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その日も雨だった。
細く絹糸のような雨が降り注ぐ。
ドロシーは、ネグリジェのまま庭に植わる蔓薔薇の花弁を一枚摘んだ。
薄いネグリジェが雨に打たれ、身体に纏わりつく。
ドロシーの失ってしまった記憶に何があったのだろうか。
あの夢の中のランタンの灯火のように頼りない記憶を紐解くように、薔薇の花弁をまた一枚摘み取る。
「ドロシー!何をしている」
カーティスが慌ててドロシーに駆け寄り、自身が着ていた黒い上着を頭からドロシーに掛けた。
「風邪をひいてしまう。さあ、中に入るんだ」
ドロシーの右手を引いて行こうとするカーティスの腕をドロシーは拘束されていない手で掴んだ。
「貴方じゃなかったのね?」
ドロシーの小さな呟きに、カーティスは足を止める。
振り返り、ドロシーを見下ろす無機質なガラス玉のような眸が総てを物語っていた。
「……思い出したのか?」
ドロシーは、いつかの頭痛を感じながら、記憶の波が濁流のように押し寄せるのを感じた。
ふらつくドロシーをカーティスは抱え上げると、屋敷の中に足早に入っていった。
カーティスから滴り落ちる雫。
ドロシーは、声にならない叫びを上げる。
ああ———。
浴室の準備を終えたカーティスは、ドロシーの体に被せていた上着を剥ぎ取り、着ていた衣服も剥いだ。
露わになったドロシーの裸体を抱え上げ、浴槽に沈めた。
「ドロシー……」
慈しむように、全身を隈なく湯をかけられた。
「カーティス……貴方では無かったのね」
ドロシーの問い掛けに、カーティスは無言で無機質な眸を返してきた。
「私の過ちに、貴方は……ああっ!貴方は自らの過ちで黒く塗り潰してしまったっ」
★
ドロシーは二年前、カーティスとの婚約に向けた準備に追われていた。
一族の縁を深くするこの縁談に、期待が高まる度にドロシーは苦しい思いをしていた。
夫になるカーティスを未だに異性として見れなかったからだ。
カーティスは明るい人ではあったし、ドロシーを深く愛している事も良く分かっているつもりだった。
しかし、ドロシーはどうしてもカーティスを弟以上の存在だと認識出来ずにいた。
「お嬢様、最近塞ぎがちですね。結婚前は気持ちも不安定になるものです。気分転換に楽団を招いたパーティを旦那様が開いてくださるそうですよ」
小さな地方領主であるドロシーの父が、都で有名な楽団を屋敷に招いた事に端をなす。
昔から、一族は権威をドロシーの家門が、財をカーティスの家門が持つように分散し、共生してきていた。
その為度々両家の婚姻をし、バランスを取ってきていたのだ。
「楽団?とてもじゃないけど、そんな気分じゃないわ」
ドロシーは鏡の前で不貞腐れたように唇を尖らせる。
側仕えの女中が笑いながら支度を整える。
「まあ、そう言わずに。今日はカーティス様も来られるようですから、楽しんでくださいね」
ドロシーは、カーティスと聞いて溜め息を零す。
そのカーティスが問題なのだ、とは口が裂けても言えない。
優秀な兄達に囲まれて育ったドロシーは、カーティスの粗野な振る舞いが苦手だった。
隠しておきたい本心すらも飲み込んでしまいそうな好奇心を秘めた瞳が苦手だ。
ずけずけと年下な事を利用するようにドロシーに踏み込むカーティスが苦手だ。
最近逞しくなった大きな身体が苦手だ。
港町に住む娘達には、その精悍な顔立ちと、長い手足に筋肉質な身体付きが大層人気だと聞く。
あの燃えるような双眸に見つめられてみたいだのと宣っているらしいと女中達から聞いた事がある。
そんなに欲しいなら誰か貰ってくれないかと溜め息を零す。
「さっ、可愛らしく出来ましたよ。カーティス様がそろそろ来られる頃ですね」
女中にくまなく整えられて暫くすると、部屋にカーティスが来訪した。
「ドロシー、会いたかった。ああ、いいな。俺の選んだドレスが良く似合っている」
遠慮無いカーティスの態度に、ドロシーは目眩を感じる。
カーティスには、恥じらいや秘めたる気持ちなど無いのだ。
いつも真っ直ぐに自由に本心を明け透ける。
「カーティス、部屋に入る時はノックくらいして頂戴」
うんざりしながらドロシーが咎めると、カーティスは首をすくめて笑う。
「来年には総て俺のものだ。今から遠慮してどうするんだ」
その態度が堪らなく嫌なのだ。
ドロシーは諦めて、カーティスの側に歩み寄った。
「宴もそろそろ始まるな、行こう」
カーティスの差し出した腕に、そっと手を置いた。
屋敷のホールへ行くと、既に宴は始まっているようだった。
楽団が演奏する音色に耳を傾ける者。
音楽に合わせて踊る者。
提供された食事に舌鼓を打つ者。
お喋りに花を咲かせる者。
それぞれに夜会を楽しんでいるようだった。
ドロシーがカーティスに伴われて父や、兄達、それから一族の者達に挨拶をして回っていると、視線が追ってきている事に気付いた。
その視線を辿るように追っていくと、楽団で横笛を吹く一人の男性に行き当たった。
繊細そうな細く長い指を器用に動かし、滑らかな旋律を奏でる。
長い髪を一つに束ね、肩に掛けている。
少し伏せた瞳でドロシーを見つめている。
ドロシーは胸が張り裂けそうな程の動悸に襲われた。
一瞬で恋に落ちた瞬間だった。
後の事はよく覚えていない。
ただ見つめ合い、夢うつつのまま気付いたら自室の寝台の上に横になっていた。
鼓動だけが嫌に早く、思考は引き伸ばされたようにゆっくりになっていた。
経験した事のない胸ね高鳴りに戸惑いながら、ゆっくり起き上がると、部屋の窓を開けた。
すると、微かな笛の音が風に混じってドロシーの元へと届いた。