからね」


 江上の祖母の話ではあったが、俺は彼女の姉について考える。

 高校三年生の江上瑠璃えがみるりは、この高校の前生徒会長であり、学校一の美少女として名高い人物だ。

 爽やかさが前面に現れている妹とは違い、姉の方は退廃的な雰囲気なので、近寄り辛さは江上妹の比ではない。

 

 若干思考が逸れたのを誤魔化すため、俺は大きく頷く。


「いい祖母を持ったんだな」


 かなり適当な言葉を発してしまったものの、江上はそれで十分だったようで、幸せそうに微笑んだ。


「私達の音楽のお師匠様だったなぁ」


 そう言った後、彼女は唐突に歌い出した。

 俺にリクエストした、メンデルスゾーンの『歌の翼に』だ。

 少々面くらいつつも、俺達は合唱部。歌を歌う為の部活なのだから何も変ではない。


――歌の翼に憧れを乗せるんだっけか。詩人が作った歌詞だけあって、よく分からんな。


 彼女の歌声は、プロ程の声量とは言えないが、伸びやかで、幸福感に満ちている。

 流行りの歌しか好きではなさそうなのに、なかなかどうして歌い慣れている感じだ。

 名ばかりの合唱部部長ではないらしい。

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