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スイート・ルーム・スウィート

作者: せりざわ。

 私は改札前で立ち尽くしていた。

 「台風のため全線運転見合わせ」という電子掲示板の文字が現れては消える。その繰り返し。

 バッグの肩紐が鎖骨に食い込んで痛い。パソコン、手帳、プレゼン資料、見積書……営業マンの武器も、いまはただのお荷物でしかない。それでなくても泣きたくなるのに。


『小学生だってもう少しまともな用意するよ? 新商品の売り込みに来てサンプル忘れるってどういうこと?』


 今日訪問したM社での言葉。思い出したくもないのに、執拗に思い出してはじんわりと目頭が熱くなる。化粧室であんなに泣いたのに、まだ足りないらしい。

 電車を諦めてタクシー乗り場に移動したものの、長蛇の列だった。荷物が重くて、とてもじゃないけど何時間も待てない。


「ダメだ、今日はどこかに泊まって、明日始発で戻ればなんとか」


 早速スマホで近くのホテルを探した。駅近く、上限九千円、一泊。

 検索。

 「満室」「空室なし」「お部屋を用意することができません」考えることはみんな同じで、駅近くのホテルは軒並み埋まっている。


 お願い、お願い、お願い。

 金額の上限を外し、空室を一斉に検索。


 一件だけヒットした。


「……んまん、三万八千円っ!」


 声が裏返ってしまった。会社の設定金額をはるかに上回る。自腹確定。


「しかもスイート・ルームなんて」


 いっそのこと、と近くのネットカフェを探してみたものの、徒歩四十分という表示に気持ちが萎えた。

 慣れないスーツとパンプス、荷物は重いし傘もない。雨風は強くなる一方。

 うらめしく見上げた夜空には、ホテルの看板が明るく灯っていた。

 ホテル菖蒲しょうぶ

 どこかで見た覚えのある名前だった。

 答えは簡単。たった一件ヒットしたスイート・ルームがあるホテルは、目と鼻の先で私を待ちかまえていたのだった。



「いらっしゃいませ。ホテル菖蒲にようこそ」


 甲高い声に出迎えられる。

 ガラス扉を入ってすぐ左手がフロントだった。思ったよりもロビーは広く、売店も入っている。間接照明が多く、和紙を用いた照明は暖かみがあって癒される。観光地の旅館を思い起こさせるしつらえだった。


「先ほど予約した鷲見すみ 華子はなこといいますが」


「スミ様ですね、ようこそおいで下さいました。早速ですが宿泊に際してのご説明をさせていただきまぁす」


 館内設備、非常口、朝食の会場、チェックアウトの時間etc。大事なことだけど、荷物が腕にめり込んで上の空。床に置けばいいんだけど、濡れているのでつい遠慮してしまう。どこまで情けないんだろう私。


