第八十七話 衷心
ヤクザ顔の生徒、纐纈翔夜と相対した先生は、たじろいでしまいはしたものの自身の生徒であるため恐怖心を押し殺して対応する。
「そ、それで、何か用かな?」
「授業で言っていたことがいまいちわからなかったので、説明を求めてきました」
「……あぁ、わかった。ちょっと待ってろ」
いったい何の用かと聞いてみれば、存外大したことではない。
普通の生徒と何も変わらない、ただ勉強を教えてくれというものだった。
「すみません教頭先生、生徒に勉強を教えなければいけないので、お食事には行けません」
「そうですか……。それは残念です」
そしてこのチャンスを生かさない手はないと、先生は教頭へと申し訳なさそうに、しかし内心侮蔑の言葉を並べて、絶対に行きたくない食事の誘いを断る。
しかしそんなことで諦めるほど、彼は女性に飢えていない。
「でしたら、終わるまで待っているので、いつ頃終わりそうですかね?」
「あー、えーっと……」
さすがにこの発言にはどう返していいかわからない。
行きたくはないが、明確な断る理由がない。
さてどうしたものかと、先生は言葉を詰まらせて頭を悩ませるが。
「すみませんね教頭先生、俺でき悪いんでちょっと時間かかりそうですね」
教科書を開いて教えてもらう準備を整えている翔夜が、先生へと助け船を出した。
「それよりも、教頭先生は奥さんとの時間を大切にしたらどうですか?」
「それは、君に言われることではない……」
教頭の女性好きというのは、実はもうすでに一年生にまで噂になっている。
もちろん翔夜はそんな噂に惑わされたりはしなかったが、しかし目の前で実際に先生を食事へと誘っている場面を見てしまっては、噂は本当であったと言わざるを得ない。
「あれ、奥さんとの時間はいいんですか? でしたら、教頭先生にも俺教えてほしいことがあるんですけど? 確か担当は生物でしたよね?」
「いや……あ、そういえば、私はこれから家内と約束があったな。申し訳ないが、また今度ということで……」
そんな教頭は、自身が生徒に勉強を教えるという、とても面倒なことに首を突っ込むわけもなく。
帰宅の準備を整えて、そそくさと職員室を後にした。
「ったく、エロ親父が……」
ああいう手合いは、大体が男性と善意でかかわろうとすることを嫌う。
翔夜の独断と偏見によるものだが、しかし今回に限って言えば当てはまるのだろう。
女性の胸にしか興味のない教師など、反面教師もいいところである。
「えっと、助けてくれたのか?」
「たまたまっすよ」
そうは言っているものの、嫌がっている相手を無理やり連れて行こうとする行為は翔夜は好かないため、先程の対応は狙ってやったのだ。
もちろん、直ぐに先生に教えてもらいたいという思いもあったが、あのような邪魔な存在がいては心置きなく教えてもらえないだろうと判断したのだ。
「それで、ここなんすけど……」
「あ、あぁ、ここな……ここは———」
ともかく、邪魔ものもいなくなったので、翔夜は先生に授業で分からなかったところを質問していく。
「ありがとうございました」
わからなかったところの全てを教えてもらい、翔夜は謝辞を述べて教科書等をバッグへと仕舞う。
「いやぁ、さっきは助かったよ」
「先生も大変っすね」
普段であれば先生に聞きに来るという面倒なことは翔夜はしないのだが、本日の授業で行ったことはどうしてもしっかり理解ができていなかった。
そのため翔夜は重い足を運んだわけだが、それが功を奏した。
担任教師と教頭のやり取りを、主に教頭のセクハラ被害を未然に防ぐことができた。
「そりゃあな……。お前の前で言うのもおかしいかもしれないが、人間関係がかなりひどいな……」
ひと段落着いたため、先生は椅子に深く座り直しもたれ掛かる。
そして職員室に二人きりしかいないこの状況であるため、つい本音が漏れ出てしまった。
「こんなに大変なら、この世界に来るんじゃなかったって思っちまうよ……」
別に教師に限った話ではないだろうが、それでも教頭のような面倒な人間はどこにでも存在する。
しかし教師という職業に限った話で言えば、思春期の男女を相手にしなければいけないため、人間関係の構築にはかなりの技術が要するだろう。
「お疲れ様っす」
人生経験があまりない翔夜でも、先生が人間関係で辛い思いをしているということは想像に難くない。
表情からも、その心の内がにじみ出ている。
だが翔夜はそのような担任を見て、自身の、嘘偽りない思いを伝える。
「でも、先生は立派に授業をしていますし、すごいって思いますよ」
「アタシがか?」
流石に褒められるとは思っていなかった先生は、目を見開き驚きを露にする。
「俺みたいな強面の生徒にもしっかり教えてくれるし、授業もわかりやすいし……」
