てのひら
「…お姉さまじゃ、ないだろう。同じ年だし。それに、お前…」
「アンタにお前って言われる筋合いはないわ。全く…行儀も何もなっていない野蛮な男はこれだから。ね、お姉さま?」
良い香りがする。花の匂いだと思うが、それが何かと聞かれると、思い当たらなくて、でも、ほっとする、香り。
何処か懐かしいようで、安心、出来る。
春義の顔が、確かに凍りついたのを夏輝は見た。
どうにも不思議な気分になる。
いつもこの二人は仲が悪いのだ。
お前も男だろう、と苦々しく言ったのを見て、夏輝はなんだか、つい、笑ってしまう。戌井冬は「男子」である。そう、戸籍上は。冬は「同じ学年で」「同じ年齢の男子」であるはずなのだが、便宜上「彼女」、は女性の制服を着てこの学校に通っている。長い黒髪は艶やかで、大きくはっきりとした瞳と形の良い唇は女性を圧倒するほど、美しい。公認ではないが、ファンクラブまであるという「噂」が出回る程で。夏輝は彼女は「彼女」として夏輝に接しているの、と思うのだが、春義はあくまで「男性」だといいきる。からこそ、仲が悪い、とそう、想像していた。
こんな状況だというのに、実にのんびり、そう思ってしまったのは、余りに突飛過ぎる現実感のない状況だからだろうか。
冬の腕に包まれて、春義の苦い顔を見て。
あぁ、何だか、とても、それが幸せで、いつものようで。
思わず微笑ましい気分にすらなった瞬間、夏輝の身体が前に引き出される。
顔をあげれば、春義の顔が間近で、夏輝は「ひ」と言う短い悲鳴を飲み込んだ。
「え?!あ…?!」
抱き寄せられたと知ったとき、だから耳まで赤くなる。すぐ真上にある春義の顔、そうして、触れている、体温。腕の中に、自分が居るのだという事実。
何が起こったのか、理解できなくて、いや、するのが余りに恥ずかしすぎて、夏輝はそのままその場所から動けなくなった。
暖かい、その手の平に抱き寄せられている自分。
「…気安く、夏輝に触るな。」
何て事を、言うのだろう、と想う。あぁ、もう何て事を。誤解してしまう。諦めようとしていたのに、期待しちゃうじゃない。
真っ白のなった頭の端っこで思った夏輝は息を飲み込んで、目を閉じた。
ゆるぎない手の平は、本当に子供の頃から変わりない。
こうしている間は、変わらない、と思える。
この人の手は変わらない。
泣き虫な癖に、意地っ張りで、変なところで、勇気がある。
あぁ、本当に、私はこの人の事が好きなんだなぁ。
夏輝は、思う。
この気持ちは、知りもしない、直江なんて人の気持ちじゃない。
そう、改めて思えた。
夜の闇は深い。
夏輝達が戯れていた時間から、少し後。
校舎には一人の少女が佇んでいた。
「…何が、良いのかしら。あの男の。」
少女はあの、伊達成実。
戯れていた少年、少女達の姿を見ていた少女は、酷く眦を吊り上げて、怒って、居た。何かが赦せないようで、親指の爪に噛み付けば、それをキリっと捻りあげる。
何も、かもが、気にいらない。
長い髪が風に靡く。
自分の主よりはるか格が下の男に生涯を貢ぎ、死んだ男。
そうして自分の主の誘いを蹴った男。
優秀すぎるほどの腕を、そんな場所で腐らせた事に、成実は怒りを覚える。
「お怒りの貴女もまた美しい。満ちている感情は、嫉妬、と言うところですか?」
笑う男の声に、振り返った成実は怒りと共に睨みつけた。
「…小林。アナタ、何が言いたいのです。」
静かに低く抑えた声は、怒りに震えている。
しかし男は一向に怖がる様子も、気まずくなったような表情も浮かべず、最初の笑顔を崩してはいなかった。
「何を?わかっておられるでしょう?それは、貴女が、一番。」
「…始終、裏切り者のお前に、何が、わかる」
その場所に不似合いの着物姿の男は、それは人畜無害の笑みを浮かべた。