情熱家をヒモにする1
《千九百二十八年五月二十一日 東京》
「オレンジジュースを長期保存する技術の開発、ですか?」
「はい」
信州研究所の皆からゴーサインを貰ってすぐ、私は各所に連絡を取って、宣伝を兼ねて融資を分捕ってきていた。そのうちのひとつ、海外へ売り込む切っ掛けとして選んだのは。
「確かに、美しいお嬢さんに飲まれるのなら、オレンジも本望でしょうね」
気障というか、何というか。聞いていてこそばゆくなる言葉が各所に散りばめられるのは、前世で聞いていた彼らの特徴と変わらない。
「一応、男の人も飲むと思うのですが……」
苦笑していると、「いえいえ」と大使は首を振る。
「我々イタリア男は、ワインか臭い水でも飲んでいたら良いのですよ。その分、麗しい女性達が良いものを味わえるなら、ね?」
どうしよう。
(反応に困る)
イタリア人、って、皆こうなの? 話しづらいんだけれど。
「と、ともかく」
表情筋が引きつりそうになるのを必死で堪えながら、話を軌道修正する。
「我々信州研究所は、これからオレンジジュースの長期保存法の開発に取りかかりますので、融資か、もしくは、イタリア本国へ、この研究の存在を連絡して頂きたく思います」
「流石日本人。頼み方が奥ゆかしいですね」
ですが、とイタリア大使は微笑する。
「何故それをわざわざ私にお願いしに来たのですか? 既にお嬢さん達は、この国の融資を受けていますし。その上我々から融資を受けると、貴女方の利益が減りますよ?」
「いえ。そこは大きな利益が得られる予定ですし、何ならこの後スペインにもこの話を持ち掛ける予定です」
「……凄い自信ですね。そんなに莫大な利益というパイを、我々と分けよう、ということですか」
イタリア大使は、利益、という言葉の方に気を取られたようで、私の強調したかったことには反応しなかった。私は内心慌てて軌道修正を図る。
「いえ。我々が得る利益は、貴国やスペインの信頼です」
イタリア大使は一瞬変な子を見るような表情を浮かべた後、大袈裟に驚いてみせた。
「それはそれは! そんなことまで考えられるなんて! お嬢さんは天才ですね!」
「仮にも研究所の長ですから」
文面だけなら、嫌味に聞こえかねない言葉なのに、この男が言うと褒められたようにしか感じられないのは不思議だ。
「ですが、オレンジジュースだけでは、我が国の信頼は買えませんよ?」
「そうですよね」
私は肩をすくめ、説明と言う名の言いくるめに入る。
「ですが、オレンジジュースが長期保存出来るようになれば、貴国の完熟したオレンジを、フランスやイギリスだけでなく、アメリカ、果てはソビエトにまで売ることが出来るようになります」
「まあ、そうですね。ソビエトは立地以外も遠いので、時間はかかるでしょう」
まあ、ソビエト、という発言は、とある人物へ伝われば良いな、程度の感覚で口にしただけなので、期待していないのだけれど。
「兎も角。私が言いたいのは、オレンジジュースの市場はまだまだ未開拓だ、ということです。ただ、その普及の壁になっているのが、」
「保存方法、という訳ですね」
「その通りです」
イタリア大使の言葉に頷く。
この時代は、私が前世生きていた時代と比べると、食料の保存技術は良く言えば未発達、悪く言えば開発されていないも同然だ。フリーズドライなんて影も形も無いどころか、市場に並んでいる蟹缶が発酵して膨らむのはザラで、そのまま爆発するなんてこともあるし。
日本の缶詰についてはかなり改善されたけれど、工業機械の更新が追いつけばまだまだ改良出来るし、缶詰以外の保存技術、例えば瓶詰めだってもっと良く出来る。
今回信州研究所で動いている研究は、オレンジジュースの保存技術、特に殺菌技術の確立、のお題目の下に、様々な食品の保存技術を向上させることが目的だ。食品が長期保存出来るようになれば、不作の時に農作物の値段が上がるのを抑えられるし、食料の不足している地域、例えば中国の内陸部やアフリカ各地へも食料を売ることが出来るようになる。
工業技術のアドバンテージは、早ければ五年程で追いつかれるだろうけれど、その間に、『日本ブランド』を確立することは十分可能で、一度ブランドを確立すれば後から市場に参入してくる、アメリカやイギリスを抑えることも容易い。『農林業発展計画』により、日本国内で食料品が増産されることがほぼ確定しているので、このタイミングで保存技術を改良することは理に適っている。
(欲を言えば、もっと早く着手した方が良かったけど)
農林業発展計画が行われるともっと早く知っていれば、他のやりようもあったのだ。だけれど、過去は変えられないので、仕方ない。
(もっと政府とのパイプを強くしないとなあ)
信州研究所の主な情報源は、三井、三菱、住友等の大財閥と陸海軍で、外務省との繋がりが出来つつあるところだ。もっと中小の企業や内務省とのパイプが無いと、今回のようなことを繰り返すことになるだろう。