「お夕食はどうなさいますか? お部屋にご用意することも館内のレストランで召し上がって頂くこともできます。もちろん料金に含まれております」


 宿泊なんて予定していなかったので、着替えは用意していない。よれよれスーツでレストランに行くのは気が引けた。


「部屋でお願いします。少し休みたいので、こちらからフロントに電話をします」


「かしこまりました。それでは、ごゆっくりとおくつろぎくださいませぇ」


 声の高さには慣れてきたけど、最後の「せぇ」はだめ押しのようにイラっとした。

 なにはともあれ、ようやくカードキーを渡され解放される。建物内は入り組んだ構造で、エレベーターまでの道のりが遠かった。

 休みたいと言ったのは本心だけど、実際は休めないだろう。なんといっても最大の難関が待っている。

 社会人の宿命。

 ほうれんそう。

 上司への報告である。


『サンプルを忘れた? ふざけてるのか?』


 賑やかな音楽に重なって課長の暴言が飛んでくる。お酒の席なら説教は短くて済むと期待していたけど、そう簡単にはいかないらしい。いつも以上に言葉がきつい。


『懇意にしている客だからいいようなものの、新規だったら出禁だぞ。分かってるのか?』


「申し訳ありません」


『三年目になって多少使えるようになったと思ったオレが間違いだった』


「……申し訳ありません」


 反論の余地はない。独り立ちのチャンスを台無しにしたのは自分だ。謝るしかない。


『どうせ失恋して、ぼーっとしてたんだろ』


 風船だと油断していたところへ爆弾を投げつけられたような衝撃だった。


「か、関係……ないじゃないですか」


 体中がカッと熱くなり、声が震えた。


『なんだよ、生意気だな。もっと反省しろ。今回の経緯を報告書十枚にまとめて今日中にメールしろ。いいな、今日中だからな』


 乱暴に切れたスマホの画面に時間が表示される。時刻は二十時半。今日が終わるまであと三時間半。悪夢だ。



 ぐぅーとお腹が鳴った。十枚の報告書を書ききり、送信ボタンを押したところだった。

 ニ十ニ時四十分。なんとか間に合った。

 ホッとして、スマホの個人メールを開いた。

 新着メールが一件。同じ会社のカナ先輩からだった。美人なのに竹を割ったような性格でとても頼もしく、公私ともに仲良くしている。先ほどの宴席に一緒にいたらしく、課長は契約がまとまらずに苛立っているだけと慰めてくれた。

 カナ先輩の心遣いはありがたい。だけど、私が期待していたメールとはちがう。

 一昨日まで当たり前のように交わしていたあいつとのメール履歴が眩しい。


『――ゴメン、好きな人ができたんだ。同期の子。ゴメンな』


 昨日、出張の準備中に電話が鳴った。単身での顧客訪問は初めてで浮き足立っていたところへ、一方的な別れが告げられたのだ。

 どちらかといえば口下手で、毎晩のやりとりもメールばかりだったあいつが電話をくれたのはせめてもの誠意だったのかもしれない。嘘も隠し事もできない不器用なヤツだ。たまらなく好きだった。


『あぁ、そっか、仕方ないよね、別れよう』


 自分でもなにを言っているのか分からなかった。言葉と意識が一致しなくて、頭の中が真っ白になって、見ている景色が薄くなっていった。電話を切ったあと、なにをどう詰めたのか分からないカバンを掴んで無我夢中で会社を飛び出した。


 人生で初めてできた彼氏だった。大学のサークルを通じて仲良くなった。仕事の悩みを聞いてくれたり、気晴らしにと外に誘ってくれたり、一緒にいると楽しかった。

 仕事にも慣れてきて、そろそろ一緒に暮らしたいと思っていたのに……。


 ふたたびお腹が鳴った。どんな状況でも腹は減るのだ。報告書に集中している間に雨脚は弱まったみたいだった。窓ガラスを伝う雨垂れも細い。さすがスイート・ルームだけあって窓が大きい。こんな天気じゃなければ夜景が綺麗に見えたはずだ。つくづく運に見放されている。


 そこでハッとした。報告書に気を取られていて、食事のこと電話していない。

 慌てて受話器を手に取ったとき、ノックとともに扉の向こうで声がした。男性の声だ。


「食事係の者です。夜分遅く申し訳ありません。お食事をお持ちいたしました。失礼してもよろしいでしょうか?」


 入室の許可を求められ、私はパニックになった。「ちょっと待ってください」と叫んで姿見の前に立つと、案の定、髪はボサボサ、動き回ってスーツはよれよれ、ストッキングには泥がついている惨めな私が映った。戦いに負けた落ち武者みたいだ。

 せめて髪の毛だけでもと思って手櫛で梳いたけど、元々ボリュームのないぺたんこ髪なので、雨に濡れたいま、もはや重力に逆らう力は残されていない。


「すいません、もう少し、もう少しだけ」


 と謝りつつ洗面所に走った。ドライヤーをコンセントにねじ込み、毛根を立たせる。ついでにマスカラが落ちたパンダ目も……。とあれこれ手を入れていたら、かなりの時間が経ってしまった。


 ようやくまともな姿になり、おそるおそる覗き穴を見たけど、誰もいない。そりゃそうだ。人間だもん、待ちくたびれちゃうよね。

 申し訳なさを噛みしめながらも、念のため扉を開けてみた。すると、扉の先に人影があった。ホテルの制服を着た背の高い男性だ。軽く染めた髪に、整った顔立ちが目を惹く。ホテルマンらしい接客用の笑顔でいる。


「お食事をお持ちいたしました。入ってよろしいですか?」


 と傍らのサービスワゴンを示す。


「もしかして、ずっとここで?」


「当然です。わたしのために身支度を整えてくださったんですから」


 「春浦はるうら」という名札をつけた男性はワゴンを押して部屋に入ってくる。社長室にでもありそうな革張りのソファーに座った私の前で準備をはじめた。

 時刻は二十三時。いま白米を食べたら絶対に太る。だけどせっかく用意してくれたものを断るわけにもいかない。

 などと逡巡している間に、春浦さんは慣れた手つきで支度を整えた。白いテーブルクロスの上に並んだ品々を見て、私は目を疑う。


「時間も遅いので、和食をメインにしております。白米ではなくこんにゃく米の雑炊を、ドレッシングがいらないよう軽く塩ゆでした野菜に、ゴマの和え物や豆腐、麩のすまし汁をご用意いたしました」


 言葉が出てこない。これ、私のための特別メニューだよね?


