番外編 レフ・トロツキーの大誤算
「結局、何者なのか分からなかったな……」
レフ・トロツキーは、ウメコ・ナガノがいた椅子を見つめて、ため息を吐く。
おかしな少女だった。
社会主義者の同志と同じよう、平等で公平な社会を目指しているのに、貧富の差を許容している。暴力を嫌っているのに、取ろうとする手段は酷く暴力的。この世界が絶望に溢れていると知りながら、希望を捨てていない。
「『狂人』、か……」
日本の同志のひとりが、彼女をそう評していた。トロツキーの感情としては、恐らくそれが近いのだろう。
だが、トロツキーは何かが引っ掛かって、その感情に納得がいかなかった。
「彼女は十四歳だろう? だのに何故、あれだけの知識と実行力がある?」
自分が十四歳の時なぞ、読書に明け暮れていたのに。
普通、十四歳という年齢は、知識を身に付けていく年齢なのだ。考え無しなら、遊んでいる年齢なのだ。
それだけ、知識という海は深く広い。なのにナガノは、その身につける筈の知識を『応用』している。
「……あり得んな」
うすら寒いものを感じ、トロツキーはその思考を止める。
だが、思考そのものは止めない。
「切り捨てても良い同志との連絡手段は教えた。となると、定期的に情報が入ってくるだろう」
どうもナガノは、ソビエト領内で実験がしたかったようで。そのせいで厄介な約束をしてしまった。
「……何故私があのスターリンと連絡を取り合わねばならんのだ」
しかし、約束してしまった以上、仕方ない。
「『ヒマワリの品種改良』はともかくとして、『低温地熱発電』とは……。訳が分からんぞ?」
『ヒマワリの品種改良』と、温泉の熱で発電する『低温地熱発電』の研究を、信州研究所はソビエトと共同で行いたいらしいが、発電の方の理由が理解出来ない。
『たまたま五十度位で揮発する不燃性の液体を見つけたから、それを使った発電機を作ったんだけど。日本だと、温泉を管理してる人達の協力が得られなくてね。北海道と台湾でしか実験出来ないから、もっとデータが欲しいの』
日本は、温泉大国だと聞く。日本の同志から昔ちらと聞いたところによると、そんな温泉地は、既得権益のひとつとなっているらしい。つまり、温泉地はブルジョワジーの拠点なのだと。
頭の固いブルジョワジーのことだ。ナガノの実験に権益を犯されるとヒステリーでも起こしたのだろう。
「しかし、何故ソビエトなんだ? 日本とソビエトは敵対しているだろうに……」
トロツキーにとってそこが謎だった。
そこで、トロツキーは考える。
日本とソビエトは、満州地域での権益を巡って争っている。だが、日本は直接満州に乗り出さず。ソビエトは満州、いや中華で争う全ての組織に支援をしている。
「なるほど」
トロツキーは理解した。
「満州が、ソビエトの影響下になった後を考えているのか」
満州や中華がソビエトの影響下になれば、日本は極東地域で孤立する。そうなれば、日本がソビエトの支配下になるのも、時間の問題だろう。
そうなる前に、ナガノは自分の有用性をツァーリ紛いのスターリンに知らしめるつもりなのだ。
「フフフ。利口なつもりか?」
ナガノは、あの男を理解していない。あの猜疑心の塊を理解出来ていない。あんなに他人を恐れる男に自分の有用性を伝えたところで、不要になるか恐れられれば切られるだけだ。
「所詮子供か」
いやはや。あの奇妙な少女にも、子供らしいところがあるとは。トロツキーは大人になりきれない少女を嘲笑する。
「……まあ良い。ナガノの提案に乗れば、ソビエトに私の影響力を残せる。おまけに、ナガノが有用な間は、私も暗殺される心配が無くなる。乗ってやろう」
トロツキーはそう決め、以後ソビエトの協力者達にナガノからの情報を積極的に流すようになる。
しかし、トロツキーは忘れていた。何故、ソビエトが満州を狙うのか。
それは、不凍港と食料を確保するためだ。
不凍港はともかく、食料は国家を維持する基礎だ。生産性の極悪なソビエトは、更に外貨を確保すべくウクライナ地域の食料を諸外国に売ることで、慢性的な食料不足に陥っていた、そこで、満州という食料庫に目を付けたのだ。ついでで不凍港と鉱山が手に入るのも、魅力的だった。
ナガノの狙いは、三つある。
ひとつは、ヒマワリという、品種改良すればかなりの収量を誇る『穀物』をソビエトに普及させることで満州へのソビエトによる圧力を軽減すること。
もうひとつは、自分の有用性をスターリンに知らしめることと、トロツキーの共産主義者ネットワークを借りることで、共産主義者達の信州研究所とその関連施設へのテロルをコントロールすること。
そして、上手く行けば儲けもの程度の感覚で、トロツキー派の影響力をソビエトに残すことでスターリンの猜疑心を深め、この先ソビエトで起こる筈の大粛清の被害を拡大させること。
この三つだ。
残念なことに、トロツキーの予想はかすりもしていなかった。
しかし、トロツキーの動きはナガノの想像以上のもので。
この『工作』が上手く行き過ぎたことを知った時、ナガノは頭を抱えることとなる。
低温地熱発電は商業化してる技術ですね。
そりゃあクーラーや冷蔵庫の技術があるんだから作れて当たり前のものなのですが。この技術を使った発電所で町おこししてる、なんて話を聞いた時には、思わず『素晴らしい!』と叫んでいました。
枯れた技術でも、使いようによっては生活を豊かに出来る。そんな実例を知れてワクワクしましたね。