6 先生のアダ名
「先生、あの、私、・・・私ね、三歳になった娘がいるの。
四年前に、結婚したの」
意を決して告げると先生は「そうなんですか」と一言。
そして、「女の子は苗字が変わるから大変ですね」と続けた。
「うん」
「僕も引っ越しして住所変更した時、大変でした」
「うん。通帳も免許証もパスポートも全部、お役所に名義変更の書類出しに行ってね、めんどかったよー」
「え? のんちゃん、車、運転するんですか? うわあ、信じられない!」
コワイコワイとおどけた声を出す先生。
何だか急に、申し訳なく思えた。いっぱい気を遣わせてたって。
「・・・・・先生、何か言い出せなくて、ごめんね。
別に、離婚したとか、別居してるとか、旦那さんと仲悪いとか、そういうんじゃないから。気、遣わせちゃったよね。ごめんなさい」
「いや。落ち込んでるとかじゃないならいいんですよ」
「うん、ごめんね」
「僕は未だ独り身ですし、君ほど恋愛経験もないし、アドバイスもなにもできそうにないですから」
あははと笑う先生。
先生、結婚してないんだ。勝手なことに、私はホッとした。
自分のことは棚にあげて、既婚者の人と毎晩電話してるのはマズイかなとか思ってたから。
「先生、花のキャンパスライフで恋人つくらなかったの?」
興味津々で聞いてみる。だって、先生背はそんなに高くないけどスリムだし、かっこいいからモテそうなのに。
十年前の塾時代でも先生が好きってコはチラチラいたの覚えてる。
「僕は浮いてましたから。何しろ、若者ばかりの中に一人オッサンですし。
のんちゃん、僕の大学でのアダ名教えてあげましょうか?」
先生が深妙な言い方をするから、私は思わずゴクリとツバを飲んだ。
「う、うん」
「サイボーグの榎本、だそうです。主食は食パンと野菜ジュース。一日二時間の睡眠で二十時間勉強できるそうですよ」
「わあお。すごい。先生ってば、いつの間にそんな超人に・・・」
ヤバい。ウケる。
我慢しようとした笑いが抑えられなくて、ぶはっと吹き出してしまった。
「あはは、おっかしー。先生、まだ食パン生活なのー?」
そう。塾の頃も、いつも食パンを食べているって話してた。
ご飯は炊かなきゃなんないし、パスタもうどんも茹でなきゃなんないし、焼きそばは焼かなきゃなんないし。食パンはそのままジャムを塗るだけで
食べられるし、百円ちょっとで五枚だから経済的だって、珍しく力説してた。
掃除も洗濯もできるのに料理は嫌いな先生は、毎食毎食飽きもせずそれを繰り返しているらしい。
十年以上。
「みんなには言いませんでしたけど、夜は違うメニューですよ。タンパク質が足りないですし」
「知ってる。お肉を焼くんでしょ? 塩コショウで」
「え!? 僕、のんちゃんに話しました?」
「聞いたよー。インパクトがありすぎて忘れられないもん」
その日の電話はいっぱい笑って通話を終了した。
*****
次の日の夜はこんな話をした。
「なんか、不思議だなー。私、五年くらいOLしてたのよ、先生。
きちっと制服着て、髪もピシッと結って、申し訳ありませんとか承りました、とか、ばっちり敬語使って。ちゃんとオトナ女子、してたんだから。
なのに、こうやって先生と話してると、ホントに高校生に戻ったみたいな感覚になるんだもん。
電話で話してるから余計に、かな。先生、話し方とか、ちっとも変わらないし」
「のんちゃんだって変わらないでしょう」
「それは、今は先生と話してるから・・。普段はもっと・・もっと違うよ?」
「そうですか。それは見てみたいですね」
はははと笑って先生はそう言う。
むむ。信じてないな。
先生にとって私は高校生の時のままなのかな。
照れ臭いけど、私も頭の中の先生は昔の姿だし、お互い様だ。
次の日も、その次の日も。
私達の短いたわいもないやり取りは、その後密やかに続いた。