「デザートは豆乳プリンです。どうぞお召し上がりください」


 勧められるまま、夢中で手をつけた。空っぽの胃袋に心尽くしの料理がしみていく。

 不思議。お腹が空いていたときはあんなに惨めで淋しかったのに、満腹になると心まで温かくなる。最後のプリンも甘くて美味しい。

 私の食事中、浴室に姿を消していた春浦さんは腕まくりを直しながら戻ってきた。


「お風呂を立てておきました。レモングラスを入れましたのでゆっくりできると思いますよ。部屋着もございます。お召しものをランドリーボックスに入れて頂ければ、明朝にはクリーニングしてお渡しできます」


 まさに至れり尽くせり。これがスイート・ルームなのね。


「なにか他にご要望はございますか?」


「いえ、もう十分です。ただただ、スイート・ルームってスゴいなぁって驚いています。宿泊客を甘やかしすぎです」


 私の言葉に、春浦さんはにこやかに答えた。


「僭越ながら訂正させて頂きますと、スイートの綴りは甘いという意味のsweetではなく、一揃いという意味のsuiteです。発音が同じなので誤解されますが」


「一揃い? なんでも揃うんですか?」


「ご要望があれば、どのようなことでも」


「彼氏、でも?」


 と口にした瞬間、自分のバカさ加減に気づいた。照れ隠しに、春浦さんが煎れてくれたハーブティーを口に運ぶ。あぁ美味しい。

 春浦さんは笑っている。冗談だと受け取られたなら良かった。いくら失恋したばかりだからって、阿呆だ。


「わたしはホテルマンとして、このお部屋にお泊まりになった方の要望はなんでもお聞きしたいと思っています。もしスミ様が彼氏をと望まれるならば……」


 春浦さんが体を傾けてくる。ホテルマンと客の立ち位置じゃない。体温が迫ってくる。

 やっぱりヤだ。思わず顔を背けた。春浦さんはそれが分かっていたかのように素早く体を反転させ「客」との適切な距離をとった。


「ごめんなさい、私、バカで」


 いつだって言ってから後悔する。あいつにだって、別れたくないってちゃんと言えば良かったのに。


「いいえ。ご自身を卑下なさらないでください。疲れていらっしゃるんですよ」


 やわらかな微笑みに救われる。


「それでは、わたしはこれで」


 と言いかけた春浦さんの声をスマホの着信音が遮った。まさか、と画面を見ると課長だった。最悪の相手だ。お酒が入っている分、長話するに違いない。


 どうしよう、でたくない。だけど。


 スマホを持ったまま、なかなか決心がつかなかった。


 でる、でない、でる、でない……。


「先に謝っておきます。申し訳ありません」


 すっと伸びてきた手が、私からスマホを取った。春浦さんだ。呆気にとられている間に電話に出てしまう。


「はい、こちらホテル菖蒲でございます」


 電話口に出た男性の声に、課長も驚いたらしい。まったく声が聞こえない。


「当ホテルでは、お客様にゆっくりお休み頂くため、二十三時以降のお電話は自動的にフロントに転送されるサービスを取り入れております。差し支えなければご用件をお伺いいたします」


 よく考えれば有り得ないサービスなんだけど、春浦さんは堂々としている。


「はい、さようですか。恐れ入ります。それでは明日改めてお電話をお願いいたします。はい、失礼いたします」


 通話を終えた春浦さんは、私にスマホを返しながらふたたび謝罪した。


「不審者を見るような目をしないでください。ホテルに男を連れ込んでいると思われないよう、必死に考えたんですよ」


 笑うと、急に顔が幼くなる。大人びて見えたけど、案外若いのかも知れない。


「どうして、でてくれたんですか?」


「お客様の状況を見極めた上で、なにをしたいのか、なにを求めているのかを考えるのがホテルマンの仕事ですから」


 春浦さんは深々と一礼して、今度こそ部屋を出て行った。


「おやすみなさいませ。どうぞ、良い夢を」


 花びらを浮かせた大理石風呂に浸かりながら、私は春浦さんのことを考えていた。スマホを受け取ったときに触れた指先を思った。体が熱くて、すぐにでものぼせそう。

 特別メニューを用意してくれたのも、私が叱られないよう電話に出てくれたのも。

 ぜんぶ「サービス」なんだよね?



