今宵はめでたき、皇神様の生誕祭
◆ ◆ ◆
「ナマズどもの言う通りだ。──そなたはもう、元の国へは帰れない」
不吉な宣告をする白蛇に、あたしは引きつった笑みを返した。
「で、でも、神様たちの宴が終われば、帰れるんでしょ? 屋形舟が岸に着いたら……。そうでしょ、ナマズのおじさんたち?」
「おうおう。主様のお許しさえあれば、いずこなりとも」
「手土産付きで返してくれるぞ。主様はお優しき方ゆえの……くくく」
「お土産までくれるの? 気持ちは嬉しいけど、玉手箱とかは遠慮したいな……つい開けちゃいそうだし」
浦島太郎のように、開けたらお婆さんになってしまったら悲劇だ。まだまともな恋もしていないのに!
あたしは何とか気持ちを明るくしようとしたけれど、見上げた白蛇の表情は硬いままだ。じっとあたしの瞳を見つめ、愁いを帯びた声で呟く。
「人の子。この世界は、そなたにとっては夢のように思えるかもしれぬ。だが、夢ではない。ここで起きたことは、現実にそなたの身を傷つけ、魂を蝕む」
「むしばむって……、何か怖いことが起きるの? 楽しい宴なんでしょ?」
白蛇がまだ離してくれないので、あたしはまだ、そのしなやかな体に抱きしめられたままだった。
近くで見ると、彼は本当に綺麗な瞳や肌をしている。
すらりとした鼻筋も、愁いを含んで物言わぬ唇も。
月光を燦燦と浴びて立っているせいか、まるで神の使いのように清楚で神秘的だ。
……でもその表情は、いつも心を無くしたように冷たい。
なんて言うか、白蛇って心配症だよね。いろいろ考え過ぎっていうか、悲観主義っていうか……。
もうちょっと明るく考えてもいいんじゃないかな。
「そういえば、宴って何のお祝いなの? 満月だから……管弦の宴とか、観月会とかいうやつ?」
無邪気に聞くと、ナマズたちが呆れたように顔を見合わせた。さらに、頭の上で人差し指をくるくると巻いて見せるという、失礼な仕草までして見せた。
「この娘、ちぃと頭が足らんぞ! 満月ゆえに宴じゃと!」
「夜ごと月が満ちることも知らぬとは……脳みそ半分腐っとるに違いない。憐れよのう」
「おう、腐りかけか。それはちょうどいい! ははは!」
「腐ってません!」
「ナマズたちよ。人の子の国では、月はゆるりと満ち欠けするのだ。何十日もかけて満ち、欠ける。──ほんの一夜のうちに月が一巡する、我らの世界とは違う」
白蛇が代わりに説明してくれた。
へえ、この国では、月はたった一晩で満月から新月まで変わるんだ。
早いなぁ。
それじゃあ、あたしが帰れる新月になるまで、あと半日くらい待てばいいだけってこと?
ちょうどよくその時に舟が岸に着いてくれれば、そして白蛇が小さい太陽を作ってくれれば、帰れるんだ!
「なんと! 人の国とはそのようになっておるのか! 妖しやのう!」
「妖しや!」
幽霊でも見るような眼で、ナマズ男たちはあたしを見る。
あたしからすれば、こっちの世界の方がよっぽど妖しいんだけどね。
「ねえ、その宴って半日くらいで終わる? 新月までに岸に着きそう?」
是非そうであって欲しいと願うあたしの期待を、ナマズはあっさり裏切った。
「着くわけがなかろう! 新月の刻限こそ、宴の盛りぞ!」
「腐りかけの小娘よ、耳の穴かっぽじってようく聞くがよい! 今宵の宴はな……お誕生日祝いなのだ」
ナマズ男二人は顔を見合わせると、声をそろえて言った。
「この世で、最も尊き御方の」
偉大な言葉を口にするような厳かな口調だった。
──この世界で最も尊い人って、誰? 竜宮城で言えば乙姫様だけど……?
