あの時の親子
職場についたのは、7時過ぎだった。誰もいないだろうなあと思っていたら、隣の係の田中さんがひとり黙々と仕事をしていた。
田中さんとはあまり話をしたことは無いが、僕より2つ先輩で、もの静かでどこか神秘的な人だった。
「おはようございます。何か急ぎの仕事ですか?」僕が言うと、「いや、朝は効率が良いので」そう言ってまたパソコンを打ち始めた。
遠くで、コピー機が動く音がしていた。プリンターからも何やら忙しく出力されていた。
僕も早速席に着き、昨日のたまった書類の処理にかかった。
結構な量の書類がたまっていたが、自分でも驚くくらい集中して仕事ができ、出勤時間の8時30分頃にはほぼ処理が終わった。
一仕事終わった僕は、休憩室へ行った。自販機でコーヒーを買いながら、田中さんの言葉を思い出していた。ちょうどその時、田中さんも休憩室へ入ってきて二人でコーヒーを飲んだ。 「確かに効率いいですね」僕が言った。
「日中と比べてどのくらい効率UPしたと感じた?」田中さんが聞いてきた。
「そうですね、電話も、来客も、上司からの話しかけもなかったので5割増しくらいですかね」 僕は言った。
「1.5倍か。低いね。」田中さんは言った。
「えっ、低いですか?」 僕は驚いて田中さんを見た。
田中さんは薄っすら笑いながら言った。「ここだけの話だよ。真似する人が増えると困るから」
「分かりました」僕は言った。
「今日の場合、約3倍の効率かな」田中さんは言った。
「3倍ですか?うそでしょ」僕は言った。
「本当だよ。内訳はね、石倉君の言う通り外乱が無いことによりプラス0.5。コピー機、プリンターなどの独占並行使用でプラス1.5だよ。
朝6時から出勤時間の8時30分までで日中の約8時間分の仕事ができる。早起きは3倍の得だよ。」田中さんは言った。
「じゃあ日中は仕事が無いでしょう?何しているですか?」僕が聞くと、「業務改善かな」田中さんはそう言いながら、鼻の前に指を立て内緒のポーズをとった。
その日以来、僕は、田中さんに色んなことを相談するようになった。田中さんの回答は、いつも僕を休憩室から元気よく送り出してくれる
的確なものだった。いつしか田中さんは僕にとって兄のような大切な存在になっていた。
それはその日の午後3時頃だった。朝早くから仕事をしたせいか睡魔がちょうど襲ってきたときだった。
遠くから「おにいちゃん」と呼ぶ声が聞こえ、はっと目が覚めた。
声のする方を向くと、昨日の病院の女の子がこっちを向いて手を振っていた。
「やあ」僕は立ち上がって女の子の方へ歩いて行った。
「もうだいじょうぶなの?」僕が聞くと、「もう元気になったよ」 かわいく、くくった髪を揺らしながら女の子がうれしそうに言った。
母親もベビーカーを押しながらこっちへ向かって来た。
「昨日はお世話になりました。一言お礼をと思いまして」母親が言った。
「それはわざわざご丁寧にありがとうございます。しかし僕が市役所で働いているのがよく分かりましたね」僕は言った。
母親は笑いながら言った。「市役所には時々来るんですが、以前、あなたが網とかごを持って車で出動する風景を見ました。
いったい何を捕まえに行くんだろうと印象深く記憶に残っていましたので」
「そうでしたか。それはきっと、通報を受けて、いのししの赤ちゃん“うりぼう”を捕まえに行ったときですね」僕は答えた。
「いのししでしたか。市役所の人も色々大変ですね」母親が言った。
「ねえ、お母さん早く渡してよ」女の子が母親の服を引っ張りながら言った。
「これこの子が書いた手紙です。読んでやってください。それから、これ、使ってください」そう言って母親は、可愛らしい手紙とテッィシュ5箱パックをくれた。
「ありがとうございます。ティッシュもちょうど無くなっていたところだったんです」僕は素直に、女の子と母親にお礼を言った。
ベビーカーの赤ちゃんはすやすやと眠っていた。
「それじゃ失礼します。お仕事頑張ってください」母親はそう言って女の子の手を引いて帰ろうとした。
「おにいちゃん手紙読んでね」女の子はそう言ってバイバイと手を振った。
「うん。分かった」そう言って、僕もバイバイと手を振った。
僕はしばらく、親子の後ろ姿を見送っていた。女の子が途中で何回か振り返ってバイバイと手を振ったので、僕もそうした。
やがて親子の姿が見えなくなり、僕は机に戻った。机に戻ると、みんながこっちを微笑ましい顔で見ていた。嫌な予感がした。係長が何やらにやにやしながらやって来た。
「おーい石倉、美人の奥さんじゃないか。お前いつの間に結婚したんだ。しかもあんなかわいい子供もいたのか」
やれやれそう来たか。
僕の係には変わった風習がある。係長が冗談を言ったときには、機転を利かした冗談を返すというものだ。冗談をきっかけに職場風土を良くしようというのが係長の持論だが、単に、係長の冗談好きが高じたものである。
若い女の子にとっては冗談返しってのが結構つらいようであるが、人がからかわれているのは楽しいのか、誰も止めようとは言わない。
今日もまた「石倉くん。いまいちだね」って言われるんだろうなと思いながら冗談返しをした。
「そうなんですよ係長。女の子が7歳。男の子が1歳の時に結婚したので8年分も育児得しちゃいました。しかも嫁さんが子持ちとは思えないほどの新車状態でしょ。こりゃーお買い得でしたよ!」
「いいねえ~石倉くん。今日はGoodだよ Good」 係長がうなった。
「石倉さん。すごいこと言いますね。見る目変わりました」 2年目の女子職員が言った。
「冗談だよ 冗談」 僕はそう言うしかなかった。
「よーし。定時まであと2時間。効率よく仕事をやるぞ」係長が僕の肩をたたきながら戻って行った。
僕は貰ったテッィシュを机の下に収め、女の子からもらった手紙を開いてみた。
それは、子供とは思えない丁寧な字で書かれてあった。
「おにいちゃん。きのうはありがとう。のぞみはすっかりげんきになりました。おにいちゃんもからだにきをつけておしごとがんばってください。さいとうのぞみより」
そして2枚目には4人の可愛らしい絵が書いてあった。お母さん、のぞみちゃん、りくとくん、そして “おにいちゃん”と。
あれ、お父さんがいない。僕の頭を、さっき自分で言った冗談がかすめた。
悪いとは思いながら、僕は市の住基システムへアクセスし、さいとうのぞみちゃん一家のことを調べた。
予感が的中した。お父さんは、2年前に31歳の時に亡くなっていた。「母子家庭だったんだ」 僕はパソコンの画面を見ながらそうつぶやいた。お母さんの転居元を見ると県外であり,結婚と同時にこっちへ引っ越してきたパターンであった。
「2年も経つと,亡くなった旦那の親には子供を預けにくいのかな~」僕は先日の病院でのことを思い出しながらそう思った。