 キングサイズのベッドの寝心地は最高だった。肌になじんでくるシーツも、枕の弾力も絶妙。だからというわけじゃないけど、すっかり寝過ごしてしまった。

 電話の着信音で目覚めたとき、課長からの叱責だと覚悟した。


『おはよう。よく眠れた?』


 カナ先輩だ。一気に肩の力が抜ける。


「はい、とてもよく眠れました。実は、まだホテルで」


『課長には私から話をしたから、ゆっくり朝食を楽しんでくるといいよ。夜中に報告書を書かせた件、反省しているみたい』


 先輩の機転で、せっかくの朝食バイキングを食べ損ねずに済んだ。品数が多く、デザートも何種類か用意されている。迷いつつもプリンを選んだ。

 すれ違うホテルスタッフの中に、春浦さんの姿はない。会ってどうこうじゃないけど、お礼が言いたかった。課長の電話に怯えずに熟睡できたのは春浦さんのお陰だから。

 名残惜しい気持ちで部屋に戻り、クローゼットを開けた。

 アイロンがかかったシャツとスーツがかけられている。新品のストッキングも未開封の状態で置いてあった。泥がついていたパンプスはピカピカに磨かれている。

 仕事の早さに感心しつつスーツを手にとると、胸ポケットに紙が入っていた。


『ゆっくりお休み頂けましたか? またのお越しをお待ちしております。春浦』


「え、なにこれ」


 端正な文字のあとに、人だか宇宙人だか分からない絵が描かれている。スーツを着ているみたいだから、もしかして似顔絵?


「なんか、イメージと全然ちがう」


 思わず声を出して笑ってしまった。

 こうやって笑わせてくれるのも、サービスの一環なのかも知れない。思えば私は、課長に連れられるまま客先を訪問していたけど、訪問先の企業理念や業績や将来ビジョンを一切調べていなかった。そんなんじゃ、相手の求めているものなんて分からない。帰ったら顧客の情報を一から収集しよう。それで今回の失敗を挽回するんだ。

 スーツに着替え、似顔絵つきのメモをそっとポケットにしまいこんだ。


 『またのお越しを』は「また会いたい」って解釈してもいいよね?


   ※   ※   ※


 二週間後、ふたたびM社を訪問した。資料、プレゼン、サンプル。できることは全部やった。じっと資料をにらんでいた担当者は、おおきく息を吐き出す。


「きみの熱意には参った。購入の方向で検討させてもらうよ」


 苦笑いしながら、降参とばかりに手を振った。その言葉で、この二週間の苦労が報われた思いだった。


「しっかし、ウチのことよく調べてきたね。経営理念なんて、言えない社員も多いのに」


 相手の状況を見極めた上でなにを求めているのかを考える。春浦さんの言葉だけど、営業も同じだ。


「ありがとうございました」


 深く深く頭を下げ、意気揚々と会社を出た。


『契約とれたの? すごいじゃない。M社の担当って若い子をいじめるのが趣味だっていうのに』


 カナ先輩に祝福されて、顔のにやつきが止まらない。


「えへへ。さっき課長にも報告して、お褒めの言葉を頂きました。おれの目は節穴じゃなかった、って鼻息荒かったです」


『素直じゃないね。嬉しくて仕方ないのに』


「分かってます。先輩も、資料集めに付き合ってくださってありがとうございました」


『いいのよ、今度ランチおごってくれたら』


「はいはい、分かりました。それで、明日お休みを頂きますのでお願いします」


『ずいぶん急ね?』


「もう一人、お礼を言いたい人がいるんです」


 私はホテル菖蒲の看板を見上げた。



 入口のガラス扉の向こうに、春浦さんの姿を見つけた。私の到着を待ちわびていたように、扉を開けて出迎えてくれる。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」