問うように白蛇の顔を見上げると、彼は何やら難しげな表情で考え込んでいる。
「この世界の主たる偉大なる神」
「八百万の神々が国中よりはせ参じ、御神の誕生されし日月を祝う」
「あらゆる宴の中でも、最も盛大なる大祝宴!」
「皇神様の生誕祭である!」
「おおー!」
「おおおおーーー!!」
感極まった声を上げ、ナマズたちは突然後ろを向いて礼拝しはじめた。
その忠誠心にも驚いたが、告げられた内容にも度肝を抜かれた。
「ちょっと待ってよ! この世界で一番偉い神様のお誕生日!? そんなすごい人の宴に、あたしなんかが行ったら場違いだよ! テーブルマナーも知らないし!」
触らぬ神に祟りなし。
下手なことをして怒らせでもしたら大変だ。
歌だって、音痴じゃないとは思うけど、神々の王様に喜んでもらえるような美声には程遠い。そもそも、緊張してまともに歌える自信がない。
拒絶を表わすべく、両手をぶんぶんと横に振るが、ナマズたちはあっさり笑い飛ばした。
「良い良い! 人の子は珍しいゆえな!」
「見ているだけで可愛いものよ」
「そ、そう言ってもらえると助かるけど……でも……でもね…」
とても言いにくい。
宴会場に行く前に、ちょっと女性用のお手洗いを借りたいのですが、とは。
何しろあたしは、美少年に抱きすくめられている。
恥ずかしくてとても言えない。
せめて手を離してくれたら、言い出せるんだけど……。
上目遣いに白蛇の様子を伺うと、もじもじするあたしの懸念を勘違いしたらしく、きっぱりと言った。
「無理に宴に出る必要はない。どこかに隠れていれば、難を逃れ得るやも知れぬ。地下の物置部屋や厠であれば、かの君は近づかぬ」
「あ、そうなの! 実はね、宴の前に、お手洗いをちょっと貸して欲しくって……」
恥を忍んで言ったあたしに、『生』男がニタニタと笑った。
「それは主様のお心次第じゃなあ。舟のものは全て、主様のものゆえ」
「そもじは異邦人ゆえ、まずは宴の間で、主様にご紹介せねばならん。皇神様にご挨拶もせずに便所に隠れおるなど、わしの目が黒いうちは決して許さぬぞ!」
「わかりました。じゃあ、まずはその主様のところへ連れてって」
「おうおう! 物わかりの良い娘じゃ!」
「ほんに頭が悪くて助かったぞ」
褒めているんだか貶しているんだか分からないことを言い、ナマズたちが上機嫌でのしのしと歩き出す。
舟の揺れは、もうかなり収まっていた。
白蛇がさりげなく、支えてくれていた腕を離す。
本当に宴に行くのか? と問いかけるような眼差しでこちらを見る。
心配そうな、でも他にどうしようもないという歯がゆさを秘めた瞳で。
あたしは小声で謝った。
「白蛇、ごめんね。せっかく道を作ろうとしてくれたのに、勝手なことして。でも迷惑はかけない……かけないようにする! ちょっとだけ挨拶したら、すぐにお手洗いにでも閉じこもって、岸に着くまで静かにしてるから。心配しないで」
「……そなたには非はない。ナマズを呼んでしまったわたしがいけないのだ。──気をつけよ。あの者どもは、間者だ」
カンジャ?
それって、スパイの事だよね。
「ナマズを呼んでしまったって、どういうこと?」
「何から何まで、主に報告する。わたしの動向も、そなたの言動も。……悔やむのは」
白蛇は袖に模様の入っていない右腕を見つめると、音もなく握りしめた。
くっきりと血管や筋が浮かび上がるほど、強く。
「この手にもう少し力さえあれば。誰に悟られることなく、月を動かせたものを」
想いを押し殺したような、低い声音だった。
伏せた瞳には、冷たい炎が宿っている。
冷静な白蛇が、こんな表情を──激情に灼かれそうな瞳をするなんて。
目が離せない。
壮絶に怖くて、でも美しい。息をつめた白蛇の横顔は、もの凄く鋭利で危険なガラスの破片のよう。
バラバラに砕けたその破片を全部繋ぎ合わせたら、信じられないくらい綺麗な芸術品が見られるような気がする。
でも過って触れれば、自分が傷だらけになりそう。
そんな風に思わせられる、美しく孤高な横顔だった。
白蛇はどうして、こんな顔をするの?
