7 ダンナの浮気
確かあれは三ヶ月くらい前の日曜の晩。
テレビでやってた『ダンナの浮気!妻はその時どうするか!?』って番組。
その時の出演者の女の人達は、「絶対許せない! めちゃくちゃ怒る!」とか、
「怒れない。泣いちゃう」とか「わたしも浮気する!」とか、「相手の女に復讐する!」とか、意見は色々で、スタジオは大騒ぎだった。
珍しく家にいた旦那さんと一緒に観て、笑ってた。
私だったらどうするだろうねーなんて言って。
・・でも実際に自分がその立場になったら、全然、笑い事じゃなかった。
見つけてしまった。見てしまった。見たくなかったのに。
あなたの首筋についた、アト。
恋人時代にしか見たことなかった、情熱の痕。
帰って来た あなたに 感じた 違和感。
香水の香り とか、目線とか。
最近ずっと感じてた、ぎごちない 態度の 数々が、その決定的な証拠で一つの答えに行き着いた。気づきたくなかった、事実。
どくり、と嫌な音で 自分の心臓が 鐘を打つ。
けど、
気づいても 無理。
私には、なにもできない。
怒ることも、泣くことも、なにも。
見ないふり、気づかないふりで、
笑顔の仮面を被ってお休みの挨拶をして、寝たふりをする。
一気にいろんな感情が押し寄せてくる。
どうして? どうして? 本当に? どうして? どうして? 本当なの?嘘でしょう? 嫌よ。なんで? どうして? なんで?
イヤだ、知りたくない。やめて。嘘でしょう? 本当に? 悲しい。ユルサナイ。
どうして? どうして? どうして? ドウシテ?
私のこと、嫌いになったの? だから、他の人を好きになっちゃったの?だから、私には触れてくれないの?でも、じゃあどうして私と結婚したの? なんデ?
どうして私のこと、もっと愛してくれないの?
本当に? 相手はどんな人なの? いや。知りたくない。嫌。見たくない。
私と別れるの? 離婚するの? いなくなるの? どこにいくの?
千沙は?
あの子はどうなるの?
なんで?ねえ、なんで?ナんで?私を裏切ったの? ムカつく。許せない。
わたし、なにがダメだったの?なにがいけなかったの? なにが? 悲しいよ。
どうしてなの? 信じられない。
でも、本当は分かってた。知ってた。気づいてた。
とっくに、もうあなたの視界の中に、私はいないって。
気づきたくなかっただけ。知らないふり、してただけ。
あの香水。いつも、同じ、匂い。
その匂いの奥にいるのは、きっと・・・
いや! やめて! やめて!
ぐるぐる、ぐるぐる頭の中も心の中も感情が溢れ出す。
自分の中からドス黒い何かが出てきそうで、
目を閉じて、布団の中で体を丸めて縮こまった。
眠ったのかよく分からないまま朝がきて、アラームが鳴らないように携帯を持ってベッドからそっと出る。
頭が痛い。ガンガン鳴ってる。まるでなにかの警報のように。
部屋を出て、朝の支度。
顔を洗って歯を磨いて・・・服を着替えて・・・朝ご飯を作って。
毎朝する同じ動きだから、何も考えなくても身体が動いてくれて助かった。
出勤するあなたを見送って、幼稚園の送迎バスに千沙を乗せて。
にっこり笑っていつも通り、手を振った。
一人、玄関のドアを閉めたら、ガクンと膝が落ちた。
その場にうずくまる。
でも、頭の中ではぐるぐると感情が回るばかりで上手く考えられない。
頭痛はますますひどくなって、
しばらくそこから、動けなかった。
*****
いつも通り、いつも通り。
呪文のように頭の中でその言葉を繰り返す。
掃除機をかけて、洗濯を干して、買い物に行って。
ぼんやりしていたのか、気がつくと娘が帰ってきた。
ぷくぷくの頬を真っ赤にしておやつをほおばりながら、今日の出来事をすべて話して聞かせてくれる。
可愛い声。可愛いって思うのに、大好きな千沙なのに、・・ごめんね、
なんだかちょっと遠くに感じるの。
誤魔化すように抱き寄せてキスをすると、きゃあと嬉しそうにしがみついてきた。
かわいい。あったかい。
千沙はこんな私でも、一番に必要としてくれる。
うん、もう大丈夫。私には千沙がいるもの。しっかりしなきゃ。
いつもより張り切って晩ご飯を作った。
大好物が並んで千沙は大喜び。
得意のダンスをした後で、お礼だって言って私の絵を描いてくれた。
すっかり普通に戻れたって思った。
だいじょうぶ。
嘘をつくのは得意だし。
明日はみんなに普通に笑える。そう思った。
だから、いつも通り、千沙を寝かせた後、先生に電話した。
それがマズかった。なんで電話したんだろう。
今夜はやめておけばよかったのに。
「もしもし、のんちゃん?」
先生の優しい声を聞いた瞬間、私の中で何かが抑えきれなくなって、ぶわっと泣いてしまった。
「っ・・、せっ・・・っ」
少し混乱して、私は慌てて通話を切った。
プルル、と電話が鳴る。
やめて、先生。出れないんだってば。今。
ぼろぼろと涙は流れて、ひっくひっくと子どものようにみっともなく嗚咽が漏れる。なにもしゃべれない。
ピッとブチ切り。サイテーだ。
素早くメールで、謝罪と明日掛け直しますって伝える。
それなのに、また電話がかかってきる。
そりゃそうだよね。わけわかんないし、気になるよね。
でも、私は一度泣き出しちゃったらなかなか止められないタチで。
眠ってる娘を起こさないように、声を抑えるのに必死で、とても電話なんて取れるわけない。
同じ文面をもう一度送って電源を落とし、クッションにぎゅっと顔を埋めた。
ごめんなさい、先生。
三十過ぎたのに、思春期の子どもみたいに情緒不安定で、情けない。
止まれ、涙。落ち着け、私。