 チェックインを済ませた私の荷物をスイート・ルームまで運んでくれる。


「どうしてもお礼が言いたくて」


 部屋に入った私は、右手に提げていた箱を開いた。細かい模様が入ったおしゃれな容器を見て、ウェルカムドリンクの用意をしていた春浦さんの手が止まる。


「プリンですか」


 ネットで評判のお店に寄って買ってきたけど、春浦さんが気に入るかは分からない。私は「サービス」できるほど、まだ春浦さんのことを知らないのだ。


「このお店、お昼からの三時間しか営業していないお店でしょう? ここから電車で一時間以上かかる場所だ。あなたは揺れる電車の中を、大事に運んでくださったんですね」


「そ、そんな大それたことじゃなくて、ほんの気持ちなんです。もし好きでなければカノジョにあげてください」


 本当は喜ぶ顔を見たいのに、つい弱気になって心にもないことを言ってしまう。顔だってまともに見れず、うつむくしかない。


「カノジョなんていませんよ。だからこれはわたしのものです」


 うつむいた私と視線を合わせるように、春浦さんが膝をついて顔を覗き込んでくる。


「どうせなら、一緒に食べましょう」


 プリンを皿に乗せた春浦さんは、用意していたフルーツや生クリームを盛り付けてあざやかに彩った。スプーンとフォークを並べ、私の向かいのソファーに腰を下ろす。


「ホテル側には内緒にしてくださいね。就業時間中にサボったこと」


 とスプーンを唇に押し当てて微笑んだ。つまりこれは「サービス」じゃないってこと?

 そう思うと体が熱くなってきて、評判のプリンの味もよく分からなくなる。会話もままならない状態で、黙々とスプーンを動かした。


「ついてますよ、生クリーム」


 ぱっと顔を上げると、すぐ真横に春浦さんの顔があった。ナプキンで口の端を拭いてくれる。頬に触れた指の圧力に、心臓がバクバクと鳴った。頭が真っ白になって、考えてもいなかった言葉がせりあがってくる。


「あの、私、また来ます。泊まりに来ます。その間だけでいいんです。その間だけ、私の恋人に、なってくれませんか――?」


   ※   ※   ※


「それで? チェックアウトするまでの時間は、恋人として過ごしているの?」


 レストランで向かい合って座ったカナ先輩が、呆れたようにレモンティーをかき混ぜた。


「恋人と言っても、春浦さんは仕事中だからお喋りだけです。敬語を使わないとか、一緒に食事をとるとか、その程度で」


「でも連絡先を聞いてないんでしょう?」


 カナ先輩の目つきが鋭いので、私は逃げるようにアイスティーをすすった。


「M社の担当者さんが私を気に入ってくれて、新規のお客さんを紹介してくれたんです。出張する頻度が多くなったし、私もあらかじめホテルが決まっている方が安心で」


「宿泊するのはスイート・ルーム限定なんでしょう? 会社の補助も少ないからほとんど自腹じゃない」


 会社の補助は九千円まで。出張手当を考えても二万以上は自費だ。三年目のお給料では正直きつい。


「たしかに一般客室も空いていますけど、彼の担当は主に最上階らしくて」


 カナ先輩はレモンティーを飲み干すと、豪快に机に置いた。


「華ちゃん、来週L社に行くのよね。私も同じ日に研修があるの。お金は出すから、泊まらせてくれない? スイート・ルームに」


 挑戦的な眼だった。空っぽのグラスを伝う滴のように、私もじわりと汗をかいていた。



「スミ様、いらっしゃいませぇ。……ん?」


 すっかり顔なじみになったフロントの加藤さんは、宿泊者名簿と、私の横に立つカナ先輩の顔を交互に見た。

 それもそうだ。いつも一人で訪れる私に連れがいるんだから。


「一度でいいからスイート・ルームに泊まってみたくて」


 と笑ってチェックインを済ませたカナ先輩は、キャリーバッグを引いてCAのように歩いていく。追いかける私を振り返りもせず、入り組んだ通路を抜けてエレベーターホールにたどり着いた。すぐに降りてきたエレベーターに乗り込んでから、思わせぶりに微笑む。


「チェックインも済ませたし、ここから恋人モードになったわけね。彼氏さんとはどこで待ち合わせ?」


「最上階のエレベーターホールで待っていてくれることが多いですけど……。先輩、そろそろ教えてください。目的はなんですか?」


 私の問いかけに、先輩は険しい顔つきで腕を組んだ。

 

「はっきり言うとね、個人的な考えにしろホテル側の意向にしろ、私は詐欺に近い行為だと思っているの」


 詐欺。その言葉に、強い衝撃を受けた。


「考えてもみなさい。傷心の女性に若い男を近づけて恋に落とし、高いお金をとっているのよ。ホテルの外で接触しないのがその証拠。現にあなたは彼に会いたいがために複数回スイート・ルームをし、ホテル側の収益に貢献している」