胸に蘇るのは、彼が月を動かしていた時の光景だ。
確か最初は、右手だけで水面の月を削っていた……。
だけど、『力が足りない、今夜はあの方の力が強すぎる』って言って、左手も使い始めた。
そうしたら、力は増して月はどんどん細くなっていったけど。
左袖に描かれた水草模様も揺れ始めて、そこからナマズが飛び出した。
スパイだという、ナマズ三匹が。
ナマズたちはうるさく騒いで時間切れになり、あたしはしばらく舟から出られなくなってしまった。
──だから白蛇は、左手を使いたくなかったんだ。
スパイのナマズたちに見つかってしまうから。そうしたら、あたしを帰すことが難しくなるってわかっていたから。
それで右手だけで月を削っていた……。
その力不足を、悔やんでいる。
無性に謝りたくなった。
きっと謝っても白蛇は『そなたのせいではない』って言って、胸に秘めた激情の炎が休まるわけではないだろうけど。
少しでも、荒れた心が穏やかになってくれれば……。
「ごめんね、白蛇……」
これ以上、何を言えばいいか分からない。
黙って見つめると、白蛇はこちらを見た。
凍りそうに冷たいものが手首に絡みつく。白蛇の左手があたしの手首をつかみ、ぐっと胸元に引き寄せた。
「謝る必要はない。それよりも──約束を忘れるな」
約束……って、あれだよね?
厠で見たものを、誰にも内緒にするっていう。
「出来得る限り、そなたを守ろう。わたしの目の前では、かの君もそなたに手は出せぬ。遠き昔に交わされた約定ゆえに」
それ、さっきもナマズに言ってたよね。『人の子を誘い込むのは約定を違える』って?
約定って何?
手を出すってどういうこと?
ま…まさかとは思うんだけど……、神様の王様って、ものすごい女たらしだとか?
王様っていうからには、男の神様だよね。
どうしよう……「人の子は見ているだけで可愛い」とかって求婚されちゃったら!?
──いやいや、冷静に考えて、あたし相手にそれはないでしょ。
しょうもないことをぐるぐる考えていると、白蛇が眉をひそめて呟いた。
「かの君が、迷い込んだ人の子をいかに遇するか、わたしにも想像がつかぬ。すぐに帰せと舟を戻させるやも知れぬ。珍しき者よ、としばし留め置かれるかもしれぬ。いずれにせよ、わたしが必ずそなたを国に帰す。だから、約束だけは守ってほしい」
懇願の色を帯びた眼差しに、冷え切った指。
白蛇がどんなに真剣か、別の世界から来たあたしにもはっきりわかる。
……そんなに思いつめなくてもいいのに。
厠の中での事なんか、誰にも言わないよ。
「大丈夫。あたし、口は堅いから。そんなに心配そうな顔しないで。……笑って。お祝いの宴なんでしょ?」
微笑みかけると、白蛇は二、三度目を瞬き、冷たそうな唇を少しだけ緩めてくれた。
いかにも不器用そうな笑みは、まるで久しぶりに笑ったかのよう。
完全に心を許した笑顔には程遠かったけど、とりあえずこれで十分だと思った。
「さあ、行こう! 神様たちの宴に」
冷えた白蛇の左手を温めるように握って、引っ張る。
少し先で待っている、生頭たちに追いつくまで。
指先だけでなく、その心まで温められたらいいのに、と願いながら。
──この時あたしの心には、ひとかけらの不安もなかった。
白蛇が綺麗で優しいから。みんなそうだと勘違いしてしまったんだ。
華やかな屋形舟に、輝く満月、八百万の神々の祝宴。
妖とはいえ、美しく神秘的な少年との出逢いに、心がすっかり浮かれていた。
ちゃんと思い出すべきだった。
この世界で最初に見たものを。
不気味な壁画の暗い小部屋で、密談にふけっていたのは──異形の化け物ばかりだったことを。