しみじみと、高校生活始まってからの担任教師の授業を思い出す。
そして思い出されるは、生徒一人一人をみて全員が学力向上するため必死に授業に打ち込む姿。
「なにより、ちゃんと生徒を思って授業をしてくれているじゃないですか」
担当したクラスの生徒の、そのほとんどが知らないこと。
先生が生徒のことを思って、どれほど考えて授業を行っているか。
「どうすれば授業を聞いてくれるのか、どうすればみんな覚えることができるのか」
翔夜には教師の仕事内容の全容はわからない。
だが先生が生徒のためを思って授業を行ってくれていることは知っている。
知っているというより、表情を見て理解したのだ。
「毎回毎回、いろいろと試行錯誤してくれて、正直俺としては助かっています」
翔夜のように、あまり勉強のできない人物に限って言えば、とてもありがたい先生なのだ。
「お前……顔のわりに意外と授業を聞いているんだな」
「顔のわりには余計っす」
翔夜はその顔のせいで誤解されてしまいがちだが、一応は真面目に授業を受けている。
何もなければ、サボるようなことは一切にしない。彼女に振られたりでもしなければ……。
「まぁ、俺ん家両親とも厳しいんで、担任である先生にある程度いい印象を持ってもらおうっていう、そんな考えもあるんすけどね」
「あぁ、なるほどな」
ついでと言わんばかりに、内申点も加算してくれたらいいなという、淡い希望も持っていたのだ。
翔夜の両親は他より多少厳しめであったため、先生からも真面目であるということを公言されれば、ある程度自身に対しての風当たりが弱くなると踏んでいた。
「それと……」
そして授業を真面目に受ける一番の理由は。
「俺は、どんなことでも真面目に頑張っている人を応援したくなるんですよね」
先生は真面目に授業を行っている。
ならば、それに応えるには生徒として真面目に受けなければいけないだろう。
「逆に笑ったり邪魔したりしてる奴は殺したくなるっていうか……」
「おいおい、冗談に聞こえないぞ……」
「ただイラつくだけなんで、お気になさらず」
最近はずっと授業中うるさくてたまらないため、ずっとイライラしているのだ。
後にそれで問題行動を起こしてしまったこともしばしばあるが、入学して間もない状態で問題は起こさない。しかし彼女も、追々とそれを知ることになる。
「とまぁそういうことなんで、俺は真面目に先生の授業を聞きますよ」
「当たり前のことなんだが……まぁ、サンキューな」
「うっす」
先生も、顔が厳ついことは置いておいて、このようにまじめに受けてくれる生徒がいると知っただけでも御の字だろう。
仕事をやめたくてやめたくて仕方がなかった日々に、やる気を与えてくれる生徒がいたのだから。
「これから帰りっすか?」
「そうだが?」
先生も教え終わったため、そして自身の仕事もかたずいているため、帰宅の準備を始める。
「……ちょっと待っててもらっていいっすか?」
「あ、おい……」
その様子を見て、翔夜は先生を待たせてそそくさと職員室を後にした。
そして一分もしないうちに帰ってきて。
「どぞ」
「これはなんだ?」
自販機で買ってきたココアを先生へと渡した。
「明日もお願いしたいんで、その貢物です」
本来そのような賄賂になってしまうものを渡したり受け取ってしまうことはダメである。
だが何度も言うが、この場には二人しかいないため黙認される。
「お前、明日も来るのか?」
「まぁ、先生に直接教えてもらったほうが頭に入るんで」
授業で事足りることなのだが、今回先生に直接教えてもらったことで授業で勉強するよりもわかりやすく頭に入ってきたのだ。
そのことに翔夜は気が付き、これからも度々伺うつもりでいた。
「やっぱ忙しいっすか?」
「……いや、別に構わないぞ」
教師にも仕事があるため恐らくは断られるだろうと思っていたが、翔夜の意に反して先生は少し考えて気さくに了承してくれた。
「お前に教えるっていう口実で、教頭の誘いを断れるしな」
「あざっす」
もちろん、教頭という悪い虫を自身から遠ざけるためということも含まれている。
「ではでは、また明日」
「おう、気を付けて帰れよ」
職員室を出て、お互いに挨拶をして別れる。
だが。
「あ、そうだ」
「まだなんかあるのか?」
ふと、翔夜は思い出したことがあったため、振り返って先生を見据えて発言する。
「俺、先生みたいな真面目な先生が担任で結構嬉しかったっすよ」
終始表情筋が働いていなかった翔夜だったが、それでも伝えることは伝えていく。
「周りからいろいろ言われているんで、一応これだけは伝えておこうと思って」