 そんなはずはない。一方的に恋したのは私で、恋人になって欲しいと言ったのも私だ。


「お客様の心理を考え抜いて行動するホテルマンなら、台風の夜、頼るあてがなくてスイート・ルームを予約した女性客の現状を推察するのは簡単じゃない?」


 そんな。そんなこと。

 否定したいけど、湧き上がった疑問は消えない。春浦さんは決して連絡先を教えてくれない。それはあくまでも「サービス」だからなの? ホテルの売り上げに貢献するからなの?

 私の想いを無視するように、エレベーターはしずかに停止する。最上階だ。扉が開く。

 開ききるのを待たずに、カナ先輩が先に飛び出した。


「あなたが春浦 あつしくんね」


 扉の向こうにいた春浦さんは、突然フルネームを呼ばれて驚いたように目を見開いた。


「いまは大学生で、アルバイトをしているけど、将来的にはこのホテルに就職したいと思っているのよね」


「……どうして?」


 春浦さんは、傍目でもはっきりと分かるほど顔色を変えている。


「私の地元、ここなの。大学も近いから、調べようと思えばいくらでも。あなたに悪意はないかもしれないけど、大事な後輩が金欠で困っているのを放っておけないからね。分かるでしょう?」


 淡々とした言葉が、春浦さんを追い詰める。ついには肩を落としてうつむいてしまった。私はじっと言葉を待つ。

 ようやく顔を上げた春浦さんは、力のない目で私を見つめる。


「大学を出たらこのホテルに就職したいと思っていて、そのためにはリピート客を増やさなくちゃいけなかった。だから……ゴメン」


 いいの。平気。私が勝手に好きになっただけ。

 頭ではそう理解しているのに、言葉が出てこない。涙が流れた。どうしよう、止まらない。


「華ちゃん」


 肩を抱こうとしてきたカナ先輩から離れ、全力で手を振った。


「へ、平気です。大丈夫ですよ、私、泣いてなんか……」


 自分の中でなにかが崩れていく。私は絨毯を蹴って走り出した。

 一番奥の、人気のないトイレに駆け込んだ。個室の扉を閉めた瞬間、こらえていたものがドッとあふれでた。もう止められなかった。止めたくなかった。


 泣いて、泣いて、泣いて――どれくらい経っただろう。いろんなものが昇華され、消えていった。

 電話が鳴ったのは、すっかり涙が涸れたときだった。相手はカナ先輩。なにか話がついたのかと、おそるおそる電話に出る。


『最初はたしかに、サービスの一環でした』


 聞こえてきたのは春浦さんの声だった。


『自分も眠いのに夜食を準備するのも、あまり好きじゃないプリンを食べるのも、サービスのつもりでした。だけど、鷲見さんが、あんまり嬉しそうに笑うから』


 私はどんな顔をしていただろう。春浦さんに会うのが嬉しくて、ワクワクして、笑っていた記憶しかない。

 今度はカナ先輩の声が響いてくる。


『弁解があるなら自分の言葉で言いなさい、って電話を渡したの。そうね、感情を抜きに成り立つサービスなんてありえないよね。というわけで、華ちゃん』


 出し抜けに名前を呼ばれ「ハイッ」と答えてしまった。


『私はこれで帰るわ。この部屋の二人分の料金は、特別に私が払っておく。彼には休みをとってもらいましょう。そうすればふたりでゆっくり話せるもんね』


「で、でも私」


『大事なことは直接会って話す。営業の基本でしょう? がんばって』


 一方的に電話が切れてしまう。私はトイレを飛び出し、エレベーターホールを目指した。だけど到着したときには一歩遅く、階を示すランプは下に降りている。

 振り返ると春浦さんが佇んでいた。気まずい。だけど。


「春浦さん、いますぐ付き合ってほしいとは言いません。また会いましょう。スイート・ルームの値段は正直高いです。私は外にも遊びに行きたいです。もし、少しでも可能性があるのなら、私と――」


 営業に大事なもの。それは入念な準備と情報収集とコミュニケーション。だけど最後は情熱だ。だから意識的に顎を上げ、まっすぐ春浦さんを見た。


 売り込むのは、他でもない、私の人生だ。


「私と、恋をはじめませんか?」

ご覧いただきありがとうございました。

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