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月も見えない夜であった———。
小高い丘のそこには、人影が三つ。
バラバラと揉み合う人影。
叫び声、罵声、怒号、悲鳴。
風がぬめぬめと纏わりつくようなじっとりとした夜。
吹く風が、夜の闇を受けて真っ黒に染まった草木をザワザワと吹き荒らす。
不気味な悪魔の丘が叫びを上げるような異様な音を奏でている。
忌地とされ、人が滅多に近づかない丘でなければ、たちまちに人が集まってしまう程の騒ぎ。
暫くすると、三つの人影の内、一つが崩れ落ちた。
呆然と立ち尽くす二つの人影。
先程までの喧騒が嘘のようだ。
灯りは、傍らに置かれて倒れたランタンのみ。
その灯りが、彼女を照らした。
「ドロシー!」
はっと目を開けると、夫であるカーティスが心配そうに覗き込んでいる。
どうやらうなされていたらしいドロシーは、額の汗を拭った。
カーティスが、寝台の脇にある水差しからグラスに水を注いで差し出してくれた。
「ありがとう」
まだ耳の奥に張り付いたような鼓動が、ドクドクとドロシーを苛む。
「また悪夢を見たのか?」
カーティスがドロシーの額に張り付いた前髪を避ける。
「そうなの。以前見たカタルナの丘の夢と全く同じ」
カタルナの丘とは、ドロシー達の住む地にある悪魔の住処として恐れられている地だった。
ドロシーは、貿易を生業とする船乗りの夫カーティスと昨年結婚したばかりだ。
カーティスは、一年の内、半分は屋敷にいない。
そして、本来ならば今は家にいる時期ではない。
普段のカーティスであるならば、既に海の彼方にいる頃である。
というのも、約一年前の結婚式を目前に、ドロシーが流産してしまった。
ドロシーは精神的なショックで、記憶の一部を欠損してしまった。
その為、カーティスは先祖から営む貿易の仕事を腹心に任せ、この一年献身的にドロシーを支えてくれた。
ドロシーとカーティスは従姉弟同士である。
歳は、ドロシーよりカーティスが二つ下だ。
比較的に親交がある両家の二人は、当然のように幼い頃から婚約が決まっていた。
ドロシーにしてもカーティスの事は憎からず思っていた為、この結婚に関しては何の抵抗も無かった。
しかし、夫婦になり、献身的に接せられても、幼馴染の従姉弟としか思えない点は変わらなかった。
そんなカーティスと婚前交渉をし、剰え子を成していた事に自我を取り戻してからは大いに驚いたものだ。
なんだか夢を見ているようだ、と何度となくドロシーは思ったものだ。
カーティスは、ドロシーの好みとは真逆の人間だ。
ドロシーは三人の兄がおり、大変可愛がられて育った。
優秀な三人の兄は、目に入れても痛くないとばかりにドロシーを可愛がり、甘やかした。
頼りになる三人の兄は、ドロシーの理想の紳士を体現しており、兄達がドロシーの理想になるのも無理は無かった。
線が細く、垂れ目気味の兄達は、ドロシーの理想だ。
しかしカーティスは違う。
海の男特有の浅黒い肌に、切れ長の瞳。
筋肉質な長身。
荒々しい言葉遣い。
幼馴染でなかったら敬遠するタイプの男性だ。
ドロシーにとっては、優しい年下の従兄弟でしかなかったが、やんちゃな弟程度にしか思えなかったのだ。
そのカーティスと?
ドロシーは疑問が晴れないまま一年を過ごした。
カーティスのぶっきらぼうな愛情に戸惑うままに、過ごしてきた。
当然結婚後の夫婦の密事は無い。
妊娠する事までした夫婦なのに、結婚後体調を取り戻した後も、そのような行為は皆無だった。
本当にドロシーはカーティスと共に夜を明かしたのだろうか?
その事を考えると、いつもドロシーの頭には重たいモヤがかかったように判然としなくなった。
「ドロシー、そろそろ休んだ方がいい。まだ夜更けだ」
カーティスがドロシーの肩を押し、寝台へ沈められる。
カーティスはドロシーに肩口まで肌掛けを掛けると、隣に横たわった。
今日も月が無い。
室内に灯した小さなランプだけが頼りだ。
悪魔の丘で、あの三人は何をしていたのだろう。
夢の中の出来事なのに、まるで本当の事のようだった。
あの生暖かい風を。
草木の叫びを。
ドロシーは有り有りと思い浮かべて身震いした。