今まで出会った教師というものは、ただ授業を行えばいいとか、生徒と仲良くしていければいいとか、本当の意味で生徒と向き合ってきた者はいなかった。
そのような先生と出会えたため、翔夜はそれを伝えたのだ。
「失礼しましたー」
本人は感謝のつもりで発言した。
しかし先生からしたら、おかしな生徒に好かれてしまったものだと呆れてしまっている。
「なんだよ、あいつ……」
今までそんなことを言う生徒を見たことがない。
それでも、自分は教師になってよかったんだと、心の底から嬉しく思っている。
そのため、翔夜は見ることはなかったが、先生のその表情は朗らかなものであった。
「甘っ……」
自身の車へと戻る途中、一人さみしく生徒より貰ったココアを飲んでいた。
その表情は先程よりも嬉しそうに笑い、しかし涙を流していた。
その涙が意味するところは、教師としての自分を認めてくれたことに対してか、はたまた教師としてではなく、一人の人間として人格を肯定してくれたことに対してか。
そんなもの、本人でさえあまり理解していないことなのだ。
文字通り、神のみぞ知ることである。
===============
初めて職員室で教えてもらった日から、翔夜はほとんど毎日先生より教えを乞うていた。
「先生って他教科もいけますか?」
「おいおい、それはアタシの領分じゃねぇぞ?」
そしてある日、翔夜は担当教科だけではなくほかの教科も教えてもらえないかと打診した。
「ほかの先生より先生のほうがマジでわかりやすいんで、できればお願いしたいなって……」
正直図々しいことこの上ないが、それでも翔夜が言っていることは本心である。
別に時間があれば教えてやらんこともないと先生も考えてはいたが。
「おい、翔夜。流石に他教科は他の先生を頼れ」
「……うっす、わかりました」
こればっかりは、自分がしてはいけないと判断した。
ほかの教師の仕事を奪うような行為である上に、まだ新米であるにもかかわらずそのようなことが知られてはいろいろと人間関係が面倒なのだ。そういう教師や生徒も一定数存在する。
「というか、いきなり下の名前を呼び捨てとは、馴れ馴れしいっすね」
「あ、嫌だったか?」
まさかこの学校で一番親しくしてるのが、今目の前で勉強を教えている生徒だと、翔夜は夢にも思わないだろう。
そのため親しみを込めて下の名前で呼んだが、当の本人は少々不服であった。
「あまり気にはしませんが、ほかの生徒と区別するのは感心しないというか……」
「別にほかの生徒と同様に扱うし、それにみんなの前では名字で呼ぶから問題ないだろ」
一人だけ優遇されているのは翔夜はあまり好かず、だが先生は二人きり以外では同様に扱うと明言した。
だがそれは傍から見れば……。
「なんか、恋人みたいっすね」
「こっ……!?」
周りから関係を隠して付き合っている、恋人のようであると。
翔夜はそう思ってしまい、先生もそう理解してしまう。
そしてそのことに考えが至らなかったのか、先生は顔を赤らめさせて言葉を失っていた。
「先生って結構、初心なんすね」
翔夜という人間は、教師という知人以上友達未満のような関係にある人物には、基本普段通りの対応をしない。無表情で当たり障りのないように対応をする。
顔が顔だけに、中学時代に避けられるようなことがしばしばあったためである。
そんな翔夜が先生との会話で、初めて笑った。
しかしそんなことはどうでもよく、ただ自分の恥ずかしい姿を見られてしまったことに止む無く……。
「うるせぇ!」
「いってぇ!」
思い切り翔夜の頭を引っ叩いてしまった。
「何しやがるこのクソババア!」
「教師に向かってクソババアとは何だこの野郎!」
翔夜から手を出すようなことはなったが、しかしそれでも誰の前でも構わず件の先生に対してそんな態度をとってしまっていた。
そのせいで周りから危ない人物というレッテルを貼られてしまう要因となったのだ。
「まぁそれが、あいつがアタシをクソババアと呼ぶ理由だ」
「それ、校長先生が悪いんじゃあ……」
「そんなこと知らん」
実際に話を聞いて、別に翔夜は悪くないのではないかと、そう思ってしまう二人。
「あの、ちょっと気になったので質問いいですか?」
「なんだ?」
結奈はふと、翔夜のことについて知ってる先生ならではのことが気になった。
本当に、ちょっとした疑問であった。
「翔夜の両親……顔どうでした?」
本人は気にしているようでいるため、その両親に似てしまったのだろうと思っていた。
それが本当かどうか、気になったのだ。
「母親はともかく、父親めっちゃ怖かった……」
「あぁ……」
つまり翔夜の顔は、本当に父親譲りで怖い顔をしているのだと。
その言葉に、二人とも何とも言えないような表情で、ここにはいない翔夜へと同情してしまった。




