げきとう
目の前が真っ赤になった気がした。
これはなんだこれはなんだ、これはなんだ。
真っ白になった意識の中に、光が見える。
「…もう、お前の傍に産まれたくないなぁ。」
あぁ、コレは、誰の記憶なんだろう。
夢だ、と夏輝は思う。
これは誰かの夢だ。
手を握っている相手をだけど、夏輝は確かに知っていた。
自分の主。
この世で一番大切な人。
誰よりも幸せになって欲しくて、誰よりも愛している人だと、手を握りながらそう思う。泣いている、その大切な人が泣いている。
随分と年を取った相手は、ただ子供のように泣いていた。
「景勝、わらえ…よ?」
自分が死のうとしていることに、これ程悲しんでいる人間に、何て事をいうのだろう。夏輝はおかしくてそれこそ笑いそうになる。
でも分かっている、分かっているから。
本当に好きだから、だから、泣かないで。
誰を守ろうとしていたのか、はっきりと思い出す。
俺は、景勝を守りたかったのだ。
夏輝は身を起して、僅かに震えの残る足で立ち上がる。
春義が倒れているのが見えれば、全身の血が沸騰しそうになった。
「景勝を…放せ」
それは、俺の主だ。
今生でもまた、傍に居る、かけがえのない存在。
圧し掛かっている、見たこともない化け物の正体も、まるで知ったかのように、夏輝は笑う。
「愛染明王よ!我にご加護を!」
それは誰を呼ぶ声だったのか。
指先が自然伸びて、テレビでしか見たことがなかった弓を引く形になる。
白い光が纏わりつくような感覚が指先を辿れば、そこから真実、弓が形を成した。
指先が踊るように動けば、それに従うように弓が産まれる。
化け物がこちらを見た。
警戒をしているのか、唸り声をあげる。
だが、もう、遅い。
夏輝の顔に自然微笑が浮かび、朗々とした声を上げ、威圧するように叫んだ。
「直江山城守兼続が名において、悪鬼よ、去れ!」
言葉と共に弓矢が産まれ、それは白い光を尾のように引いて、大きな犬へと突き刺さった。咆哮をあげた化け物が身を捩れば、突き刺さった矢から白い光が尾を引いて、更にその体躯に食い込んで、捩れば捩るほど、内側へと突き刺さる。
「愛染明王が加護を受けた矢がそう簡単に抜けると思うたか!」
「簡単では、ないでしょうね。」
振ってきた声に、夏輝は視線を飛ばす。
怒りが含まれた視線をいなすように、化け物の上に、1人の少女が降り立った。
黒縁の眼鏡をかけ、そろえた前髪に、質量が多く見える今時珍しいまでの黒髪の少女がそこに居た。制服を着ているところを見れば、学生のようだ。
「ですが、別段問題はありません、僕の犬はそれぐらいでは、朽ち果てない。」
冷静ともいえる声に、夏輝は憎悪を持った目で少女を睨みつけた。
「今日は貴女と争うつもりはありません、直江殿。」
微笑みも、驚きも、ましては恐怖も少女には存在しなかった。
冷酷とも取れる瞳を夏輝に向けながら、時代錯誤ともいえる慇懃さで片腕を後ろに回し、もう片腕を前に頭を下げる。
「我が主、伊達政宗より、言伝を。」
「だて…まさむね…?」
目を見開いた夏輝をまるで視界にいれず、ただ恐らく、伝えられた言葉のみを少女は発した。
「『賽は投げられた』。今日の僕の役目は、貴女の目を覚まさせる事。いつまでも寝ていられては、困ります。」
勝手な言い草に夏輝は反論しようと顔を上げれば、無表情な瞳と視線がかちあう。少女の吐き捨てるような言葉に、脳が気に食わないと警告を発しているのがわかった。
「こんな脆弱な主に仕えているから、そんな風に怠惰になる。愚かしい事。」
頭に血が一気に上る、化け物の足元へと倒れこんでいる春義を思えば、夏輝は唇を噛んで、その様子を伺う。もし踏みつけられでもしたら、春義の身が危ない。
「…ふふ、分別はあるのですね。いい子です、兼続殿。」
歯軋りをしそうな表情の夏樹を見ながら、少女は笑った。
「そもそも我が家臣と変わらぬ男に仕えるなど、貴女も見る目がない。」
舞い降りるように少女は春義の真横へと降り立つ。
気を失っている様子の春義を見下ろしてから、少女は夏輝へと向き直った。
蔑むような視線で春義を見やれば、犬が大きく口をあけて、ちょうど首の辺りを押さえる。悲鳴を飲み込み、夏輝はそれを凝視した。
自分の手は守れないのか、春義を。
瞬間、少女が軽やかに飛び上がる。
「確かに僕は貴女に伝えましたよ。あぁ…挨拶が遅れました。我が名は伊達成実、覚えておられるやもしれませんね。うふふ。」
馬鹿にしたような笑いにも、夏輝は耐えた。
「…本当に、政宗様がほしがっている理由が僕にはわからない。」
全てにおいて表情のない少女に、一瞬だけ怒気のような感情が含まれたのを夏輝は見た。
少女は夏輝に背を向ける。だが夏輝には確かに少女が笑っている事を感じていた。嘲笑っている、彼女は。
「おやすみなさい、精々主を鍛えなおす事です、それが、生き残る近道。」
掻き消える、そう表現すれば目の前の現象を現す事が出来るのだろう。
一瞬にして化け物も、少女も姿をけしていた。
残ったのは倒れこんだ春義と、暗闇に沈む校舎だけだった。